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株式会社沖縄アクターズスクール(かぶしきがいしゃおきなわアクターズスクール)は、沖縄県に拠点を置くタレント養成学校であり芸能プロダクション[1]である。
独自の教育スタイルにより、日本の芸能界へ数多くの歌手・アイドル・タレントを輩出。特に1990年代後半、安室奈美恵を筆頭にJ-POPシーンを彩る様々なグループ・アーティストを送り出したことから、芸能養成学校としてはNSCと並び異例の知名度を誇る。
旧法人は1983年にマキノ正幸により設立され、2023年に息子・牧野彰宏と娘・牧野アンナによる新法人が設立された[2]。なお、旧法人は廃業しておらず企業継承でもないため、2023年9月現在、沖縄アクターズスクール(以下、アクターズ)の名を持つ株式会社が2つ存在している。
1972年に沖縄へ移住し、那覇市で「ジュエルパレス」というナイトクラブを経営していた、芸能一家「マキノ家」出身のマキノ正幸(以下、マキノ)が、俳優の川地民夫から聞いた「平尾昌晃が経営する芸能学校[注釈 1]が儲かっている」という話に触発され、沖縄で初めての芸能学校として1983年4月に開校した。当初は、マキノの従兄である俳優の長門裕之が理事長として名を連ねていた。最初の入学生は85人[3]。
当初は、俳優養成所の要素が強く、マキノが東京から呼び寄せた[4]歌やダンスや演技の専門講師から習うシステムを取り[5]、マキノ自身は経営に徹していたが、開校後まもなく演技コースの講師を務めていた人物が他の講師たちと共に独立してしまったため[6][7]、マキノ自らが音楽理論や演技論の本を読み込み[8]直接教えている時期もあった[9][10]。その時期から、生徒同士、自分の歌やダンスを披露するようになり、次第に自主練習となり、お互いに批評し教え合うようになり[11]、後述するアクターズ・メソッドのベースとなった。
初期には、ぬいぐるみショー[12]を上演したこともあった。
1988年5月から1年間に渡り、琉球放送で出演者全員が生徒というローカル番組「オキナワクラブハートキャッチTV」が放映された。協力プロダクションはポニーキャニオン。『夕やけニャンニャン』終了直後の秋元康が監修としてクレジットされている[13]。
1989年8月1日に放送されたローカルテレビ番組『HOTNIGHTおきなわ愛ランド』夏休みちびっこカラオケ大会(琉球放送)に、小学6年生当時の安室奈美恵や、現MAXのMina、新垣寿子、スクール入学前の今井絵理子[注釈 2]が出場し、安室が優勝した。生徒たちが出場することは、校長のマキノには内緒であった[14]。
1995年までの定期公演では、ミュージカルを上演していた。定番は「ピーターパン」で、特に1992年5月の上演では、主演のピーターパンを安室奈美恵が務め、ウエンディを知念里奈が演じ[15]、後にMAX・SPEEDとなるメンバーも出演した[16]。後に今井絵理子も、ピーターパン役を務めている[17][18]。
1994年、マキノは娘でありSUPER MONKEY'Sの元メンバーであった牧野アンナ(以下、アンナ)にレッスンの現場を一任するようになる[19]。
1995年、安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sの「TRY ME 〜私を信じて〜」が大ヒット。これによりアクターズの名が全国に広まり、入学の問い合わせが全国から殺到した[20]。
1996年、沖縄テレビ放送でレギュラー番組『BOOM BOOM』がスタート。同時期にオーディションバラエティー『ASAYAN[注釈 3]』が放送されていたこともあり、その人気にも影響を受け、デビュー予備軍であるB.B.WAVESが地元沖縄を中心にファンを増やし、生徒をモデルにした漫画作品も出版されるなど、その知名度は全国に轟いた。また、番組内で映し出されるアンナの指導ぶりにも注目が集まり、アンナは“カリスマインストラクター”としてスポットライトを浴びるようになった[21]。
1997年には、後に黒木メイサとして活躍する少女がスクールのオーディションでグランプリを獲得している[注釈 4][22]。
安室奈美恵のブレイク以降、アクターズは1998年にかけてライジングプロダクションとの関係を強めた[23]。マキノはライジングプロダクションの社長・平哲夫にプロモーションの全権を一任し[24]、「マキノが育て平が売り出す」というビジネスモデルを構築、J-POPシーンで現在も活躍するアーティストや実力派の俳優を数多く誕生させた。しかし「ひとつの芸能プロに限定すると、どうしても、そのプロダクションの趣味、指向、理念に合った子しかデビューできなくなる」[25]との考えから、1998年よりアミューズと協力関係となる。
1997年頃からマキノは、仕事のフィールドを「芸能」から「教育」に広げ始める[27]。当時26歳の白井智子を校長に迎え、インターナショナル・スクールの創立を計画。私立のフリースクールとして[28]、1999年4月24日にドリームプラネット・インターナショナル・スクール(以下、ドリームプラネット)を開校させた[29]。
日本武道館での単独コンサート以降、アクターズと“芸能界”の間には次第に距離が出来はじめ、デビューへの道が閉ざされた生徒たちは徐々に辞めていき[30]、一時期は全国に最大で1,000人近くいたアクターズの生徒数は、2002年に入ると二桁台に落ち込み[31]、更に、マキノとアンナの間に軋轢が生じる出来事もあり[32][33]、この年のうちにアンナはスクールから退職[34]、ダウン症児者のためのダンススクール「LOVE JUNX」を立ち上げた[35]。
一方、2004年頃から、アクターズはドリームプラネットと合同で授業やレッスンを行うようになり[36]、2005年4月、ドリームプラネットの校長に就任した村井優紀がアクターズのプロジェクトにも参画するようになる[37]。
2006年3月に、村井が脚本・演出を手掛けアクターズのスクール生が出演するミュージカル「S.T.A.R.」を上演、また、同10月から、それを下敷きにしたテレビ番組をスタートさせた[38]。詳しくはドリームプラネット・インターナショナル・スクールの記事を参照すること。
2008年10月には、沖縄県に本店を置くキャタリスト証券を主幹事として日本証券業協会グリーンシートエマージング銘柄に登録されるも[39][40]、2009年11月には指定が取り消されている[41]。
また、2009年には、大阪の芸能プロダクション「創叡」がアクターズと業務提携し、創叡側のWEBサイトでアクターズ生が沖縄所属タレントとして掲載される一方[42]、創叡が経営していたSTSダンススタジオとアクターズ大阪校が合併し、STS沖縄アクターズスクール(後にBBアクターズスクールと改称)を開校[43]、独自にタレント育成を行った。2010年10月に提携を解消[44]。
2012年頃までに村井が退職。この時のことをマキノは自著の中で「一時は私のもとで働き、そしていろいろな経緯があったにせよ、私が辞めさせ、全員が私の元から去っていった」と回顧している[45]。
2013年の春に、スクールのレッスンを見学に来ていた三浦桔梗と出会いレッスンを開始[46]。2016年、残っていた生徒3人と組み合わせ「Precious J」を結成させた[47]。Precious Jは、北谷町美浜での無料ライブ実施や単独ライブの開催、修学旅行生を対象にしたライブなど地元密着の活動を展開していたが、2018年12月3日での修学旅行ライブを最後に[48]活動が休止状態となり、公式インスタグラムも2019年5月28日を最後に[49]投稿を停止した[注釈 5]。
2019年3月、マキノが著書「沖縄と歌姫[51]」を出版したことを契機に[52]、マキノと平哲夫が20年ぶりにタッグを再び組むことが明らかとなり[53]、同年9月15日から「次世代スター発掘・ワールドプロジェクト[54]」が開始され、11月30日、第1回・5人の合格者が選ばれた[55]。なお、この時グランプリに選ばれた城間莉央にはライジングプロダクションからのメジャーデビューがアナウンスされていたが、2020年からのコロナ禍でレッスンができない時期が続いたため[56]、2021年春にau沖縄セルラーのCMに出演した後[57][58]、プロジェクト第2回以降に入学した結南・らむと共に、後述する「大復活祭」へのオープニングアクト出演を経て、B.B.WAVES jr.へ合流している[59]。
“現役生”3人がB.B.WAVES jr.に合流したことで、「マキノ正幸による沖縄アクターズスクール」の歴史にピリオドが打たれ[注釈 6]、その看板は正式に息子・彰宏と娘・アンナに受け継がれることになった。
2018年11月11日、LOVE JUNXを運営しながら振付師として活動していたアンナの呼びかけにより、開校当時の1期生から大阪校・横浜校までのスクール生や当時のスタッフなどが集まった関係者限定のパーティー「沖縄アクターズスクール35周年大同窓会[60]」を那覇市で開催し、320人が参加した。
2021年2月に、絶縁状態だったマキノとアンナが再会、関係修復したことを契機[61]に、アンナが「卒業生が総出演するコンサート」を思い立ち、企画へ動き出す。ライジングプロの代表・平哲夫の承諾を得[62]、主な卒業アーティストが出演する「大復活祭」の開催が実現した[63]。
2022年10月に行われた「大復活祭」の本番後、三浦大知がアンナに対し「アクターズスクールを継承してほしい」と要請[64]、その後、次々と卒業アーティストたちがサポートを申し出た[65]ことから、アンナが再始動を決意する[66]。
2023年1月、新法人を設立。2023年1月23日〜3月12日に「NEW B.B.WAVESオーディション[67]」の申込を受付、4月8日・9日に審査を実施。その合格者46名に、2022年までマキノから直接指導を受けていた最後の生徒3名[注釈 7]が合流した49名[69]がB.B.WAVES jr.として入学、B.B.WAVESとしてのデビューに向けてレッスンを重ねている。
2023年7月に沖縄テレビ放送にてレギュラー番組『アクターズTune!』が開始、隆盛期同様、地上波テレビを通じレッスンの模様を毎週放送しているが、メディアを取り巻く時代の変化を取り入れ、Instagram・TikTok・YouTubeといったSNSを活用し、それぞれの特性に合わせた情報発信を積極的に行っている。
2023年11月19日に、沖縄市民会館にて開催したB.B.WAVES jr. 1st Concert「THE START」を皮切りに[70][71][72]、2024年5月5日に沖縄コンベンションセンター劇場棟にてB.B.WAVES&jr. 2nd CONCERT「THE BLAST」を開催するなど[73][74]、再始動から1年で立て続けに大きな自主コンサートを2回開催する。
2024年4月5日・5月5日、B.B.WAVES jr.の中からB.B.WAVESへの昇格メンバー誕生が発表された[75][76]。
2024年1月9日に「第2回B.B.WAVESオーディション」開催を発表。2月11日〜3月7日に申込を受付、応募総数206人により3月31日に審査を実施。合格した11名がB.B.WAVES jr.2期生としてメンバー入りを果たした[77][78][79][80]。
2025年7月、再始動後初となるメジャーアーティストとしてNeilがデビューを果たすことが、5月5日開催のB.B.WAVES&jr. 2nd CONCERT「THE BLAST」にて発表された[81]。
新生B.B.WAVES jr.のお披露目から約1年1か月が経った2024年6月28日、マキノが83歳で死去したことが同年7月1日に公表された[82][83][84]。
2025年3月16日、27年ぶりに日本武道館で「沖縄アクターズスクール完全復活祭」を開催することが告知されている[85][86]。
(この節の主な出典:[112])
(この節の主な出典:[151]) 注:ソロデビューや業種転身など一部重複して掲載する。
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