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日本の元号 (1989-2019) ウィキペディアから
昭和の後、令和の前。大化以降231番目、247個目[注 1]の元号。明仁(第125代天皇)の在位期間である1989年(平成元年)1月8日[注 2]から2019年(平成31年)4月30日まで。「元号法(昭和54年法律第43号)」に基づき定められた最初の元号であり、戦後初めて制定された元号(実質の戦後最初の元号)である。また、歴代で4番目に長く続いた元号である。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇の崩御に伴いその皇太子であった明仁親王が第125代天皇に即位した。この皇位の継承を受け、同日、1979年(昭和54年)に制定された「元号法(昭和54年法律第43号)」に基づき「元号を改める政令(昭和六十四年政令第一号)」が公布・施行され、その翌日を「平成元年1月8日」に改めることで改元された。これは、1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法のもとでの最初の改元だけでなく、日本の元号史上初めて、法令に基づいて改元が行われたことであり、戦後初めての改元でもあった。なお、「元号を改める政令(昭和六十四年政令第一号)」は「昭和64年」において最初で最後の政令となった。
なお、崩御を前提とした手続きは事前に行えないため、改元の際は崩御当日に「元号選定手続について(昭和54年10月23日閣議報告)」に基づいた正式な手続きに入り、翌日に改元が行われた。崩御当日に電話で正式な委嘱を受けた各界の有識者による「元号に関する懇談会」は約20分間意見交換しただけで、重々しい雰囲気の中で慌ただしく新元号は決められたという[1]。ただし、水面下で準備は進められており[2][3][4]、昭和天皇が吐血し容体が悪化した1988年(昭和63年)9月に、元号は最終候補の3案に絞り込まれていた[5]。
内閣内政審議室は、昭和天皇崩御の日(1月7日)の早朝、10ほどの候補から最終的に「平成」(へいせい)「修文」(しゅうぶん)「正化」(せいか)の3案に絞り、内閣総理大臣竹下登(竹下内閣)の了承を得た。その日の午後、「元号に関する懇談会」(以下の8人の有識者で構成)と、国会内の常任委員長室に待機していた衆議院正副議長(原健三郎・多賀谷真稔)及び参議院正副議長(土屋義彦・瀬谷英行)に「平成」「修文」「正化」の3つの候補を示し、意見を求めた[6]。
その懇談会の席上で、当時の内閣内政審議室長であった的場順三が、とっさに、明治以降の元号のアルファベット頭文字を順に並べ、「M(明治)・T(大正)・S(昭和)の後はHが据わりが良いでしょう」と言った[7][8][注 3][9]。
氏名 | 肩書(当時) | |
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広域への影響力 | 所属 | |
池田芳蔵 | 第4代(1973年 - 1979年)三井物産代表取締役社長 | 第14代(1988年 - 1989年)NHK(日本放送協会)会長 |
久保亮五 | フランス科学アカデミー名誉会員 | 慶應義塾大学理工学部教授 |
小林與三次 | 第14代(1985年 - 1991年)日本新聞協会会長 | 読売新聞社代表取締役社長 |
中川順 | 第7代(1984年 - 1990年)日本民間放送連盟会長 | テレビ東京代表取締役社長 |
中村元 | インド哲学者、仏教学者 | 東京大学名誉教授 |
西原春夫 | 日本私立大学連盟会長 | 第12代(1982年 - 1990年)早稲田大学総長 |
縫田曄子 | NHK委嘱解説委員(1975年 - 1988年) | 市川房枝記念会理事長 |
森亘 | 第13代(1985年 - 1989年)国立大学協会会長 | 第23代(1985年 - 1989年)東京大学総長 |
その後に開かれた全閣僚会議でも「平成」で意見が一致し[11][12]、同日14時10分から開かれた臨時閣議において新元号を正式に「平成」と決定した。14時36分、小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表した。
只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
新しい元号は、『平成 』であります。 — 内閣官房長官 小渕恵三
と述べたあと、河東純一の揮毫した新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた(#経緯も参照)。なお、新元号の発表の際に、口頭での説明は難しいので、視覚に訴えるように「書」として発表したのは、石附弘秘書官のアイディアである[11]。
同日、「元号を改める政令(昭和六十四年政令第一号)」は新天皇の允裁(いんさい)[注 4]を受けた[13]後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された[14]。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された[14]。
明治から大正、大正から昭和への改元の際と異なり[注 5]、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサを初めとするOAに伴うコンピュータプログラムの変更を行うためと報道された。
最終候補の3案の一つであった「平成」を提案したのは、東洋史学者の山本達郎である[15][16][17][5][11][18][19]。
当時、内閣内政審議室長として新元号選定に関わった的場順三[2]によると、元号の最終候補3案は極秘裏に委嘱していた山本、目加田誠、宇野精一の3氏の提案[注 6]によるものだという。『文藝春秋』での佐野眞一の取材に対して、的場は「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と述べ、改元前に物故した諸橋轍次、貝塚茂樹、坂本太郎らの提案はすべて廃案になったとしている[25]。この取材以前には竹下内閣当時の内閣官房副長官であった石原信雄も物故者の案は没になる旨の証言[26]をしていた。一方で、「平成」という言葉を知っていたと目され、的場が新元号選定に関わる前に物故していた諸橋や安岡正篤らの案の一覧表を竹下総理ほか政府関係者が見たという政府関係者の証言[21][27]もあり、これは物故した学者の考案した元号案は除外して廃案になるという石原や的場の証言と食い違う。また、封をしたまま三原朝雄総理府総務長官が大平正芳総理に提出し、そのまま金庫に納められたという資料[28]の所在を竹下総理[29]は福岡から官邸に訪ねてきた三原[30]から聞いたのか不明となる。
的場内閣内政審議室長は前任者から引き継いだ候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったので、代わりの学者を秘密裏に探すため文部省職員と2人だけで選定の準備作業に入ったが、既に天皇の容態悪化を受けてマスコミの報道が過熱しており、学者の自宅前には多数の記者が張り込むなどしていたため、本人が参加する学会に紛れ込んでコンタクトを取ったという[31]。
竹下内閣当時の内閣官房副長官であった小沢一郎は、「総理のところに上がってきた案は『平成』と『化成』の二つであり、総理と小渕さんと僕の3人で『平成』を選んだ」ことを証言している[32]。
竹下首相が総理を降りた後、1990年(平成2年)1月に行った講演の際には元号法制定以降に委嘱した学者の中に陽明学者の安岡正篤がいた旨を述べたとされ、そこから「平成」は安岡が発案した説[33]が広まった。しかし、安岡も昭和天皇の崩御前に物故しているため安岡の発案ということは有り得ない[34]。的場は「実際、『平成』の考案者は安岡正篤という誤った説も広まっていたので、歴史の真実を歪めないためにも、新元号選定の経緯を明かすようになりました」と述べている[11]。竹下は首相退任後に記した著書[35]の中で、「平成」は生存している立派な学者の考案である旨を証言している一方で、首相退任後も竹下の私邸に通っていた共同通信社記者の後藤謙次が「考案者は安岡氏ではないか」という話を振ると、「たとえ死んでも、違う人に出してもらう手もあるわな」と竹下がぽつりと漏らしたという報道[36]もある。渡部恒三も「『平成』の原案をつくったのは安岡先生だと思う。まだ昭和天皇が亡くなる前だから、あんまりおおっぴらにできないけど、竹下と小渕と俺の三人だけで相談して、あの先生に元号を作ってくれ、とこっそり頼みに行ったことがある」と証言している。ただし、「竹下の元秘書の上野は、安岡の晩年の秘書から、『平成』は安岡先生の原案ではない、と聞いている。」という有力な反論もある[25]。
新元号の発表時に小渕内閣官房長官が述べた「平成」の典拠は漢籍で、以下の通りである。※漢文中の太字箇所から元号が採られた。
地平天成
(
「平成」は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である[37][38][39][40][41]。日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(北周)や「成化」(明)などの外国の元号や13代成務天皇の諡号には使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号といえる。
江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」があり[42][43]、出典も同じ『尚書(書経)』大禹謨からとされている[44]。
なお、「平成」の決定の際に漢学者らからは「同じ記述がある『春秋左氏伝』から引用すべきだったのではないか」や「出典箇所(書経の該当項目)は偽書の偽古文尚書であり、信用性に欠ける」といった意見もあった。
小渕内閣官房長官(当時、後に首相)が、総理大臣官邸での記者会見で使用した台紙に「平成」と文字を揮毫したのは、内閣総理大臣官房(当時。中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職の河東純一である。
小渕内閣官房長官の秘書官だった石附弘も「大正」からの改元時の「昭和」の発表時には、ラジオでは漢字の雰囲気を伝えられず、「光文事件」の誤報もあり、大衆の期待感が高まらなかったことを受け、テレビの生放送により「新時代への期待感や雰囲気」を醸成できると考えており、テレビ会見を重視していた。揮毫した河東も「確たる未来と新時代への力強さを見せるため」あえて文字のかすれを抑えるなど、映像が流れた際の見栄えを考慮していたという[31]。
文字だけではなく、披露する際の動作も事前に考えており、印象を残すため半紙を顔の横に掲げることにした。また、当初は半紙をアクリル板に貼り付ける予定だったが、直前にマスコミに相談したところ、フラッシュが反射して見えないとの指摘を受け、「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」の構成となった[31]。
河東は2005年(平成17年)12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令および表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した[45]。
発表後の奉書紙については、発表後の扱いについて取り決めがなされておらず[注 7]、実際に掲げられた正本が竹下首相に、予備の副本が小渕官房長官にそれぞれ贈呈されて私有物扱いとなり、公式には行方不明となっていた[46]。後に、竹下の孫(次女の息子)である歌手・タレントのDAIGOが出演したTBSテレビ等の番組において竹下邸一階の応接間に飾られて保管されている様子が紹介されたり[47][48]、その本物の奉書紙を許可を得て持ち出して披露した[49][50]ことで行方が判明した。その後、国立公文書館が平成21年度秋の特別展「天皇陛下御在位20年記念公文書特別展示会」[51]を開催するために、竹下家と連絡を取って奉書紙を2009年9月に借り受け、特別展が終わり返却しようとしたところ、竹下家から保存の意向を受けて、翌2010年3月に正式に寄贈されることとなった[15][46][52]。これを受けて令和の奉書紙は、発表当初から公文書として扱うことが決定した[46][53][54]。
国立公文書館では簿冊標題「平成(元号)の書」としてスキャン画像が公開されているが、原本は閲覧できない[55]。同館の常設展示室には通常、奉書紙の複製が展示されているが[56]、期間を限って原本を特別展示することもある[57]。なお、国立公文書館のショップではスキャン画像を元にしたクリアファイルが販売されている[58]。
「平成」発表後、それにちなんで命名された団体名や地名などは多い(後述の「平成を冠するもの」参照)。「平成」の選定過程で、政府は団体・企業や個人の名前に使われていないかを調査したが、インターネットによる事物検索が2024年(令和6年)現在のように普及していない時代であったこともあり、事前調査にも限界が生じて元号と同じ漢字表記となる人名や地名の把握は不完全であった[31]。
そのため、人名では「たいら しげる」という読みの男性や、地名では「へなり」と読む岐阜県武儀町(現・関市)の小字などが、元号の発表以前から存在した「平成」として確認されている。元号の選定に携わった的場は中華料理店の屋号まで調べていたが小字までは手が回らず、これらの偶然の一致について「仰天した」と回想している[31][59]。
このほか、三重県埋蔵文化財センターが開催する「おもろいもん出ましたんやわ展」の2015年(平成27年)開催分で、松阪市の朝見遺跡から出土した「平成」と書かれた平安時代中期の墨書土器が公開された[60][61][62][63][64]。櫛田川の氾濫を鎮めるための祭事に使われたと推定している。
2016年(平成28年)8月8日に第125代天皇が「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(国民に向けたビデオメッセージ)を表明し、これ以降、譲位に関する議論が活発化した。
2017年(平成29年)、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)」が、第3次安倍第2次改造内閣(安倍晋三首相)により国会の常会(通常国会)に提出され、衆議院と参議院の両院で原案の通りに可決されて6月9日に法律となり、同月16日に公布された[65]。同法第二条は「天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。」と定め、施行期日は附則第一条で、公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日とされた[65][66][67]。同年12月1日に開催された皇室会議と同月8日の閣議を経て、2019年(平成31年)4月30日をもって天皇が退位することが正式に決定された。さらに12月13日、同法の施行期日を「平成31年4月30日」とする政令が公布され[68]、同法の規定によって天皇が同日に退位し、第一皇子・皇太子徳仁親王が翌5月1日に即位するという日程が決まった。この皇位の継承を受けて、元号法(昭和54年法律第43号、本則第2項:元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。)の規定に基づき、5月1日に元号が改められる見込みとなった。一方で、新元号の発表は改元1か月前の4月1日になることが決まった。
2019年(平成31年)4月1日、元号法に基づき政府は平成に代わる新しい元号を「令和」(読み方:「れいわ」)と発表した[69][70]。「昭和」から「平成」への改元時をほぼ踏襲して、最初の発表は午前11時41分から菅義偉内閣官房長官により行われ、続いて12時5分より安倍晋三首相による談話が発表された。同日、元号法(本則第1項:元号は、政令で定める。)に基づき、元号を改める政令(平成三十一年政令第百四十三号)が退位される天皇によって公布され、同日付の『官報』に掲載された[71][14]。「令和」の読み方である「れいわ」は同日の内閣告示で示された[72][14]。
「一世一元の制」が定められた明治以降を経て1979年(昭和54年)に施行された「元号法」の下で初めての事であり、皇室史上においても、江戸時代後期にあたる1817年5月7日(旧暦:文化14年3月22日)の光格天皇から仁孝天皇への譲位以来実に202年ぶりの先帝の退位に伴う皇位継承と改元が行われた。2019年(平成31年)4月30日、天皇退位特例法に基づく第125代天皇の退位の儀式である退位礼正殿の儀が行われた。そして、翌5月1日午前0時、第125代天皇は退位され上皇となるに伴い皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し[73]、30年余り続いた平成時代は終わりを迎え、元号を改める政令が施行されて、令和に改元された。
「平成」の期間は計11,070日(30年と113日)となり、これは日本の元号では「昭和」(62年と14日)、「明治」(43年と281日)、「応永」(33年と313日)に次いで4番目の長さである(5番目は「延暦」の23年と251日)[注 8][74][75][76][注 9]。
1989年(平成元年)1月8日から1997年(平成9年)まで。
日本国内では、昭和末期から不動産や証券への投機熱でバブル景気が起きており、日米貿易摩擦を受けて日米構造協議が始まった。
1990年(平成2年)には湾岸戦争が勃発し、小切手外交を批判された日本は初の自衛隊海外派遣を行うこととなった。翌年の1991年(平成3年)にはバブル経済が崩壊した。 絶頂にあった当時の日本は米国からも脅威論がでるほどであったが、バブル崩壊により事態は急変する。日本の社会は失われた10年と呼ばれた不況の時代が続き、団塊ジュニア世代の学生は就職氷河期に見舞われた。日本の政治は政界再編による新党の結成が活発化して非自民・非共産連立政権となり55年体制が崩壊した。昭和戦後期の冷戦時代に敵対した既成政党の自民党と社会党が政権維持のため自社さ連立政権を樹立した。また、経済成長期に日本政府と企業が築いた終身雇用・年功序列・女性の早期退職・護送船団方式のサラリーマン主流社会(企業社会)が崩壊して、内需縮小とデフレが始まる。山一證券を始めとする大手金融機関が次々と破綻していった。
1995年(平成7年)は「戦後50周年」の節目として村山富市首相による村山談話があり、1月17日には阪神・淡路大震災が発生、3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。不況に加えてノストラダムスの大予言や2000年問題など世紀末の不安が1990年代に盛んに叫ばれ、カルト団体の浸透が問題になった。
1998年(平成10年)から2007年(平成19年)まで。 55年体制が崩壊した中、自民党は単独での再建を諦めて、創価学会を後ろ盾とする公明党との自公連立政権が始まった。
日本はアメリカ一極体制の下に悪の枢軸(イラク・イラン・北朝鮮)への制裁外交を推進し、イラク戦争やアフガニスタン紛争など対テロ戦争を主導し、日本政府も賛同した。
中国の経済発展により、日本の最大貿易相手国がアメリカから中国に変わった。
小泉内閣が自衛隊イラク派遣を行い、聖域なき構造改革と称して政治や経済のアメリカニゼーションを一層強めた。輸出産業の好転によって一時的に経済状況が好転し、いざなみ景気を迎え、戦後最長の好況期を迎えた。富裕層や外需関連業種を除いて景気回復の実感はないともされ、「実感なき経済成長」と言われた。さらに台湾・韓国が日本のお家芸であった電子産業の勢力図を次々と塗り替えていった。
2007年(平成19年)、アメリカのサブプライムローンを引き金に世界恐慌の再来と呼ばれる世界同時不況が勃発した。世界では、リーマンショック・ドバイショック・GM破綻などが起きた。世界中で急激な信用収縮が発生し、アメリカ国債の大量引受でアメリカの財政を買い支え[81]、中国が大規模な景気刺激策を断行して世界の国内総生産(GDP)を牽引し[82]、日本のGDPを超えた。中国とロシアは国連安保理などで影響力が低下したアメリカと度々対峙するようになって第二次冷戦とも評された[83][84]。
平成20年代は2008年(平成20年)から2017年(平成29年)まで、平成30年代は2018年(平成30年)から2019年(平成31年)4月30日まで。
日本では平成20年代から人口減少社会に入り、就職氷河期が再来して派遣切りなど非正規雇用者の解雇が相次いだ。格差社会が問題となり、自公政権での新自由主義的な経済政策への批判が強まり、年金記録問題も発覚し2009年(平成21年)の2009年の衆院選で自民党は下野し、民社国連立政権が誕生した。
2011年(平成23年)には東北地方太平洋沖地震が発生した。この地震に起因する東日本大震災および福島第一原子力発電所事故が発生し、太平洋沿岸自治体で津波による居住地や職場の喪失、放射能汚染により福島県の浜通りの一部から被災地域の多くの人が移住を余儀なくされ、また、地震と原発事故に伴い全国各地の原子力発電所が停止して電力不足が懸念され、東日本大震災による電力危機から節電が余儀なくされた。
さらにアメリカとの普天間基地移設問題、ロシアとの北方領土問題、中国・台湾との尖閣諸島問題・領海侵犯問題や韓国との竹島問題などの領土問題や反日運動が激化した。
民主党政権はこれら問題に対応しきれず、2012年(平成24年)12月に再び政権交代が起き、自公政権が復帰した。この間、第1次安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田、と総理大臣は目まぐるしく変わった。第2次安倍内閣はアベノミクスを掲げ、政策の一環としてデフレ脱却のための金融緩和、公共事業による減災・防災の推進、産業の空洞化対策としての法人税減税、地方創生、全国民に12桁の番号を割り振るマイナンバー(個人番号)制度の導入、女性の雇用促進、働き方改革の推進、外国人労働者の受け入れ拡大、環太平洋パートナーシップ協定への交渉参加などの政策が推進された。
上記の原発事故や外交問題があったものの、外国人観光客によるインバウンド消費は増加した。2013年(平成25年)の第125次IOC総会で2020年東京オリンピックが決定し、半世紀ぶりの夏季五輪開催に観光業がにわかに活気づいた。
2016年(平成28年)、象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことばを受けて、2019年(平成31年)4月をもって平成が終了することが決定した。
2017年(平成29年)より北朝鮮によるミサイル実験が本格化。日本の領海に次々着弾する事態となった。
2019年(平成31年)4月1日、新元号は「令和」と発表された。
政権与党は、以下の変遷である。自由民主党・公明党による自公連立政権と移り変わり、自民党の単独政権から連立政権の時代となった[85]。
平成期に昭和戦後期の労組系政党の日本社会党と民社党(55年体制下の既成政党)と都市型革新市民政党の社会民主連合が1990年代に解党して、昭和戦後期の労働者政党が消滅した。
一方で、新党が相次いで結成された。新進党・民主党・民進党などの二大政党の一つから、一時的に結成されたミニ政党まで)などの国政政党や新しい地域政党や宗教政党や院内会派の結成があった。
しかし新しい政党も短命になった例が多く、政党間の合併や政党の分裂が相次いだ。平成後半になると、昭和戦後期の中選挙区制度の時代を受け継ぐ国政政党は、組織力と支持基盤がある自由民主党・日本共産党、再結成した公明党、名称を変えた社会民主党のみとなった。
橋本内閣の総理府に行政改革会議が設置されて、中央省庁等改革基本法が成立した。2000年(平成12年)の中央省庁再編により、官邸主導が強まった。2001年(平成13年)から2006年(平成18年)にかけての小泉政権下では社会保険庁の年金問題が表面化して、官僚による無駄使いや天下り批判がされ脱官僚の声が強まり、政権主導の改革を推進した。
2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙で最後の明治生まれの桜内義雄と原健三郎が議員引退して明治生まれが全て引退して、2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙で、中山太郎が落選して大正生まれ(大正世代)の議員がいなくなり全議員が昭和生まれとなった。1990年代は竹下派七奉行や清和会四天王と呼ばれた政治家が活躍した。20世紀の間は大正生まれから、昭和一桁生まれ・昭和10年代生まれの政治家に世代交代をする移行期であり、大正生まれ(中曽根康弘・竹下登・宇野宗佑・宮澤喜一・村山富市・梶山静六など)から昭和一桁生まれ(土井たか子・海部俊樹・武村正義など)・昭和10年代生まれ(小沢一郎・羽田孜・細川護煕・橋本龍太郎・小渕恵三など)までの政治家が1990年代の政界を主導したが、竹下派七奉行や安倍派四天王を中心に2000年代に入るとこれらの政治家の多くが死去したり引退した。自由民主党では自由民主党総裁選挙での自由民主党の派閥争いが弱体化したが総理大臣の座を巡って、ネオ・ニューリーダーと呼ばれた政治家が活躍して、金竹小・安竹宮・YKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎)・麻垣康三・NAISの会(根本匠・安倍晋三・石原伸晃・塩崎恭久)などと呼ばれた政治家が注目された。2000年代になると、昭和10年代生まれ(森喜朗・小泉純一郎・亀井静香・小沢一郎・福田康夫・麻生太郎など)・昭和20年代生まれ(鳩山由紀夫・菅直人・岡田克也・安倍晋三など)が主導権握り、2010年代になると、昭和30年代生まれ(前原誠司・野田佳彦など)の政治家が主導権を握り始めた。与野党で戦後生まれの党首が誕生して、国会議員は大日本帝国期の1945年(昭和20年)以前に誕生した戦前生まれ・戦中生まれの政治家より、団塊の世代など第二次世界大戦の後に誕生した戦後生まれの政治家の方が多数となった。新党ブームがあった1990年代には、1960年代生まれ(新人類・バブル世代)が、小泉チルドレン・小沢ガールズなどが注目されるようになった2000年代には、1970年代生まれ(団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニア世代)が国会議員となった。2010年代には1980年代生まれが国会議員となった。
20世紀までは、高学歴・実業家・世襲議員などのエリート階層や労組出身の国会議員が一般的であったが、21世紀に入り、就職氷河期を経験した世代が台頭するにつれ、フリーター(元非正規労働者)から転身した杉村太蔵・太田和美など一般的な若者の経歴と共通点のある政治家も登場した。
昭和時代の末期まで長らく衆議院では女性議員の比率が約1%の少数であり、1986年(昭和61年)の衆参同日選挙の結果では、衆議院の女性議員の人数が7人で割合が1.4%で、参議院の女性議員の数が22人で割合が8.7%であった。平成初の国政選挙となった1989年(平成元年)の第15回参議院議員通常選挙でマドンナ旋風が吹き日本社会党を中心に女性候補が大量当選して以来、2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙の結果では女性議員が54人となり割合が11.3%となり、2010年(平成22年)の第22回参議院議員通常選挙の結果では女性議員が44人となり、割合が18.2%となり、徐々に女性政治家は増加している。
小選挙区比例代表並立制に選挙制度が変わり自民党と民主党の二大政党は、小泉チルドレンや小沢チルドレンなどのサラリーマン化した議員を輩出したが、全般的には世襲政治家が優勢となり、小選挙区制導入後の世襲議員割合は80%に達した。革新政党退潮とともに中選挙区制時代の労組出身者は激減し、昭和自民党の典型だった官僚出身議員も力を失った。なお平成年間で世襲でない総理大臣は 宇野宗佑、海部俊樹、村山富市、菅直人、野田佳彦、微妙なのが森喜朗(親が町長)である[90][91]。
1996年(平成8年)に内閣総理大臣補佐官制度が導入された。1999年(平成11年)に国会審議活性化法が成立した。2001年(平成13年)に国会における政府委員制度および政務次官が廃止されて、副大臣と大臣政務官が新たに設置された。内閣府副大臣・復興副大臣・総務副大臣・法務副大臣・外務副大臣・財務副大臣・文部科学副大臣・厚生労働副大臣・経済産業副大臣・環境副大臣・防衛副大臣・国土交通副大臣など副大臣制度が創設された。
内閣府大臣政務官・総務大臣政務官・法務大臣政務官・外務大臣政務官・財務大臣政務官・文部科学大臣政務官・厚生労働大臣政務官・経済産業大臣政務官・環境大臣政務官・防衛大臣政務官・国土交通大臣政務官・復興大臣政務官など大臣政務官制度が創設された。
内閣府設置法によって内閣府が創設された。阪神・淡路大震災の教訓や東日本大震災への対応から復興対策担当大臣が設置された。福島第一原子力発電所事故対策の必要から原発担当大臣が設置されて、原子力安全庁(原子力規制庁)の設置計画が閣議決定された。2011年(平成23年)に東日本大震災復興基本法が成立して、2012年(平成24年)2月に復興庁設置法が施行されて、復興庁が設置された。同時に内閣の定員である担当大臣枠を1人増加させる法案が可決された。急速に進んだ少子化対策として内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)と内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)が創設された。消費者庁を管轄する消費者及び食品安全担当大臣・金融庁を管轄する金融担当大臣・沖縄振興と北方対策を管轄する沖縄及び北方対策担当大臣が創設された。経済財政諮問会議を管轄する経済財政政策担当大臣が設置された。拉致問題対策本部のトップである拉致問題担当大臣が創設された。2015年(平成27年)10月1日に、東京オリンピック対策とスポーツ振興のためスポーツ庁が、軍事兵器調達のため防衛装備庁がそれぞれ設置された。
一時的に規制改革担当大臣・科学技術政策担当大臣・防災担当大臣・食品安全担当大臣・青少年育成及び少子化対策担当大臣・個人情報保護担当大臣・産業再生機構担当大臣・食育担当大臣・公務員制度改革担当大臣・再チャレンジ担当大臣・イノベーション担当大臣・地方分権改革担当大臣・国民生活担当大臣などが設置された。民主党政権に入ってからは地域主権推進担当大臣・「新しい公共」担当大臣・原子力損害賠償支援機構担当大臣・原子力行政担当大臣・宇宙政策担当大臣・原子力防災担当大臣・福島原発事故再生総括担当大臣が設置された。第2次安倍内閣で国土強靭化担当大臣・教育再生担当大臣・国家戦略特別区域担当大臣、第2次安倍改造内閣で地方創生担当大臣や安保法制担当大臣を設置、第3次安倍第1次改造内閣で一億総活躍担当大臣を設置、第3次安倍第2次改造内閣で働き方改革担当大臣を設置。
海部内閣で森山真弓が女性初の官房長官となり、小渕内閣で野田聖子が女性初の郵政大臣、小泉内閣で田中真紀子が女性初の外務大臣、第1次安倍内閣で小池百合子が女性初の防衛大臣、第2次安倍改造内閣で、高市早苗と小渕優子が、それぞれ女性初の総務大臣、経済産業大臣となった。女性大臣は昭和時代の男性のみ女性無しから、第1次小泉内閣、第2次安倍改造内閣女性大臣5人を最多に女性が平均1人から2人の割合で入閣するのが当たり前となった。1993年(平成5年)8月6日に日本社会党出身の土井たか子が女性初の衆議院議長(第68代)となり、2004年(平成16年)7月30日に自由民主党出身の扇千景が女性初の参議院議長(第26代)となる。
民主党政権では国家戦略室が設置されて、行政刷新会議による事業仕分けが実施された。2011年(平成23年)の野田内閣では政策仕分けが実施される。
2010年(平成22年)1月1日に社会保険庁長官をトップとする厚生労働省の外局の社会保険庁が廃止されて日本年金機構となる。
国税の徴収・課税をする国税庁と、国民年金と厚生年金など公的年金の運営業務をする日本年金機構を統合して、新たに歳入庁を設置する構想も浮上した。
2006年(平成18年)に内閣官房内に「電子政府推進管理室 (GPMO)」を設置した。さらに2012年(平成24年)には政府情報化統括責任者(政府CIO)を設置して、各省庁の情報システム刷新に関する指揮やマイナンバー制度(「国民総背番号制#日本」参照)に伴うシステム調達の監査、各省庁の調整を担当することが決まった。
1989年(平成元年)に、7月の第15回参議院議員通常選挙で自民党は過半数割れの大敗をした。社会党が マドンナ旋風で一人勝ちをして参議院は与野党が逆転した。以下の点が自民党の敗因として挙げられる。
日本社会党は1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙でも勝利したが、自民党も安定多数で勝利したことで政権獲得に失敗する[92]。1991年(平成3年)の統一地方選挙敗北の責任で土井たか子委員長は辞任した。後任の党首に田辺誠が委員長となったがPKО牛歩戦術や消費税反対を唱えた日本社会党は、小沢一郎による政治改革議論とソ連崩壊・ベルリンの壁崩壊など東側諸国の共産主義崩壊の影響を受けて衰退の道を辿る。
小沢一郎幹事長の下、自民党政権は竹下登と金丸信を中心とする自民党の最大派閥であった竹下派(経世会)支配で政界が安定するが、1992年(平成4年)に経世会の会長の金丸信が東京佐川急便事件で逮捕されたことをきっかけに小渕派と小沢一郎を中心とする羽田派に分裂した[93]。
小沢は衆議院議員選挙制度の小選挙区への変更をする利点として以下の点を、自身の著書で政治改革論議として強調をした。
宮澤喜一首相がテレビ番組での発言で約束した選挙制度改革を先送りし、これに反発した小沢一郎ら自民党の一部が造反して内閣不信任決議に賛成、嘘つき解散に追い込んだ。小沢一郎は自民党を離党して新生党を、政治改革グループのユートピア政治研究会は新党さきがけを旗揚げした。
新党ブームのなか行われた1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙で日本新党・新生党・新党さきがけが躍進し、自民党は政権維持に失敗した。『山花動く、赤松燃える』を選挙スローガンとして、選挙戦術で動く燃える労働者政党の社会党が動くを合言葉にした日本社会党も70議席の最小議席で大敗、東京都は日本社会党の当選者は山花貞夫委員長1人のみで労働組合の組織票が稼働せず伊藤忠治副書記長が落選した。日本社会党右派の赤松広隆書記長など党内改革派はデモクラッツを旗揚げしたが山花貞夫委員長が社会党大敗の責任で辞任して社会党左派の村山富市が日本社会党委員長となった。
そして日本新党・新党さきがけ・新生党・公明党・民社党・日本社会党・社会民主連合・民主改革連合の7党1会派が連立した非自民・非共産連立政権の細川内閣が成立した。細川内閣成立により、自民党が初めて野党に転落して55年体制は崩壊した[94]。
非自民・非共産連立政権は短命に終わった。1994年(平成6年)6月に、自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣(自社さ連立政権)が成立。総理自体は社会党であるものの早くも政権に復帰した。これに対峙する非自民・非共産野党勢力が、1人しか候補者が樹立できない小選挙区制となった第41回衆議院議員総選挙で勝利するために新・新党を結成することとなり、新生党・公明党の一部[注 10]・民社党・日本新党・自由改革連合[注 11]が合併、海部俊樹と小沢一郎率いる巨大野党新進党を結成した。
新進党結党により、長らく第2党の地位を守り続けてきた日本社会党は第3党に転落。そして日本社会党時代最後の国政選挙になる1995年(平成7年)の第17回参議院議員通常選挙で敗北すると、社会党右派(山花貞夫前委員長や新派閥「デモクラッツ」の赤松広隆ら)による社会党・新党さきがけ連合の第3極新党結成運動、社会党急進左派(村山内閣の自衛隊容認反対派)による新社会党結党運動といった分派活動が勃興し、社会党左派執行部はイメージチェンジのため社会民主党(社民党)に党名変更した。
しかし、自社さ連立政権・新進党勢力に属しない第三の道を目指す市民リーグが結成されて、さらに発展した新党として友愛を理念とする鳩山由紀夫・菅直人によって第三極(ゆ党)と呼ばれた旧民主党が結党されると、旧日本社会党勢力はこの波に飲み込まれ、旧民主党入党組と社民党残留組に分裂した[95]。
1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙では自民党が復調し、社民党・新党さきがけ・新進党は議席を減らした。自由民主党対新進党の二大政党制を目指した新進党であったが党内対立が相次いでおり、新進党は初代小沢自由党・新党友愛・新党平和・国民の声・黎明クラブ・改革クラブに分裂して解体され、多くが1998年(平成10年)結党の(新)民主党に取り込まれる。
平成一桁の間に政治体制は目まぐるしく移り変わった。
自民党・小沢自由党・公明党の自自公連立政権、自民党・公明党・保守党の自公保連立政権と二転三転したのち、2003年(平成15年)に民由合併で自由党が民主党に合流して自民党・公明党の自公連立政権と民主党による一種の二大政党制が成立した。
アメリカ同時多発テロ事件やイラク戦争を受けた防衛予算増加、北朝鮮問題、歴史認識問題などでナショナリズムの流れが拡大し第二次大戦前への「逆コース」の傾向が強いとされた政策への抵抗感が弱まり、社会民主党など革新勢力は弱小化していった。日本共産党はソビエト連邦の崩壊後も西側諸国の中で珍しく国政で勢力を維持し、1990年代には日本社会党が与党として基本政策を転換したことを批判する左翼支持層からの革新票を吸収して躍進した。しかし、2000年(平成12年)以降は野党票が民主党に流れるようになり、小選挙区制度が機能して自由民主党VS民主党による平成日本の政治における二大政党化が進行したため、日本共産党は比例区を中心に得票を減少して長期低落傾向に陥った。
2004年(平成16年)の第20回参議院議員通常選挙では民主党が勢力を伸ばしたが、2005年(平成17年)に自由民主党は小泉内閣の郵政解散による選挙で大勝して絶対多数の議席を獲得する。しかし、消えた年金問題が発生する中後継の安倍内閣は2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙で民主党に大敗して、参議院はついに与野党逆転をしてねじれ国会の構図が生じた。
そして2009年(平成21年)には、第45回衆議院議員総選挙で民主党が大勝して自由民主党が野党に転落して、民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣が誕生し政権交代が起きた。2010年(平成22年)5月28日から、社民党が連立離脱し、民国連立政権に移行した。鳩山内閣辞任後、菅内閣発足で一時支持率を回復したものの消費税増税問題で急降下[98]、同年7月の第22回参議院議員通常選挙で自公に敗北して再びねじれ国会の状況となった。
2012年(平成24年)1月、野田内閣が推進する消費税増税・TPP参加・八ッ場ダム建設再開・原発容認などの政策に対し、民主党が主張したマニフェスト(政権公約)に違反するものとして反発した議員が民主党を離党して、新党大地・真民主と新党きづなを結成した。
3月には亀井静香国民新党代表が民国連立政権からの離脱を主張して、政権残留派と無所属となった離脱派に国民新党が分裂した。7月には、民主党の小沢一郎を中心とする小沢グループの議員の中から、消費税増税法案の衆議院での採決において反対投票を行った衆議院議員の一部と同調した参議院議員が離党を表明。衆議院と参議院に新会派「国民の生活が第一・無所属の歩」(後の「国民の生活が第一」)と新党の国民の生活が第一をそれぞれ結成した[99]。
第180回国会で消費税増税法案(消費税関連法案)が3党合意(民主党・自由民主党・公明党)与野党の多数で可決された。第1極の与党(民主党・国民新党)と第2極の野党(自由民主党・公明党・社会民主党・日本共産党)以外の第3極によるオリーブの木構想が浮上した。国民新党を離党した亀井亜紀子参議院議員と民主党から3人の女性参議院議員が離党して新会派の「みどりの風」を結成したことで、民主党・新緑風会は自由民主党・たちあがれ日本・無所属の会と並ぶ参議院の第2会派に近い少数会派となった。
2012年(平成24年)年度の時点で日本の政党は二大政党と中政党とミニ政党が複数あり、2012年(平成24年)の第46回衆議院議員総選挙の解散時点で史上最多の15個の政党が乱立した。
第46回衆議院議員総選挙で野党の自由民主党・公明党が勝利して政権を奪還し、自公連立政権は復活した。自民党が議席の大半を占め公明党がそれを補完し、複数の野党・ゆ党勢力が弱く、55年体制よりも野党が弱い一強多弱状態の政界構図が誕生した[100][101]。2010年代の自民党支持率は、高齢世代で高いのは伝統的に変わらない点だが、若年世代でも高く、逆に中堅世代で低いU字型のグラフを描いている。これについて、若手世代は民主党政権交代の顛末を青年期に目撃した世代、中堅世代はリクルート事件や佐川急便事件を青年期に目撃した世代であるためという説がある[102]。
2013年(平成25年)の第23回参議院議員通常選挙からネット選挙が解禁された。2016年(平成28年)7月の第24回参議院議員通常選挙から野党4党が選挙協力をして民進党候補などを1人区で日本共産党が支援する民共共闘が実施されたが、民進党側では路線対立から共産党と共闘する立憲民主党(旧)と、共産党に否定的な国民民主党(旧)に分裂した。
野党第三極も離合集散が続いたが、平成末期には日本維新の会が近畿地方を中心に勢力を伸ばした。「生活の党と山本太郎となかまたち」から「小沢一郎及び山本太郎共同代表の自由党」は2019年(平成31年)4月26日、旧・国民民主党に合併して解散、山本太郎は離党し平成31年度の令和改元にあわせて令和元号と新選組由来の「れいわ新選組」を設立した。
など次々と地域政党が設立された。
2001年(平成13年)に首相に就任した小泉純一郎によって「聖域なき構造改革」が推進された。小泉内閣は民間人による駐車監視員制度の導入、整腸剤やビタミン剤の薬局以外の販売の認可、[112]株式会社の1円からの設立可能などの規制緩和を実施した。また『官から民へ』をスローガンにして、日本道路公団・営団地下鉄・成田空港の民営化を実施した[113]。小泉内閣[要曖昧さ回避]は郵政三事業などの公共サービスの民営化・電気産業・通信産業・運輸業などの参入規制改革を政策目標としていた。民間金融機関に係る行政は、伝統的に大蔵省(現在の財務省)が担ってきたが、民間金融機関等の検査・監督を分離して2001年(平成13年)に内閣府の外局として発足した金融庁によって金融再生プログラムが実施されて、銀行の不良債権処理が進んで金融機関は健全化した。日本銀行はゼロ金利政策から量的金融緩和政策に転換して、都市銀行は三大メガバンクに統合された。デフレが進行した経済対策からノーベル経済学賞を受賞した経済学者のポール・クルーグマンが提唱したインフレターゲットの導入が検討された。
長く緩やかな景気回復(2002年(平成14年)2月から2008年(平成20年)2月まで)が続いたが、この景気拡大は専ら外需主導であり、公共投資の縮小および企業の人件費抑制に伴う労働分配率低下により、内需と個人消費は冷え切ったままであった。また、2003年(平成15年)の大卒就職率は55%にまで低下、高卒も史上最悪の就職難に遭遇した。新興国の経済発展に伴い、重厚長大産業を含む製造業の復権が起こった。一方で、新しい産業としては情報革命によってIT産業が発達して、少子高齢化によって介護サービス事業が成長して、高齢者の死亡者数の増加で葬祭業(葬儀ビジネス)が成長して、非正規雇用の増大で労働者派遣業が成長した。
2000年代後半に入ると、六本木ヒルズ族と呼ばれる富裕層が話題を振り撒いた。富裕層増加の一方で非正規雇用の増大(15歳 - 19歳は約7割が非正規雇用)や、フルタイムで働いても貧困から脱却できないワーキングプアの存在が表面化して、『蟹工船』など久しく忘れられていたプロレタリア文学の読者が急増、「格差社会」の到来が叫ばれるようになった。2009年(平成21年)の日本政府の発表では、2006年(平成18年)の時点で貧困率は15.7%であった。2008年(平成20年)に入ると、景気は再び後退し始め、資源価格上昇の中で景気後退が続くスタグフレーションの進行が憂慮された。2000年代の日本の都道府県で1人当たりの県民経済計算の所得がプラスとなったのは三重県・愛知県・静岡県・神奈川県・東京都・鹿児島県の6都県のみ。それ以外の府道県はマイナス成長か0%成長であった。三重県はシャープの立地、鹿児島県はキャノンの立地によるものである。
1990年代のバブル崩壊によって、バブル景気による土地神話が消滅し、基準地価と公示地価など地価が毎年下落し続けた。2005年(平成17年)以降は一部優良な土地の地価が上昇するようになった。平成20年代になり、ガソリン価格の高騰による運輸業の経営への圧迫やガソリン税の減税問題が提起された。2008年(平成20年)に国土交通省の外局として、日本の観光を盛んにして観光地に外国人観光客を多数呼び込み、観光(観光業)立国を目指すために観光庁が発足した。ギャンブル関係では、数字選択式全国自治宝くじのナンバーズ・ミニロト・ロト6・ロト7・スポーツ振興くじ・競馬のワイドが導入された。金融関係ではペイオフが実施され、ネット証券・ネットショッピング・投資信託が普及した。広告関係で顔面広告や絶対領域広告など人間広告が普及した。ホームページやブログに張り付ける広告のアフィリエイトが普及するなどインターネットビジネスが成長した。平成20年代に芸能人のブログでのステルスマーケティングが問題となる。
小売業では、ダイエーなどのGMSの隆盛が終息を迎え、100円ショップ・ブックオフコーポレーション・日本マクドナルド・吉野家などの商品の値下げ競争が注目された。こうした価格競争に取り残されたそごうなどの百貨店が縮小した。ユニクロなどの低価格で大量販売をするチェーンと、2000年(平成12年)に大規模小売店舗法が廃止されたことで大規模店舗の建設と出店が自由化されてイオンを代表とする郊外型スーパーが成長した。自由民主党の経済政策に批判的な層からは大型店やチェーン店などが郊外に進出することで、地域の個性が失われてしまうとしてファスト風土化[注 13]が批判された。方都市郊外にはロードサイド店が林立し、個人商店で構成される商店街を持つ、地方都市の中心市街地を荒廃させた(シャッター通り問題)。
地方では医療崩壊が始まる中、鉄道ローカル線や路線バスが相次いで廃止され、自家用車を自ら運転できない高齢者の買い物難民や交通難民が社会問題となった。一方、公共交通機関の発達した都市部の若者は生活必需品ではない自動車に興味を示さなくなり、車離れをするようになった。
平成時代に育った若者は不況に順応し、2013年(平成25年)にはさとり世代、2014年(平成26年)にはマイルドヤンキーと呼ばれる若者が注目された。
地方で大きな雇用を生み出していた建設業は大幅な公共事業の削減で建設会社が減少して[114]、一部は農業や福祉産業に転じる動きもみられた。製造業は円高のために生産縮小と海外への工場移転が続いた。平成初期から2010年代までに進行した男性向きの建設業・製造業などの仕事が減少して、女性向きの福祉・サービス業・事務職などの仕事が増えた結果、労働力の中心だった男性の価値が相対的に低下する男性不況となる。
1990年代後半より電子マネーが様々な業種で用いられるようになり、特に日本国内ではEdy(現・楽天Edy)、Suicaで採用されたFeliCaによる非接触型ICカード方式の電子マネーが急速に普及し、流通系・交通系の各社が様々な電子マネーを提供するようになった。これらの電子マネーの普及により、2011年(平成23年)には1円玉硬貨が1枚も製造されなかった。しかし日本では現金を置き換えるには至らず、平成末期において相対的に電子決済の利用が少ない国になっている。印刷物の書籍に代わって、電子書籍が普及する。
2006年(平成18年)5月1日に総会屋を規制する会社法の会社法第120条が施行される。2011年(平成23年)に携帯電話とPHSの契約台数が日本の総人口の1億2805万人を超える国民の保有数が1億9805万台となり、人口比で契約数が101.4%となった。通常の携帯電話以外に通信機器専用のスマートフォンをもつ人や会社などの仕事用の携帯電話とプライベートの携帯電話で使い分ける「2台持ち」の人が増加したことも要因と分析されている。
2000年代に小泉改革による航空業界の規制緩和を機に、スカイマーク、北海道国際航空(現・AIRDO)などの新規航空会社の参入が相次いだ。また、2010年代に入ると、サービスを簡素化することで低運賃を実現する格安航空会社 (LCC) が増加し、国際線・国内線共に日本市場への参入が増加した。
2012年(平成24年)頃から稚魚の不足からウナギの価格が高騰した。
団塊の世代が青年期だった1970年代までの生産年齢人口が増加する人口ボーナスによる高度経済成長から団塊の世代が60歳以上の高齢者となった2000年代には老人が急増して若者などの勤労者が減少する人口オーナスによるデフレ経済に移行した。高齢者を狙う押買や押売が社会問題となる。
バブル期には富裕層の間で億ションが流行り、小泉時代には六本木ヒルズに住む富裕層(ヒルズ族)、日本の不動産を大量購入する中国人富裕層が注目を集めたが、その一方で2000年代以降には一般的な民家(自宅・借家)・アパート・マンションなどではなくシェアハウスで共同生活をする若者(男女)も急増した。
平成期になり鉄道の高速化に伴い、夜行列車や車内販売を廃止する鉄道会社が増加した。2010年代に中華民族系(中華人民共和国・台湾・香港・シンガポール)から日本への観光客が急増した。2010年代に観光立国となったが京都市や鎌倉市で観光客急増のオーバーツーリズムの問題が発生した。
2015年(平成27年)頃からドローン(無人航空機)が普及し始めた。
この30年の間に日本企業の存在感は大幅に低下した。1989年(平成元年)世界の企業の時価総額ランキングでは、上位50社のうち32社が日本企業であったが、2018年(平成30年)には残ったのはトヨタ自動車だけだった[115]。
2000年代は輸出産業である製造業が好調だったが、人手不足は2004年(平成16年)に労働者派遣法が改正されたことで製造業にも派遣が認められて外国人労働者を含む派遣社員を中心に不安定雇用労働者などで賄われた。そのため、海外市場の減速が製造業を直撃したことと2009年問題により、2008年(平成20年)秋頃から、派遣労働者の解雇や雇い止めをする「派遣切り」が増加した。年越し派遣村が創設されるなどの貧困対策が取られたが、2009年(平成21年)3月までに19万人が失職した。職を失った派遣社員が大量に寮を追い出され、ホームレスと化した[116]。
アメリカのサブプライムローンを引き金とする2008年(平成20年)末からの世界同時不況は、「100年に1度の不況」「第二次世界恐慌」などと呼ばれており、製造業以外の業種にも深刻な打撃を与えている。2009年(平成21年)に麻生内閣の緊急経済対策として定額給付金の給付やエコカー減税・エコカー補助金・エコポイント制度・ふるさと雇用事業などの対策が採られたが本格的な回復路線に乗ることはなかった。
2011年(平成23年)には、米国債ショックと東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が起こり、さらにそれによって福島第一原子力発電所事故が起きた。この影響により、株価が急落したり、製造ができなくなったり、作物の風評被害が起きたりと障害が起きている。2011年(平成23年)夏には、電力使用制限令が発動される。菅内閣は内閣の退陣と引き換えに固定価格買い取り制度の再生可能エネルギー特措法を成立させて風力発電・太陽光発電・地熱発電・水力発電などの自然エネルギーの活用を推進した。
金融広報中央委員会が2012年(平成24年)2月22日に発表した2011年(平成23年)の家計の金融行動に関する世論調査の結果では、一家の人数が2人以上の世帯で「貯蓄がない」と答えた世帯の割合が28.6%に上り、調査を始めた1963年(昭和38年)以来では、過去最高の数字となった。
平成初期から徐々にシェア低下を始めていた日本のエレクトロニクス産業は、平成二桁の年代になると韓国・台湾・中国の企業に次々とシェアを奪われる状況に陥った。2000年代に三重県の亀山市にシャープ亀山工場や大阪府堺市堺区にシャープ堺工場を建設するなど世界の亀山モデルと呼ばれた液晶テレビで好調だったシャープ・東芝・パナソニックなど大手電機メーカーの売り上げが不振、赤字となり人員削減などの大規模なリストラを実施した。被災地の鉄道復旧が進まずバス・ラピッド・トランジット (BRT) が気仙沼線で導入された。
2012年(平成24年)12月26日に第2次安倍内閣が成立した。安倍内閣はアベノミクスと呼ばれる政策で日本銀行による金融緩和や日本銀行による建設国債の買い取りを実施して、デフレからの脱却を目指すために、物価上昇率を2%と高めに設定するインフレターゲット目標を定めたが平成の間に達成することは出来なかった。アベノミクスは円安による貿易黒字の増大と株価上昇などによって、消費を刺激し、社会全体に恩恵がもたらされるトリクルダウン効果を狙う政策であった。東日本大震災で社会基盤が重大な損害を受けたことから国土強靭化計画を策定し、防災・減災のために、高度経済成長期に建設された道路の補修や改修などを推進するアベノミクス政策が実施されるようになった。経済財政諮問会議が復活して日本経済再生本部と産業競争力会議が設置された。
2013年(平成25年)にタイ、マレーシアからの観光客に対してビザを免除し、2014年(平成26年)にはインドネシアからの観光客のうちICチップ入りパスポートを所持する人についてもビザを免除するなど、訪日外国人旅行客の誘致も積極的に推進され、2013年(平成25年)は1036万人と初の訪日外国人旅行者数の1000万人超えを達成、2014年(平成26年)は1341万人を記録し、前年の過去最高記録を更新した。また、2014年(平成26年)の訪日旅行客が使った金額も過去最高となる2兆305億円を記録した[119]。
映像・音楽などの日本のコンテンツを世界に伝え普及させたり、ファッションやアニメなどのコンテンツの海外市場の開拓のため、大型の商業施設の開発やM&Aなどを支援する官民ファンド「海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)」を、2013年(平成25年)11月25日に官民あわせて375億円の資金を集めて設立した[120][121]など、日本の対外イメージ向上および、それによる関連コンテンツの輸出増加や観光客を誘致する政策を推進し、2013年(平成25年)の日本の放送コンテンツ海外輸出額は約138億円となり、2010年(平成22年)の約62億5000万円から倍増した[122]。
移民1000万人計画の一環として2014年(平成26年)に安倍内閣は、高度人材と認定された外国人が永住権を取得するために必要な在留期間を3年に短縮、親や家事使用人の帯同も認められるようにする出入国管理及び難民認定法改正案を閣議決定し2014年に改正法が可決された[123][124]。
2010年代に猫ブームが起きて、犬の飼育数が減少する一方で猫の飼育数が増加して、2015年(平成27年)頃にネコノミクスが流行語となった。民主党政権時代の1ドル80円台の円高で平均株価が1万円以下だった経済状況から、1ドル120円台の円安で1万8000円台まで一時的には株価が回復したが、中国経済の成長の鈍化や世界的な原油価格の下落が起きて、2016年(平成28年)に日本銀行はマイナス金利政策を実施した。平成末期の平成30年頃からアルバイトの若者による悪ふざけのネット上への投稿行為があり、バイトテロが問題になる。
平成期は人件費の抑制と円高の進行で製造業の海外移転が相次ぎ、産業空洞化が進んだ。
バブル期のあたりは、貿易摩擦を解消するために海外へ移転する製造業が増加した。バブル崩壊後の1990年代中頃になると、円高が生じ、海外へ移転する製造業が増加した。2000年代に入ると、人件費削減のため、中華人民共和国や開発途上国(ASEANなど)へ製造工場を移転することが多くなった。2010年代に入ると、再び円高が生じ、海外への移転が増加した。2011年(平成23年)にタイ洪水がありタイ王国内の工業団地に多数の工場を進出させていた日系企業が被災して自動車産業などの工場が操業停止となる。
2000年代に入り日本の国内で発生した内政問題やアメリカ合衆国との間で、日本が牛肉の輸入禁止措置や検査強化をしたことに対する日米外交問題や国際問題としてBSE問題が発生した。
東日本大震災や急激な円高の進行で自動車産業や家電などの輸出が不振となり、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で日本国内の原子力発電所が相次いで点検や安全性の確保のために発電を停止して、火力発電所での発電の増加で海外からの燃料の輸入額が大きく増加したのが原因で2011年(平成23年)の日本の貿易収支は赤字に転じて、1980年(昭和55年)の第2次石油危機以降では、31年ぶりになる貿易赤字国へ転落した。
菅内閣と野田内閣はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の交渉をする議論を開始した。
1990年代から学力低下が懸念され、1999年(平成11年)には「分数ができない大学生」が出版された[125]。さらに2003年(平成15年)のOECD生徒の学習到達度調査 (PISA) や国際数学・理科教育調査 (TIMSS)、2006年(平成18年)のPISAでは学力低下が顕著となった。その後、2003年(平成15年)には教育内容の上限規定が撤廃された。2007年(平成19年)には全員参加方式の全国学力・学習状況調査テストが復活して、さらに脱ゆとりへと路線が変更され、2008年(平成20年)には指導要領が改正、移行措置として一部が2009年(平成21年)から実施、小学校では全面的に2011年(平成23年度)から実施されることとなった。2007年(平成19年)のTIMSSでは、学力低下が止まり、2009年(平成21年)のPISAでは、学力が回復した。2013年(平成25年)の経済協力開発機構 (OECD) の国際成人力の調査で日本国が第1位になる。
2003年(平成15年)に国立大学法人法が制定されて、国立大学が国立大学法人となった。教員の相次ぐ性犯罪や、偏った思想に基づいた教育や言動などが問題となり、教員の資質向上のための教育改革として実施された制度が教職大学院の創設であり、それと検討されたのは教員免許更新制である。これに伴って日本の教育問題として、親の学歴・収入・家柄・職業などの経済格差と都道府県別や市町村別の地域格差を背景とした能力格差の拡大が表面化している。この原因は公教育機能が低下しているためと言われ、公教育への不信感が増大している。それを補うため、東京都を中心に公立学校選択制の導入や公立学校以外の学習塾や私立学校へ進学希望者が増加している。私立学校と教育を重視する地域などの一部学校や、文部科学省の方針で教育予算が増加されて低学年で実施されたのが、少人数授業や少人数教育を目的に「35人学級」や「30人学級」で、きめ細かい指導を導入する教育改革がされた。平成期に学校群制度が全廃されて丸坊主などの頭髪の規制を撤廃して長髪を認可したり制服のみから私服を認可して服装の自由化をするなど校則が改正される学校が増加した。公立小学校と公立中学校が義務教育期間に一体化して連携教育を行う「小中一貫教育」が広がったことから、第2次安倍内閣で中央教育審議会が提言した構想で、小中連携教育を推進するために6歳 - 15歳までの9年間の小中一貫の「義務教育学校(仮称)」の新設が議論された[126]。高校の普通科で「キャリア教育」を必修化するが検討された。
2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編により文部省を改組して、科学技術庁を吸収合併して廃止する形式で文部省と科学技術庁が統合されて、文部科学省が設置される。2003年(平成15年度)から情報科が新設されて、高等学校の必修教科となる。2011年(平成23年度)から小学校で、外国語活動の時間が設けられて、2012年(平成24年度)から中等教育で、安全性の問題が議論されている武道科(剣道科・柔道科・相撲科)の3種目と指導方法の向上が必要であるダンス科(創作ダンス・フォークダンス・現代的なリズムのダンス)が導入されて、3 種目から選択して必修化されるようになった。2012年(平成24年度)から、木造校舎の建設を可能とするため木造校舎の焼失実験が実施されて、1972年(昭和47年)に終了した放射線教育が約30年ぶりに中学校の理科で復活した。
2000年(平成12年)から小学校と中学校の義務教育の課程で相対評価から絶対評価による教育評価と成績評価が重視をされるようになった。重視されるようになった絶対評価には認定評価の他に到達度評価があり、到達度評価の一つである観点別学習状況による教育評価と成績評価が導入された。
自由民主党の修身教育復活や道徳教育重視を唱える愛国心と儒教道徳の育成を目指す保守派議員の意向で文部科学省が2002年(平成12年)4月に、全国の小学校・中学校に道徳の副教材の心のノートを無料配布した。民主党政権の事業仕分けによって教材作成の補助が廃止された。第2次安倍内閣により2018年4月(平成30年度)に小学校で道徳を正式科目として、2019年(平成31年)4月に中学校で「特別の教科 道徳」と教科へ格上げし完全実施した。
2007年(平成19年)に首都圏や京阪神では格差社会の進行やゆとり教育の影響で学歴社会の負け組となる公立中学校を敬遠するようになった。高学歴・高収入の中流家庭では子供の受験競争に熱心な家庭が増加して、私立中学校の受験者数はピークとなり中学受験バブルが起きたが、翌年には私立中学受験バブルは崩壊した。2008年(平成20年)のリーマンショック以降の景気低迷、公立学校における脱ゆとり教育への転換、さらには、東日本大震災などの影響で私立中学受験者数の減少は続いており、受験者数の減少に歯止めがかかっていない。私立中学校の募集定員は3万9721人から4万1688人と約5%も増加して、私立中学受験ブームを受けての定員数の増加や、中高一貫体制強化による付設高校の募集定員の縮小と廃止が行われた。
1990年(平成2年)に大学共通第1次学力試験に代わり大学入試センター試験が導入された。バブル世代が大学生であった昭和末期は学閥など大学ブランドが強いMARCH・日東駒専・関関同立などの私立大学が人気であったが、2000年代以降は平成不況による貧困家庭の急増の影響などの学費の問題で地元の国立大学(いわゆる駅弁大学)志向となる。受験生の志願者数が多い団塊ジュニア世代が大学生であった平成初期は、18歳人口の多さで、3流大学でも高倍率であり大学入試は難関であった。2000年代以降には、18歳人口の減少による少子化の進行と学歴インフレの進行で3流私立大学の定員割れが急増した。1990年代は日本大学と早稲田大学の志願者数がトップであったが、2000年代に日本大学の志願者が減少して2008年(平成20年)まで早稲田大学が1人勝ちの志願者がトップであった。2009年(平成21年)以降は早稲田大学の志願者がトップであったが、早稲田大学ブランドの魅力が変わり志願者が減少して、代わって明治大学が志願者トップとなる。2014年(平成26年度)に近畿大学の志願者数が初めて日本一となる。
不登校問題やフリースクールの試みが行われた。学校を卒業しても社会に参加しないニート、引きこもりに陥る者が多く現れ、メディアで盛んに報道され、問題視されるようになった。これは、学校と実社会の間にギャップがあるという日本独特の問題が潜んでいるとされる。余りに学校社会に慣れた子供は、卒業しても社会に適応することが困難になると言われる。
現在の引きこもりは1970年代生まれの人々が最も多く(後の世代では引きこもりは減少傾向)、引きこもりの長期化・高齢化が深刻になっている。また、ニートだと定義されていない35歳以上の中年の無業者も問題になっている。
1990年代後半からパソコンや携帯電話が、2010年代からはスマートフォンが学生の間でも普及し出した。2002年(平成14年)には、小学1年生で5.0%、中学1年生で32.3%だったのに対し、2007年(平成19年)には、小学1年生で11.7%、中学1年生で62.0%と2000年代に入ってからは小中学生の間でも普及し出した[127]。
また、2000年代後半になると10代のパソコン離れが起き、携帯の使用率が上がっている[128]。これらの世代はパソコン、携帯電話などを使ってネットによる情報発信能力を身に付けたにもかかわらず、情報リテラシーやマナー教育が追いつかなかったため、ネットいじめが社会問題になった。
1980年代前半生まれは「キレる17歳」「コギャル世代」「酒鬼薔薇世代」とも呼ばれ、さらには神戸連続児童殺傷事件、光市母子殺害事件、西鉄バスジャック事件、秋葉原通り魔事件などの犯罪や、援助交際や、新成人の成人式の騒ぎが問題となった。
その一方で、それらの問題が若者に対するステレオタイプだとして俗流若者論という概念も生まれた。東日本大震災の影響で子供の心的外傷後ストレス障害 (PTSD) が増加したり、被災地の岩手県・宮城県・福島県の子供の転校が急増する。
少子化の進展で大学全入時代を迎えて、21世紀には大学倒産時代となりブランド大学以外の地方大学や私立大学は定員割れで経営危機に立たされている。私立大学・私立短大の中には、統廃合によって学生募集を停止して廃校になる学校が増加した。親の収入と学歴の高低が子供の学歴の高低に直結する「格差の遺伝」とも言われる現象が広く知られるようになった。
一方で、逆に高い学歴を持ちながら生活に苦しむ学歴難民と呼ばれる層も氷河期世代から発生している。女子の高学歴化や進学率の増加、厳しい経済状況を背景にした難関志向もあり、難関大学の難易度は、依然高い水準にある。進学率が増加する一方で、BFランク大学の名前を書くだけで受かる入試、ユニーク入試、一芸入試など学力にとらわれない入試も増加している。
平成期の教育思想は大きく区分して2種類ある。教育思想として以下の2種類の教育思想が対立して激しい論争となる。
小渕内閣の教育改革国民会議による教育を変える17の提案の発表や安倍内閣の教育再生会議や福田康夫内閣の教育再生懇談会が設置された。学校教育法・地方教育行政の組織及び運営に関する法律・社会教育法の改正が実施されるなど『教育改革3法案』が成立した。新保守主義による国旗国歌法や教育基本法の改正などの愛国心を謳った教育が主張された。2001年(平成13年)に、新しい歴史教科書をつくる会が既存の社会科の教科書を左翼の自虐史観であると称して、それら左翼的自虐史観の教科書に反対する保守勢力が地理歴史科教科書・公民科教科書を執筆したが、中華人民共和国・大韓民国・朝日新聞などの左翼勢力の反対で教科用図書検定が妨害される歴史教科書問題が再び起きた。その後、日中歴史共同研究・日韓歴史共同研究なども模索された。
財界大企業では東京証券取引所上場企業の社長数1位が、昭和時代の東京大学出身者から慶應義塾大学出身者の三田閥となり、政界でも平成での出身大学別総理大臣で一番多いのは、6人を輩出した早稲田大学であるなど、東京大学の学閥は早稲田大学・慶應義塾大学の躍進で政界・財界のトップではなくなり、平成期に学歴的地位が低下した。
文部省は1996年度(平成8年度)から2000年度(平成12年度)の5年間に、研究の世界で競争的環境下に置かれる博士号取得者を一万人創出することを目指したポストドクター等一万人支援計画を策定し、多くの大学で大学院重点化が実施されるが、これは若手研究者に深刻な就職問題を引き起こした(余剰博士問題)。2008年(平成20年)の「留学生30万人計画」で中華人民共和国などアジアからの留学生が急増する。逆に日本からの海外留学生は1990年代をピークに減少した。2012年(平成24年)に文部科学省は留学促進のため世界の大学が採用する共通の大学入学資格取得に必要な教育課程の国際バカロレア資格の国内認定校の拡大のために200高校に留学支援課程を設置する計画を立案した。一部の大学では国際化の推進のため講義の英語化が実施されたほか、千葉大学などでは全学生の留学義務化がされたが、これにより学生負担が増え、低所得層の大学進学はますます難しくなった。
平成期は、大学進学率と大学院進学率が急上昇した。大学進学率が1989年(平成元年)の24.7%から2010年(平成22年)には50.2%となった。進学者は、約40万人から約60万人にまで増加した。女子を中心とした短大進学者が4年制大学にシフトして短大進学率は1994年(平成6年)の13.2%をピークに減少して2010年(平成22年)には6%となった。修士課程の大学院進学率は急上昇して17%となり、2003年(平成15年度)に、専門職大学院の制度が作られ、法科大学院などが作られた。それに伴い、教育改革として学部を置くことなく大学院を置く大学(いわゆる大学院大学)の数も増加した。特に、大学への進学率、進学者増加は、分子(大卒の就職者数)がバブル期とほとんど変わらないのにもかかわらず、分母(大学卒業者数)が増えたため大卒の就職率(就職者数/卒業者数)が大幅に下がってしまった要因の一つとなった。2012年(平成24年度)には、全国の法科大学院73校の入学生の統計で、86%に当たる63校で定員を下回るようになった。
2012年(平成24年)の野田内閣時代の大学改革では予算や設備、人員を各学部ごとに集中させて教育の質を高め、優秀な人材を育成する狙いから、一つの国立大学法人の下で複数の大学の学部を集約して、具体例として大学Aは医学部と理工学部、大学Bは法学部と経済学部、大学Cは文学部に特化することなどを想定する文部科学省は、都道府県を超えて国立大学の学部の再編を進める方針があった。新しい大学教育制度として、一つの国立大学法人が複数の国立大を運営できるようにして、各大学にある類似する教育内容の学部を再編する計画であった。
昭和時代(戦後期)に誕生した駅弁大学からさらに大衆化が進行して、平成時代(21世紀)になってコンビニ大学と呼ばれてコンビニ化した地方大学や私立大学が問題となっていたため、2012年(平成24年)に、田中真紀子文部科学大臣によって大学設置基準による大学認可問題が起きた。平成期になり大学の看護学科の新設ラッシュが発生して、平成初期から2010年代まで看護学科の増設が続いている[129]。
1989年(平成元年)に開始された伊藤園のお〜いお茶新俳句大賞、1990年(平成2年)に開始された住友生命の創作四字熟語、1995年(平成7年)に財団法人日本漢字能力検定協会の今年の漢字が開始された。
2000年(平成12年)以後に、OECD生徒の学習到達度調査 (PISA) が行われ、これはPISAショックと呼ばれた。
昭和天皇の崩御の年である1989年(平成元年)にベルリンの壁の崩壊が起こり、同年12月に米ソによるマルタ会談があり冷戦が終結した。1991年(平成3年)にソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国の全てが独立し、崩壊・消滅した。こうして、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されて来た国々では、民族・宗教紛争が勃発した。ソ連の崩壊・消滅後は、アメリカが唯一の超大国となって絶対的な力を揮うアメリカ一極体制となり、旧東側諸国が西側経済に統合され、特に1991年(平成3年)から2000年(平成12年)までの間、世界は「アメリカナイゼーション」「グローバリゼーション」と呼ばれるグローバル資本主義に巻き込まれた。しかし2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件以後、中国、北朝鮮、ロシア、ラテンアメリカなどがアメリカ一極体制を牽制する動きを見せるようになった。
国連創設60周年に当たる2005年(平成17年)には敵国条項の削除と国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指し、グループ4(日本、ドイツ、インド、ブラジル)を結成したが、中国、韓国、さらにはアメリカなどの反対にあって挫折した。2011年(平成23年)にはアラブの春によってチュニジアやエジプトで民主化が起き、周辺国で民主化のデモが起きた。
日本は冷戦時代と同じく日米関係を外交の基軸として湾岸戦争やイラク戦争に協力した。冷戦後、政治・経済・社会のシステムが根こそぎアメリカ型に変わった。
沖縄米兵少女暴行事件が1995年(平成7年)に発生して普天間基地移設問題が起き、2009年(平成21年)には民主党政権のはっきりしない外交政策と安全保障政策によって辺野古に移す案が問題化して、2012年(平成24年)にはオスプレイの配備が問題となっている。
中国を筆頭に急速な経済発展が見られ、それに伴って日本との経済関係もこれまで以上に緊密になったが、中国・韓国・北朝鮮との政治的関係は悪化し、ヘイトスピーチの応酬となった。とくに冷戦時代は名目上は協調していた韓国との関係は劇的に悪化した。
1989年(平成元年)に天安門事件で混乱しており今後が危ういという見方が多かったが(中国崩壊論)、北京オリンピックと上海万博を開催して、「四つの近代化」を進めてきた中国は急速に経済的存在感を強め、日本の最大の貿易相手国は中国となり、かつて日本製であった商品も次々と中国製に置き換えられていった。
日中関係は「政冷経熱」と呼ばれるように矛盾した状況のまま突き進み、ガス田開発、尖閣諸島などの領土を巡る尖閣諸島問題などで日本との摩擦が表面化した。また、中国は経済成長に伴い年々軍備増強を強力に推し進め、日中のギャップは年々増加した(中国脅威論)。2011年(平成23年)以降、小笠原諸島など日本領海内でサンゴを密漁する中国籍の漁船が急増した。
大韓民国では民主化が進み、1993年(平成5年)には朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅して金泳三大統領による文民政権に移行した。しかし、「歴史を正す(역사 바로 세우기)」、つまり「反日スタンス」を外交問題・内政問題に利用するスタンスは軍部政権時代と変わらず、金泳三大統領は日本海呼称問題や朝鮮総督府庁舎の取り壊しや竹島の実効支配など歴史問題で中国と連携して強硬な反日キャンペーンを行った。
続いて1998年(平成10年)に発足した金大中政権は日本文化の受容や日本との関係改善に取り組み、平成14年の2002 FIFAワールドカップの日韓共催、マスコミが主導した韓流ブームにより文化面では友好ムードが高まった。しかし、政治面では竹島の領有権問題の表面化や、小泉純一郎首相の靖国神社参拝により、日韓関係は冷えた。
2003年(平成15年)からの盧武鉉時代には、近隣諸国に対し強硬な外交姿勢を示すことが多くなり、日本だけでなく中国・アメリカとの摩擦も高まった。2005年(平成17年)に日本の島根県議会で竹島の日条例が可決されて毎年2月22日が記念日となった。
2008年(平成20年)に李明博が大統領に就任。李明博大統領は大阪府出身の月山明博という日本名があった在日韓国人で当初は親日の韓国大統領と見られていたが、2012年(平成24年)8月10日に韓国の歴代大統領として初めての竹島訪問による領土問題の激化や天皇に対する謝罪要求があり日韓関係が悪化した。
2013年(平成25年)、朴槿恵が大統領に就任。旧日本軍軍人であった朴正煕元大統領の娘であり当初は親日説もあったが、従軍慰安婦問題などを中心に告げ口外交を繰り広げて日韓関係は悪化した。2014年(平成26年)8月に韓国で出版された『安重根、アベを撃つ』という反日思想の安倍晋三暗殺事件予言小説が出版される。
2015年(平成27年)12月に慰安婦問題日韓合意を締結させ、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されたことを日韓政府が宣言を行った。
2017年(平成29年)に日本の天皇が初めて高麗神社を参拝した。しかし同年に日韓合意に否定的な文在寅が大統領に就任し、関係はさらに悪化した。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で日本人拉致問題、核開発問題が深刻化しており、ミサイル実験では日本領海への発射や上空通過を度々行った。日本政府も拉致問題を解決するために経済制裁を可能とする法整備を進め、ミサイル発射訓練を機に制裁を発令した。
この他の東南アジア諸国でも国際情勢の変化に伴い、日本を先頭とした雁行型経済に代表されてきた伝統的な対日依存を見直し、新たな超大国として浮上した中国、技術大国となった台湾、韓国や、米国、EUとの関係を強化することで、政治経済の多極化が図られ、日本の地位は低下した。
なお、東南アジアにおいては東南アジア諸国連合 (ASEAN) が結成され、東南アジア諸国は共同体形成を模索していた。
東アジア共同体、およびアジア共同体構想が浮上した。これはEUのアジア版であり、ASEANや日中韓などの各国が共同して立ち上げた大戦略だが、ASEANや日中韓といった地域には人種、宗教、言語、文化、経済力、政治体制といった地域統合を促す要素に共通性が希薄で、実現には程遠い状況に終わった。
平成 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 1989年 | 1990年 | 1991年 | 1992年 | 1993年 | 1994年 | 1995年 | 1996年 | 1997年 | 1998年 |
干支 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 |
平成 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 1999年 | 2000年 | 2001年 | 2002年 | 2003年 | 2004年 | 2005年 | 2006年 | 2007年 | 2008年 |
干支 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 |
平成 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
西暦 | 2009年 | 2010年 | 2011年 | 2012年 | 2013年 | 2014年 | 2015年 | 2016年 | 2017年 | 2018年 |
干支 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 |
平成 | 31年 | |||||||||
西暦 | 2019年 | |||||||||
干支 | 己亥 |
以下には、「平成」を冠する主な名称・用法・事柄などを列挙している。当然、全てを網羅するものではない。
アニメや特撮作品では、昭和から続くシリーズで平成に制作された作品を「平成ゴジラシリーズ」や「平成ウルトラマンシリーズ」、「平成仮面ライダーシリーズ」などと呼ぶことが多い。
なお、上記の地名のほとんどは元号にちなんだ新地名であるが、岐阜県関市(改元当時は武儀町)の地名に限っては平成改元以前の昭和時代(1988年(昭和63年)以前)にも存在していた小字名である。
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