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日本で制作されたポピュラー音楽、ジャンル ウィキペディアから
J-POP(ジェーポップ、英: Japanese Popの略で、和製英語である)は、日本で制作されたポピュラー音楽を指す言葉であり、1988年末にラジオ局のJ-WAVEでその語と概念が誕生した後、1993年頃から青年が歌唱する曲のジャンルの一つとして一般化した。
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J-POP | |
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様式的起源 | |
文化的起源 |
1980年代 - 1990年代初頭 、1960 - 1970年代 日本 |
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J-POP以前と以後の違いは、BPMの速さや洋楽の影響を受けたメロディ・コード進行・リズムにある。特に、昭和歌謡の時代の邦楽と比較して、歌詞の構造が解体された代わりにグルーヴが洗練された作品は増加した。
なお、一般的な音楽ジャンルとは異なり、先に「J-POP」という言葉を定義し、それに既存の楽曲を当てはめる所から入っていったもので、発生した音楽ジャンルではない。
1960年代から1970年代までは歌謡曲、演歌、クラシック音楽、和製ポップス、フォークソング、グループ・サウンズ(GS)といった音楽ジャンルが日本国内のポップス音楽の主流であった。また1970年代にははっぴいえんど、サディスティック・ミカ・バンド等のバンドも活動し日本のロック音楽も流行り始める。
1980年代・1990年代初頭は昭和のフォークソングや浜田省吾、長渕剛などのフォークロックがヒットしていた。
『日経エンタテインメント!』は、2000年2月号の特集「J-POPの歴史をつくった100人」の中で、吉田拓郎を“J-POPの開祖”と論じている[1]。エイベックスは2023年に朝日新聞への広告という形で「J-POPからの感謝状」を贈呈している[2]。
1970年代・1980年代には歌謡曲に当時流行していたロック音楽の一種AOR要素が加わったアイドル歌謡曲が大流行する。また、後に歌謡ロックとも呼ばれる1979年クリスタルキング「大都会」、1983年安全地帯「ワインレッドの心」、1984年アン・ルイス「六本木心中」等もヒットする。
1970年代・1980年代には歌謡曲や、アイドル歌謡曲やフォークソングに加えニューミュージックと呼ばれる音楽のヒットがあった。輪島裕介は「アメリカの大学生を中心としたフォーク・リバイバル運動の模倣から始まり、政治的プロテストを経て、内省的・叙情的な自作自演、というところに落ち着いた『フォーク』や、GS出身者の中でも音楽的技巧や自己表現を志向する人たちが中心となった『ニューロック』を合わせて、若者向けの自作自演(風)の音楽は70年半ば頃から『ニューミュージック』と呼ばれるようになった。『ニューミュージック』の人々は、音楽的には『アイドル』とも近い関係にあったが、楽曲を提供するソングライター、あるいはスタジオ・ミュージシャンとしてアイドルとは一線を画し、『テレビの歌番組に出ない』という戦略と自作自演の強調によって、より『高尚な』音楽であると考えられた。逆に『ニューミュージック』の音楽家でも、たとえば桑名正博やチャー、あるいはデビュー当時の竹内まりやなど、テレビに出て、職業作家の曲を歌えば『アイドル』と同様の扱いになった。これに専属制度時代から活動するベテラン、または旧世代の音楽スタイルを引き継ぐ新しい歌手による『演歌』を加えて、1970年~80年代の大衆音楽界は『アイドル・ニューミュージック・演歌』という三傾向の鼎立によって特徴づけられることになる」などと論じている[3]。1973年井上陽水「夢の中へ」、1975年中島みゆき「時代」、1978年杏里「オリビアを聴きながら」、1979年チューリップ「虹とスニーカーの頃」、1979年オフコース「さよなら」、1982年あみん「待つわ」等である。
1980年代後半には1986年渡辺美里「My Revolution」、1987年岡村孝子「夢をあきらめないで」、1988年松任谷由実「リフレインが叫んでる」等J-POPの源流となるポップスが発表される。
1978年イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が1stアルバムを発表。 詳細はテクノポップ項目を参照。
1980年代には前述のニューミュージックとロック音楽の一種AORにルーツがあるとされる後にシティ・ポップと呼ばれる楽曲群が発表された。
1980年代には浜田麻里、小比類巻かほる、レベッカなどのロック歌手が増え、ロック・バンドが次々結成される。
1980年代終盤から1990年代前半にはバンドブームと呼ばれるロックバンドの大流行が起きる、 また、バンドのオーディションTV番組「三宅裕司のいかすバンド天国」が1989年2月から始まり数多くのバンドがデビューした。CMソングに起用されたたま (バンド)『さよなら人類』等がある。 後にJ-ROCK、デジタルロック、ビートロック、ヴィジュアル系等と呼ばれるジャンルを形成しチャートを賑わす事になる。詳細は日本のロック及びバンドブームの記事を参照。
日本では1970年代には東京都新宿区歌舞伎町等でディスコ (音楽)が、1980年代にはハイエナジーが踊られていた 1980年代後半、ヨーロッパ発のユーロビートの流行があり、その影響は日本にも及んでいた。日本では東京都港区六本木等のディスコのダンス用の曲として流行し、ポップス音楽のアイドルではWink、荻野目洋子、中山美穂等がユーロビートのカバー曲や和製ユーロビート曲を発表していた。
躍動感や音の密度を上げるため、BPM130を超える作品も現れた。1980年代末にTM NETWORK「Self Control」を筆頭に16ビートの「早口な歌」が現れた。
1988年、10月に開局したばかりの東京のFMラジオ局、J-WAVEが「J-POP」の発祥となった。J-WAVEは「多文化的」「スタイリッシュ」な街・六本木に存在しており、当初は邦楽を全く放送していなかった[4]。しかし1988年の年の暮れ[5]、同社常務・斎藤日出夫(2012年より社長)がレコード会社の邦楽担当者らと共に、J-WAVEで邦楽を流そうという企画が発足する。レコード会社側も「洋楽しか流さないJ-WAVEが流した邦楽には希少性があり、それを集めたコンピレーション・アルバムを出す」などと言った目論見もあったという[6]。
この際に「日本のポップス」をどう呼称するのかが検討され(斎藤日出夫によれば、いつまでも和製○○などと言っていてはいつまでもオリジナルを越えられないという点があった[7])、ジャパニーズ・ポップス、ジャパン・ポップス、シティ・ポップス、タウン・ポップスなどが検討されたが、「ジャパニーズ・ポップスにせよ、ジャパン・ポップスにせよ、頭文字はJとなり、そしてここは、J-WAVEだ」という意見が出され、Jの文字を用いることとされた。ジャーナリストの烏賀陽弘道によれば、当時1985年に日本専売公社が民営化され日本たばこ産業=JTになった時代であり、1986年に浜田省吾がアルバム『J.BOY』を発表、1987年に日本国有鉄道が分割民営化されJRに、日本を表す「J」という文字が定着してきた時期であったことも一因とされるのではないかとしている[8]。これが「J-POP」という語の誕生の瞬間であり、この時点ではあくまでJ-WAVE内部のみでの呼称であった[9]。関係者の証言により異なるが、1988年末か1989年初頭頃のことである[9][10]。
このジャンルは、マスメディア側が先導する形で音楽カテゴリーのひとつとして誕生し、それにふさわしい音楽を売り手側が分類しているという点において、グラムロック・パンク・ロック・グランジ・オルタナティヴ・ロック・ヒップホップなどといった他の音楽ジャンルと異なる、大きな特徴といえる[11]。斎藤日出夫によれば当初の部類は多分に感覚的であり、演歌やクラシック音楽はだめ、サザンオールスターズや松任谷由実はOK、アリスやCHAGE and ASKAは違うなどとされていたが、明確な根拠などはなかった。しかし洋楽の何かに影響を受けたとわかる音楽、洋楽と肩を並べられる音楽が選ばれたという[12]。そして1989年秋には、J-WAVEで「J-POP・クラシックス」のオンエアが開始される[12]。
博報堂発行の雑誌『広告』1996年1、2月号では、当時の音楽状況を論じた「MUSIC 特集 音楽シーンはどうなっとるのか!」という26ページにもわたる特集を組み、「【現在音楽用語の基礎知識】『渋谷系』なんか怖くない!!(WORDS)」というタイトルで「J-POP」を取り上げているが[13]、シャ乱Qのシングル「シングルベッド」に対する脚注として「J-POP」の説明があり、「J-POP=ジャパニーズ・ポップスの総称。レコードショップの邦楽コーナーは『J-POP』と表記されることが多い。厳密な定義はない。Jリーグ、Jビーフと同じ用法」と書かれている[13]。この特集は26ページにも及ぶが、「J-POP」という言葉の使用は1回だけで、他に「J〇〇」という言い方では「Jラップ」という言葉の使用もある[13]。
1990年代は邦楽が大変革を遂げた年代である。機材のコモディティ化が進み、PCM音源やサンプラーが安価になったことで、制作者が多彩な音色を扱えるようになった。また、打ち込みが当たり前に使われるようになったことで、音の厚みとBPMが急速に増加し、楽曲の展開も複雑になった。打ち込みの普及は楽曲の量産やボーカルの加工に繋がり、商業音楽の工業生産が可能となった。ソフトロック・テクノ・ハウス・トランス・R&B等、世界的に評価された洋楽の表現手法が大々的に導入され始め、「まるで洋楽のよう」な新時代の邦楽として高く評価されるようになった。従って、機材の進化による音質向上や、邦楽全体としても、洋楽を邦楽に翻訳したような感覚の音楽が主流となり、表現はよりポピュラーになって、コード進行、リズム、テンポ自体もJ-POP化された音楽が次々に登場した。
1982年に登場したコンパクトディスク (CD)およびその再生装置の爆発的な普及により音楽市場が一気に拡大し、CDをはじめとしたデジタル技術は音楽制作現場においても革変をもたらした。これまでテープの切り貼りなどアナログ的な技術で行っていた編集作業はデジタル技術によるものへと移行し、音楽制作に要する人・時間・予算の大幅な削減を可能にし、またいくらコピーしても劣化がなくなり、やり直しも簡単に行えるようになった[14]。またシンセサイザーやミュージックシーケンサー、MIDI楽器の普及により、一部については楽器の演奏を行う必要すらなくなった[15]。MIDI音源として低価格で高性能な製品が発売され、DTMブームも起きた。
そしてコストダウンと作業の迅速化により、楽曲の量産が可能となった[16]。
この結果レコード会社側も、駆け出しのミュージシャンについて、気軽にCDを作成することができるようになり[17]、日本レコード協会の『日本のレコード産業』によれば、1991年の1年間で実に510組のバンド・歌手がデビューしている[17][18]。またCDの普及は聞き手側の負担をも削減した。従来、レコードを再生するステレオは良い物で25万円、普及品でも10数万円し、取り扱いも煩雑であったものが、CDプレイヤーはポータブル型であれば1万円を切る価格で購入できた[19]。実際に1984年から2004年にかけての20年間で3737万台のCDプレイヤーが出荷されているが、従来のレコードプレイヤーは42年かけて2341万台しか出荷されていない。さらにCDプレイヤーとは別に、「CDラジカセ」が1986年から2004年にかけて、5225万台も生産されている[20]。CDミニコンポは1990年から2004年までに3028万台が出荷[21]。累計すると2004年までに1億1990万台、うち92%にあたる1億1032万台がミニコンポ・CDラジカセ・携帯型と言った安価なものである[22]。
1985年に発売された最初のCDミニコンポの価格は25万円程度であったが、わずか2年後の1987年には10万円を切る価格となった[21]。1985年春、オーディオメーカー・パイオニアの常務は朝日新聞紙上で「この1年間で大型のシステムコンポはほぼ無くなり、10万円程度のミニコンポにとって変わった。需要の95%はミニコンポである」と語っている[23]。音楽再生装置は大衆化を成し、一家に一台から一人一台の時代へ足を踏み入れる[24]。オーディオは高級な趣味ではなくなり大衆化し、十代の若者や女性も音楽業界の顧客となった[25]。その結果女性向けの「ガールズ・ポップ」などといったジャンルも誕生していく[26]。
しかし、制作環境のデジタル化に伴いそれまで製作現場で実際に楽器を演奏していたスタジオ・ミュージシャンの仕事が激減するなどの弊害も生まれた[27]。こうした制作環境の変化に伴う大量生産による音楽制作はミリオンヒットが出現する確率は高まるが、没個性化・質の低下が進み、音楽が消耗品として見られるようになるなど、批判の声もあった[28]。ソニー・ミュージックエンタテインメント(当時)の坂本通夫は、1991年を音楽業界の転換点として「音楽が作品から商品に移り変わった時」と語っている[29]。
またパソコン通信を経てインターネットが普及し、CDに頼らずとも作品を提供する事が可能になっていく。当時は回線速度が低いため在野のミュージシャンによるMIDIが中心であったが、こうして後にインディーズ音楽家が登場する土壌が生まれた。
1986年12月から1991年2月までの51か月間続いたバブル景気により新宿、原宿、六本木、青山などでは空前のディスコブームが起きていた。1984年麻布十番にマハラジャが開店。1991年3月から1993年10月にバブル崩壊と呼ばれる急激な信用収縮、不動産相場の急落が起きるが、ディスコブームの流行は冷めやらず、芝浦のジュリアナ東京などではイタロ・ハウスや更に過激に進化したハードコアテクノと呼ばれる激しいダンス・ミュージックが流された。ジョン・ロビンソンの「TOKYO GO!」等が有名である。この頃のダンス音楽流行は日本のポップス市場にも影響し、1993年にデビューしたTRFは1994年から1995年にかけて発売したシングル5作連続でミリオンセラーを記録。
しかし、バブル崩壊後の不況の深刻化と警察の取り締まり強化等により急速に熱狂は終息し、六本木ヴェルファーレや渋谷のユーロビートパラパラ流行に移っていく事になる。
バブル景気時代のスキーブームを受けて、1988年にJR東海「ホームタウン・エクスプレス X'mas編(現・クリスマス・エクスプレス)」CMに使用された山下達郎「クリスマス・イブ」、1987年公開の映画『私をスキーに連れてって』で使用された松任谷由実「恋人がサンタクロース」等と並ぶ冬の定番曲が多く生まれた。JR東日本のスキー旅行キャンペーンJR SKISKICMソングのZOO「Choo Choo TRAIN」、アルペンCMソング広瀬香美「ロマンスの神様」などである。他にもCMソングで、日本航空夏の沖縄旅行キャンペーンの米米CLUB「浪漫飛行」が1990年に大ヒットしている。1996年には奥田民生プロデュースPUFFY「アジアの純真」がヒットした。
バブル崩壊で社会に停滞感が漂うようになると応援ソングが流行していった[30][31]。また、歌詞に「夜」「夢」「心」「今」等のワードが増えた[32]。バブル崩壊後の音楽市場は再び生きづらさを歌う作品が主流になり、シティポップは表舞台から消えた[33]。
バブル期のサラリーマンソングであったKAN「愛は勝つ」に始まり、槇原敬之「どんなときも。」、大事MANブラザーズバンド「それが大事」、ZARD「負けないで」、岡本真夜「TOMORROW」等、ミリオンセラーが次々に誕生。「愛は勝つ」など、1990年代初頭のヒット曲の多くは「カノン進行」「がんばろう系カノン」と呼ばれるコード進行を用いていると指摘される[34][35]。
1992年ごろから「ミリオンセラー」という現象が続発するという事象が発生しはじめる。1991年のミリオンセラーは9作品(シングル・アルバムの合算数。以下同様)、1992年は22作品、1994年にはその数は32作品を記録した[36]。
ミリオンセラーが続出するようになった1992年ごろは日本の大手コンビニ各社が店頭で音楽CDを売り始めた時期であり、音楽評論家の能地祐子は、この頃からレコード店に縁のなかった層がCDを買い始めたことで音楽の変質が始まったと推測している[37]。また、トップ10のアーティストだけで年間売上シェアの4割を占めるなど、先の楽曲の大量生産と相まって一握りの成功者と、その他という図式が出来上がるようになった。ヒット曲はテレビドラマかCMがらみという傾向が定着し[38]、ミリオンセラーが続出しても老若男女誰もが知っている歌は無いという状況がますます進行した[39]。
雑誌『ELLE』1993年11月21日号では「ジャパニーズポップ」と呼ばれる言葉でコーネリアスやピチカート・ファイヴといった、いわゆる渋谷系と呼ばれるバンドの紹介を行っている[40]。
1990年代の日本の音楽史を語る上で重要なキーワードとしてKDDというものがある[41]。カラオケ(K)・ドラマ(D)・大幸システム(D・後述)の頭文字を取ったもので、ヒット曲を生み出すための要素とされた。1992年の『Seventeen』誌の新春号特集グラビア「1991年事件・ブーム総決算」の上位ベスト3は『湾岸戦争』・『ソ連崩壊』・『カラオケボックス』であったとされ、当時の若者の娯楽やコミュニケーションツールとしてカラオケが一大ブームとなっていた[42]。カラオケボックスで歌われるレパートリーは皆が共通に知っている曲ということになり、テレビドラマの主題歌、挿入歌やCMで流れている曲がその供給源ということになる。カラオケのレパートリーになることが曲のヒットに繋がるとすれば、音楽業界側もテレビ番組やコマーシャルとのタイアップを図るべく努力するようになる。シングルCDの購入者はもはや単なる聞き手ではなく、歌い手でありカラオケの利用者であった。こうして、カラオケボックスの普及を前提としたタイアップソング全盛期を迎える[43]。
テレビドラマの主題歌として成功した先駆として小田和正『ラブ・ストーリーは突然に』、CHAGE&ASKA『SAY YES』がある。これらはドラマの中で効果的に使われたため、タイアップの効果が如実に現れた。テレビアニメでは『ちびまる子ちゃん』の『おどるポンポコリン』(B.B.クィーンズ)、『SLAM DUNK』の『あなただけ見つめてる』(大黒摩季)、『世界が終るまでは…』(WANDS)、『マイ フレンド』(ZARD)とミリオンセラーが続出するなど、アニメのオープニング・エンディングテーマはタイアップソングが主流となった。これらアニメ番組のテーマソングは、すべてビーイングが携わった楽曲である[44]。
1990年代前半、タイアップソング・ブームの中核を担っていたのが、長戸大幸が率いるビーイングという企業集団だった。ビーイング・グループは、レコード会社、音楽制作会社、映像制作会社、音楽出版社、ミュージシャンの所属するプロダクションなどから構成される。ビーイングは、企業グループとして広告主やテレビ番組制作者の注文に応えて楽曲を提供する体制を整え、そうしたコンフリクトマネジメントを企業グループ内で引き受けた。形の上では、ビーイング・グループは広告業界や放送業界から発注を受ける立場であることには変わらない。しかし、タイアップを仕掛けたいのはカラオケボックスで歌われることがヒットに結び付く音楽業界の側であり、ビーイングはそうした時代に相応しい体制を構築した[45]。
現代的なタイアップ・システムの確立にあたっては、音楽プロダクションのミスターミュージックと、音楽出版社などを持つビーイング・グループとが組んで行った一連のアーティスト・タイアップの影響が大きい。長戸は1990年頃からZARD,やWANDS, B'z, T-BOLANといった多数のグループを、ミスターミュージックを通じて広告音楽タイアップに起用し、数多くのヒットを生み出した[46]。1993年にはビーイング所属歌手が売上1位・2位・4位・5位を占めた[注 1](ビーイングブーム)。これを引き継ぐような形で1990年代後半を席捲したのが小室哲哉だった[47]。
小室哲哉はTM NETWORKの活動休止期間であった1992年に音楽プロデューサーとしての活動を本格化する。小室ファミリーが日本のポップス界を席巻し[49]、数々のミリオンセラー、ヒット曲を打ち立て、「小室サウンド」等と呼ばれる流行を創り出した。
小室哲哉のプロデュースを受けた安室奈美恵は、ミリオンヒット作を次々と世に送り出し、1997年に10代の歌手として日本の音楽史上初となるシングル・アルバム総売上2000万枚突破を記録した[50]。
小室哲哉と並んでシンセサイザー等の技術にいち早く注目したつんく♂は[51]、テレビ東京『ASAYAN』発のモーニング娘。をプロデュース。1990年代後半から2000年代初頭を席巻した。
J-POPを歌謡曲から切断した小室に対して、小林武史はJ-POPと歌謡曲との連続性を維持し更新したプロデューサーとして挙げられる[52]。小林は自身もMy Little Loverの一員であり、「Hello, Again 〜昔からある場所〜」をヒットさせ、映画主題歌も手掛け岩井俊二監督映画『スワロウテイル』(1996年公開)・『リリイ・シュシュのすべて』(2001年公開)のサウンドトラックを担当した。
他にGLAYやJUDY AND MARYをプロデュースした佐久間正英など、J-POPの隆盛は日本でも音楽プロデューサーが注目される時代を到来させた[53]。
1990年代になると、それまでの音楽シーンを支えていたテレビの長寿音楽番組(フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』、TBS系『ザ・ベストテン』、日本テレビ系『ザ・トップテン』等)は次々と姿を消し、1986年開始のテレビ朝日系『ミュージックステーション』がわずかに残る程度となった。
1990年代中盤から、フジテレビ系『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』や日本テレビ系『速報!歌の大辞テン』とプライムタイムの音楽番組が復活したが、これらは、以前の『ザ・ベストテン』『歌のトップテン』が音楽報道番組としての性格が強かったのに対し、トークを中心とした音楽バラエティ番組としての性格が強く、こうした音楽番組にはシーンメイキングをする力は無かった[54]。この時期にヒットを生み出したのは、音楽番組ではなく、バラエティ番組だった。日本テレビ系『電波少年』でのヒッチハイク企画で人気者となったお笑いコンビ・『猿岩石』の『白い雲のように』はミリオンセラーとなり、同局の『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』から生まれたポケットビスケッツ『YELLOW YELLOW HAPPY』や、中西圭三・小西貴雄作曲によるブラックビスケッツ「Timing」もヒットした。テレビ東京『ASAYAN』は、1980年代におニャン子クラブを生み出した『夕やけニャンニャン』と同様の手法で、モーニング娘。をヒットさせた[55]。
1991年ZOOの「Choo Choo TRAIN」がヒットする。ブラック・コンテンポラリーやR&Bジャンルが日本にも浸透し始める。TRFの「EZ DO DANCE」、電気グルーヴの「虹」、安室奈美恵の「TRY ME 〜私を信じて〜」と言ったエレクトロニック・ダンス・ミュージック系統のJ-POPが本格化した。1994年、EAST END×YURIの「DA.YO.NE」など、ヒップホップも本格的に流行しはじめる。詳細は日本のヒップホップを参照。
1991年、CHARA「Heaven」、1996年、UA「情熱」・久保田利伸withナオミ・キャンベル「LA・LA・LA LOVE SONG」、1998年、MISIA「つつみ込むように…」、1999年bird「SOULS」等、和製R&Bと呼ばれる曲調も流行し、1999年3月に、宇多田ヒカルが1stアルバム『First Love』を発売、日本で860万枚以上、日本国外を含めると990万枚以上を出荷、日本のアルバム歴代チャート1位に輝く。
1990年代前半はハードロックやハードコアテクノやユーロダンス、1990年代後半はR&Bやレゲエの流行に移り変わり、その後は趣味嗜好の多様化により画一的な構図では音楽の流行を説明できなくなった。
J-POPという言葉は1990年代から一般の雑誌などでも見かけるようになり、1993年7月には『ザ・テレビジョン』でロックバンド「J★POP」が紹介された[56]。オリコンチャートや、TV音楽番組等での人気ランキング発表を「J-POPヒットチャート」等と呼ぶようになり、「J-POP」という単語は、そういった意味の楽曲の人気順位を視覚的に表示したヒットチャートを指す場合にはジャンル名では無く、日本のポップス音楽の流行の傾向を指すようになる。
一般に使用されるようになるまでにはしばらくの歳月を要し、定着したのは1993年から1995年頃とされるが、例外的にタワーレコード心斎橋店で、1990年にJ-POPコーナーが設置されている[57]。雑誌『マルコポーロ』は1994年7月号において「パクりが多い」、「ヒット曲のほとんどが盗作」、という見出しを用い、「洋楽を無節操に真似た音楽」という定義として「Jポップス」という言葉を使用している[40]。
1993年は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が始まった年であり、これの存在もJ-POPという語の普及にとって無視できない要素であると言われていた[58]。「Jリーグ」は同年の「新語・流行語大賞」に選ばれている。Jリーグの開幕もあり、おおよそ1995年までにはJ-POPという言葉は定着したとみられている[40]。1995年春には「J-ROCKマガジン」が創刊され、雑誌と連動したテレビ番組「J-ROCK ARTIST COUNT DOWN 50」が人気となり、マスメディアでポップスとロックを区別する形でも使われるようになった。
呼称の定着までに時間がかかった一因としては、「J-POP」という名称がライバル局から生まれたものとして他局が使用に積極的では無かったこともあげられる。一例としてJFN系キー局であるエフエム東京や、その傘下の出版社では1990年代中頃までは極力使わず、本来の「ジャパニーズ・ポップス」の略称である「J-POPS」という名称を多用した。音楽番組「デイブレイク J-POPS」や「アフタヌーン・ブリーズ」のジャパニーズ・ポップス・リフレインなどがそうである。
『AVジャーナル』2003年11月号では富澤一誠が当時、NACK5で『JAPANESE DREAM』という音楽評論家がプロデューサーとパーソナリティを兼ねるという珍しい番組をやっていたことから[59]、NACK5の常務取締役だった田中秋夫との対談が組まれ[59]、当時の音楽状況について討論があった[59]。田中秋夫は元文化放送の編成局長で、1960年代から1990年代まで『セイヤング』などのディレクターを務めた[59]。二人の対談は5頁に亘るが「J-POP」という言及は一回もない。2002年秋と2003年秋に富澤の監修で『JAPANESE DREAM』でよく選曲していた楽曲を収録した『TEARS』『TEARSⅡ』という2枚のコンピレーション・アルバムが、ユニバーサルミュージックから発売されたが、『TEARS』では、ASKA「はじまりはいつも雨」、中島みゆき「わかれうた」、沢田知可子「会いたい」、杏里「オリビアを聴きながら」、石川セリ「ダンスはうまく踊れない」、松山千春「恋」、大橋純子「シルエット・ロマンス」など17曲が[59]、『TEARSⅡ』では、今井美樹「PRIDE」、Le Couple「ひだまりの詩」、森高千里「雨」、岡本真夜「Alone」、氷室京介「魂を抱いてくれ」、松田聖子「あなたに逢いたくて」、中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」、五輪真弓「恋人よ」など16曲が収録され[59]、これらの楽曲について富澤が「最近、音制連では『J-STANDARD』という言い方になっている」と話している[59]。同誌の富澤のプロフィールには「ジャパニーズ・ポップス専門の音楽評論家」と書かれている[59]。
なお烏賀陽によれば、J-POPは従来あった歌謡曲・フォーク・ロック・ニューミュージックなどのジャンル・サブジャンルを全て殺し、それに成り代わっていったという。すなわちJ-POPの普及後はそれぞれが、従来のジャンルはJ-POPというマンションに入居し、歌謡曲系J-POP、フォーク系J-POP、ロック系J-POP、などといった構造に再構築され収まっているという[60]。
CD売上は右肩上がりを続けて1991年に初の4000億円台を記録すると、1998年の6074億9400万円まで史上最高を更新し続けた[61]。生産量も1991年に3億枚を突破、1993年に4億枚を突破する[62]など成長を続ける中で、個人としても1977年に阿久悠が作詞家として記録した1172万9000枚の作家別の年間売上記録を、1993年に「負けないで」の作曲などで知られる織田哲郎が作曲家として1240万5000枚を記録し16年ぶりに更新した(1976年以後の記録)[63]。
1998年に日本のレコード(CD)生産金額は過去最高を記録する[64]。1988年に3429億4700万円だった生産金額は、10年後の1998年には6074億9400万円と、ほぼ倍増している[64]。
2000年代前半には、1998年から続いていた日本国内におけるR&Bや2ステップのブームが終焉を迎える。
海外のクラブ・ミュージックではトランスが流行していたが、日本でもその曲調を取り入れた浜崎あゆみが人気となる。「サイケデリックトランス」や「サイバートランス」等と呼ばれたダンスミュージックは東京都渋谷区渋谷のクラブ、センター街、道玄坂の商業ビル109 (商業施設)等を中心にトラパラというダンスによって流行し、ファッション等と合わせて「ギャル文化」を形成した。
2001年初冬、宇多田ヒカルが2ndアルバム『Distance』のリリース予定を3月28日に公表した後に、浜崎あゆみのベスト・アルバム『A BEST』が同じ発売日に設定したことから、テレビのワイドショーやスポーツ新聞などから「歌姫対決」と煽られる。最終的に双方とも売上400万枚を超えるヒットとなった。
「歌姫」ブームの火付け役となった前述の浜崎あゆみと宇多田ヒカルを始め、同時期にブレイクを果たした椎名林檎、aiko、MISIAは「国民的歌姫」と言われ、[65]2000年代を通して人気を博した。また、2000年代前半から中盤には中島美嘉、BoA、倖田來未等のソロ女性歌手のアルバムがミリオンヒットを記録したことや、「ギタ女」ブームにおけるYUIや木村カエラのブレイク[66]、その他には大塚愛や伊藤由奈等のブレイクで、多数のソロ女性歌手による空前の「歌姫」ブームが巻き起こった。
音楽ジャンルの融合が進み、ヒップホップ、三木道三や湘南乃風に代表されるジャパニーズレゲエ、ミクスチャー・ロック、スカコア、青春パンクなども人気となる一方で2000年代は季節を歌う曲もヒットし、特に春、桜の季節には、福山雅治「桜坂」、森山直太朗「さくら」、ケツメイシ「さくら」などがヒットし、「桜ソング」と呼ばれ人気となった。
桜ソングに並行して、歌謡曲、フォークソング時代から引き続き、春夏秋冬、季節を歌詞に織り込んだ曲が人気となった。
2000年代に入るとシングルの売上が減少を始め、2003年3月5日に発売されたSMAP「世界に一つだけの花」を最後に日本レコード協会の認定で200万枚を超える売上(出荷)を記録したシングル盤が2012年まで現れなくなった[67][68]。2000年代後半に入るとミリオンセラーのCD自体が減少するようになった(日本レコード協会の認定で2008年と2009年の2年連続、オリコンの集計で2008年から3年連続でミリオンセラー・シングルが存在しない[69][70])。
2001年に発売された井上陽水のアルバム『UNITED COVER』が、収録曲がすべてカバー曲でありながらもヒットし、カバーブームの火付け役となった[71]。同年にはウルフルズとRe:Japanが、坂本九の「明日があるさ」をカバーして大ヒットした[71]。また、2002年には島谷ひとみがヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」をカバーしてヒットしたほか、多くのアーティストがカバーアルバムを発表[71]。さらにテレビ東京で『カヴァーしようよ!』が放送された[71]。ヒット曲カバーの流れは2003年に入っても続いた[72]。また、同時期にはEGO-WRAPPIN'、クレイジーケンバンド、渚ようこなど、昭和歌謡曲を再構築する動きもみられた[72]。
2000代後半、海外では欧州等でフィルターハウスの流行がありその流れを取り入れた中田ヤスタカによる数々の音楽プロジェクトの成功により、2007年から日本国内で2回目のテクノポップ・ムーブメントが起きたことで、アコースティック感を持たない、極めて抽象的なシンセサイザー音(「ピコピコ」音)が主体の音楽が多数作られるようになって行った。
同時に、PC上のデジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)による打ち込みが主流となり、音楽表現が劇的に高度化・複雑化した。PC上のDAWによる打ち込み主体の音楽に移行した原因としては、顧客の趣味嗜好の細分化によりCD不況とも呼ばれる状況に移行したことで制作費用が掛けられなくなり、スタジオ・ミュージシャンの起用などが難しくなったことも影響している。更に、PCやインターネットへの常時接続環境の普及により、個人が容易に情報発信を行えるようになり、アマチュアが自主的に音楽配信を開始したことで、ネットを中心とした音楽シーンなども形成されるようになって行った。
日本では2005年に「iTunes Store」がサービスを開始し、2004年から2006年にかけて各携帯会社が「着うたフル」を開始するなど、音楽配信(デジタル・ダウンロード)の売上が増加する。日本レコード協会の発表によると、同協会が集計の公表を開始した2005年から2008年まで有料音楽配信の売上金額は上昇を続け[73]、2006年にはシングルCDの生産実績を上回った[74]。ただし、2009年の売上は前年とほぼ横ばいで[75]、2010年には前年を割っている[76]。音楽配信による代表的なヒット曲として、青山テルマ feat. SoulJaの「そばにいるね」やGReeeeNの「キセキ」がある。「そばにいるね」は、2008年に「日本で最も売れたダウンロード・シングル」としてギネス世界記録に認定されたが、翌年の2009年に「キセキ」が記録を更新した[77]。累計400万ダウンロード以上の売上を記録しており、レコチョクが2019年に発表した「平成で最もダウンロードされた楽曲」にも選ばれている[78][79]。
2000年代における音楽ソフト(パッケージ)売上の減少は、「CD」や「レコード」という「音源記録媒体」を購入する時代から「音源そのもの」だけを購入するダウンロード販売が主体の時代へと移行したことを示しており、音楽産業に限らないコンテンツ産業全体におけるデジタル化と高技術化が生んだ現象である。日本レコード協会の発表によると、パッケージと有料音楽配信を合計した売上金額で2005年から2007年まで3年連続で前年を上回っていた[80]が、2008年には前年をやや下回った[73]。インターネットが個人で利用しやすくなったことにより、ファイル共有ソフト (P2P等)やウェブサイト上での不正アップロードが横行するのも要因であるが、こちらは有料音楽配信の影響も受けている[81]。
2005年頃からは、CDにDVDやグッズ、キャンペーンコードなどの様々な特典を付ける売り方(所謂「初回限定盤」等)や、カップリング曲やジャケット写真等が異なるCDを複数リリースする売り方も徐々に増え始めた。モーニング娘。は、2005年リリース曲「色っぽい じれったい」のCDに握手会のキャンペーンコードを封入し、嵐も同年にリリースした「WISH」では、CD購入者限定の握手会を急遽開催し、2006年リリースのKAT-TUNのデビューシングル「Real Face」では、ジャケット写真のセンターがメンバー毎に異なる初回限定盤をリリースするなど、後に「接触商法」「複数商法」「握手商法」と呼ばれるようになる売り方がこの時期から顕在化するようになった。
インターネットを介した情報交換が国家を跨いで活発に行われた結果として、音楽ジャンルの融合と新しい音楽表現が生まれた。日本発の音楽としてはアニメソングがファイル共有ソフト初期の時代から好まれた[82]。
2005年には「YouTube」、2006年には「ニコニコ動画」が開設、2007年には『初音ミク』がリリースされた。
こうして2000年代後半には、YouTubeやニコニコ動画といった動画共有サービスや、初音ミク等VOCALOIDソング等の発表が流行。2000年代も末になるとネット発の音楽家が多数表舞台に立つようになり、ネット発の音楽家も多数登場することになる。後に有名となる前山田健一や米津玄師もこの時期のニコニコ動画出身である。また、ニコニコ動画において、J-POPの典型コード進行として王道進行の存在が発見された。
モーニング娘。の人気がピークを過ぎた2000年代前半以降、男性アイドルグループは、ジャニーズの活躍等で依然として安定した人気を保っていたものの、女性アイドルグループは、女性ソロアーティスト等の人気に押され、全体的に人気が下火となっていた。
しかし2010年代に入ると、2005年12月8日より東京・秋葉原を拠点に活動していたAKB48の本格的なブレイクや、ももいろクローバーZのブレイクにより、女性アイドルグループの人気が復活するようになった。
そのAKB48のブームに続けと、2010年代以降は各種アイドルグループが乱立し、「AKBの公式ライバル」を自称する乃木坂46のようなメジャーアイドルや、「地下アイドル」と呼ばれる、ライブ活動を中心に活動するマイナーアイドル(あるいはご当地アイドル)も多数現れた。このような過当競争は「アイドル戦国時代」と呼ばれる状況を生み出した[83]。
2010年代になるとシングル盤だけでなくアルバム盤もミリオンセラーとなる作品が少なくなり、「CD不況」と呼ばれる状況となった(2010年発売のアルバム盤で年度内にミリオンを突破したのは2作のみ[85])。
さらに、2010年のオリコン年間シングルランキングは、AKB48と嵐の2組のみでTOP10を独占するなど、特にシングル盤においてアイドルグループとその他アーティストとの売上の格差が大幅に拡大した。
一方で、日本レコード協会が発表した2010年の着うたフル年間チャート[86]では、AKB48の楽曲は「ヘビーローテーション」の12位が最高であり、着うたフルを配信していない嵐はチャート対象外である。着うたフルを配信しなかったジャニーズ作品(SMAP、嵐、関ジャニ∞、KAT-TUN、Hey! Say! JUMP等)が2010年のオリコン年間シングルランキングトップ100のうち23曲を占めたほか、桑田佳祐・Mr.Children・BUMP OF CHICKENなど、着うたフルを配信していないアーティストのCD盤のセールスが顕著に伸びる傾向が一段と強くなった。
一般に「AKB商法」や「K-POP商法」と呼ばれる、メンバーとの握手券などの特典を付けることにより、熱心なファンが同じ商品を複数枚買うようなセールス方法が一般的となり、完全に常態化したことも挙げられる。
岡崎体育のJ-POPあるある、タニザワトモフミの「くたばれJ-POP」など、J-POPの陳腐化も指摘された[87][88]。
2013年のJOYSOUND年間カラオケランキングの上位3曲は「女々しくて」、「残酷な天使のテーゼ」、「千本桜」であり、アニメソングやボーカロイド曲など、セールスでは測れない人気曲の多様化が顕著となった[89]。
Appleはメジャーレコード会社と提携し、2005年に日本国内でiTunes Storeを開始しており、日本の音楽配信サービスである着うたフルと競合するようになった。CD売上の減少とともに着うた配信、ダウンロードによる音楽配信が主流になりつつも、日本の音楽市場全体でみるとCD市場の減少分をカバーするには至らなかった。
アイドルの特典商法の隆盛により2012年にはCD市場が一時的に盛り返したものの、それ以降は再び減少傾向にある[90][91]。
YouTubeや違法ダウンロードの蔓延が売上減少の最大の原因だとして、2012年9月10日 日本レコード協会(RIAJ)、日本音楽事業者協会(音事協=JAME)、日本音楽制作者連盟(音制連=FMPJ)など音楽芸術関係7団体は、「私的違法ダウンロードの罰則化」に関する啓発活動を目的に「STOP!違法ダウンロード広報委員会」を設立した[92]。
2015年頃からSpotify、Apple Musicをはじめとしたサブスクリプション型のストリーミングによる売上が増加をたどり、2018年にはダウンロードによる売上を越え、2019年時点でストリーミング単体では465億円の売上となった[94]。ストリーミングはアーティストへの収益分配が十分でないという批判が大きく、当初は大物アーティストの提供取りやめが相次いだが、ストリーミングの占める売上が年々高まるにつれ多くのアーティストが提供するようになってきている[95]。
音楽は所有するものからアクセスするものとなりつつあり、音楽の聴かれ方が変化する中、2010年代終盤から2020年代にかけてボカロにゆかりのある米津玄師、ブラックミュージックをベースとした星野源、フォークソングをベースにしたあいみょん、オルタナティヴ・ロックを基軸としたKing Gnu、ピアノロック系のOfficial髭男dismなどが人気を集めている。星野源の「恋」や米津玄師の「Lemon」などはYouTube上のミュージックビデオで、あいみょんの「マリーゴールド」、King Gnuの「白日」、菅田将暉の「まちがいさがし」、Official髭男dismの「Pretender」などはストリーミングで、いずれもリリース後1年足らずで1億回以上の再生回数を記録し[96][97]、「売れた枚数」から「聴かれた回数」へと、楽曲のヒット基準が変化している[98][99]。
2010年代末以降は、YouTubeやTikTok等のインターネットを中心に流行した楽曲が、のちにテレビなどを通じて広まる逆輸入的な現象も起きている。YouTuberとして活動する音楽家も一般的となった。
一方、K-POPが世界を席巻する中で、日本の音楽の世界進出が未だに進んでいないことを問題視する声もある。ネットメディアの活用が遅れていることや、著作権使用料の支払い処理が複雑であることが主な要因とされる[100]。
2010年代はCDセールス、着うたフル、iTunes等による配信ダウンロードとそれぞれにチャートが存在したため、ヒットした楽曲を客観的に判定することが難しい側面もあった。オリコンは長らくCDセールスを重視してきたが、2017年に「デジタルシングル(単曲)ランキング」、2018年に「ストリーミングランキング」とCD、デジタル・ダウンロード、ストリーミングを合算した「合算ランキング」の発表を開始した[101]。
2010年代後半頃、日本の約40年前の過去の流行音楽であるシティ・ポップが日本国外で注目され始めた。2020年10月には海外YouTuberがカバー曲の歌唱動画を発表した事が切掛で松原みきの「真夜中のドア〜Stay With Me」(1979年)がSpotifyグローバルバイラルチャート15日連続世界1位を記録、Apple MusicのJ-POPランキングでは12か国で1位を獲得するヒットとなった[102][103][104]。その流れを受け日本でシティポップの新曲が発表された。また、日本の若手のアーティスト達の間ではネオ・シティ・ポップと呼ばれる流行が静かに起きている[105]。
日本における2020年初冬以降の新型コロナウイルス感染拡大の影響によりソーシャルディスタンスを確保する必要が生じると、2000年代以降成長を続けてきた音楽ライブの市場規模は大幅な減少となった。ぴあ総研によると、2020年のオンラインライブを除いた音楽ライブ市場は2019年の4237億円から対前年比86.1%減の589億円、音楽フェス市場は2019年の330億円から対前年比98%減の6.9億円に激減した[106][107]。多くの音楽家にとって、楽曲の公開で作品の配信やオンラインライブ以外の方法が取りにくくなった。
そのような状況の中、ボカロに縁がありYouTube動画で楽曲を発表していた、ずっと真夜中でいいのに。、YOASOBI、ヨルシカの3組のバンドは「夜好性」と呼ばれ人気となった[108]。一般人女性のひらめが制作してTikTokに投稿した「ポケットからきゅんです!」がバズを引き起こすなど、数多くのインディーズミュージシャンの楽曲がTikTokを起点として拡散する傾向が高まった。
過去には芸能プロダクション、音楽事務所が売り出す方法に頼らざるを得なかったが、TuneCoreなどの音楽配信委託サービスを通して、誰でも世界中に自分の楽曲を配信することが可能となったことで、瑛人、yamaなどSNS経由でのインディーズミュージシャンのブレイクが増加している[109]。
2020年には、CD未リリースながらストリーミングやYouTubeの動画再生回数で好成績を収めたYOASOBIの「夜に駆ける」が音楽チャート「Billboard Japan Hot 100」の年間1位を獲得しNHK紅白歌合戦に出場、2021年はBillboard Japan各指標ダウンロード、ストリーミング、カラオケの三冠で年間1位の優里「ドライフラワー」など、フィジカルセールスからストリーミングへの流れがさらに拡大している。
2022年に入り、新型コロナのパンデミックは未だ終息は見えないものの、マスク着用、ソーシャルディスタンス、声援禁止等の感染防止対策ガイドラインの規制を維持した上で日本各地でロック・フェスティバルの開催が再開された[110]。それぞれ約3年ぶりの開催とあって待ち望んでいたファンの盛況となった。5月開催のMETROCK2022のヘッドライナーを務め楽曲「新宝島」を演奏したサカナクションの山口一郎はNHKのインタビューで「不安な時代を音楽で“乗りこなす”」意義を強調した[111]。また7月開催の京都大作戦2022主催ロックバンド10-FEETは楽曲「その向こうへ」「RIVER (10-FEETの曲)」等を演奏、開催出来た感謝の言葉を述べた[112]。茨城県での「LuckyFM Green Festival」、WANIMA主催「1CHANCE FESTIVAL」の様に新規のフェスも開催された[113]。
アニメソングは海外で最も聴かれた日本のポップス音楽ジャンルに成長し、日本を代表するポップス音楽ジャンルとなっていたが、日本が本場となり海外へ輸出し得ている現代文化であった「おたく文化」の諸分野は、国内では一般の大衆文化よりもさらに劣るとみなされてきたため、そのことは国内であまり認識されていなかった[114][115]。一方、日本での成功をバックに欧米でデビューし失敗するミュージシャンが後を絶たないのはモノマネの域に留まっている文化的植民地性によるもので、西洋文化の枠組みに囚われない日本的なものであるオタク文化は海外にも広まるのではないかという予想もされていた[116]。
やがてアニメソングの存在が認知されるようになり、2020年にはLiSAの「炎」が第62回日本レコード大賞大賞を受賞した[117]。LiSAの「紅蓮華」は、2020年12月4日発表のSpotify・「海外で最も再生された国内アーティストの楽曲」の1位[118]であり、2021年8月8日『東京五輪閉会式』に用いられた。この他、ゲームミュージックも海外に知られた日本発の音楽となっており、2021年7月23日『東京五輪開会式』での選手入場行進曲に用いられた[119]。
2022年以降もアニメソングは人気であり上半期はAimer「残響散歌」がBillboard JAPAN HOT100上半期1位[121]、SiM「The Rumbling」がアメリカ・Billboard HOT HARD ROCK SONG CHART100で1位獲得[122]、中田ヤスタカがプロデュースのシンセウェイヴ、エレクトロ・ポップ要素があり、映画「ONE PIECE FILM RED」主題歌のAdo「新時代」は日本楽曲初、Apple Musicデイリーグローバルチャートで1位となった。その他各国のSpotify・カラオケ等、国内外のヒットチャートで1位を獲得、85冠(9月7日時点)を達成した[123]。ビルボードのGlobal Excl. U.S.チャートでは「新時代」をはじめ同映画関連7曲が同時ランクインした[124]。アニメ「チェンソーマン」オープニングテーマである米津玄師「KICK BACK」は、日本の楽曲として初めてSpotify Global 50にランクインしたほか[125]、2023年には日本語詞楽曲として初めてアメリカレコード協会(RIAA)からゴールド認定を受けた[126]。
2020年頃からYouTubeでボカロが人気になっている。2007年8月31日、VOCALOID・初音ミクが発売された際の一次流行から時を経て、人間が歌唱して人気が再燃している[127]。前述のSpotify・世界で最も再生された日本のアーティストの楽曲(2021年)の1位Eve、3位と10位のYOASOBIのコンポーザーAyaseはボカロPである。2021年12月には、VOCALOID楽曲の歌い手・歌手として知られるまふまふが、NHK紅白歌合戦に出場し、VOCALOID楽曲として人気の高い「命に嫌われている。」(カンザキイオリ作)を歌唱したことで大きな反響を得た[128][129]。詳細はボカロ参照。
J-ROCK(ジェイロック)という表記が登場するきっかけとなっている。「日本の」という意味でJ-RAP、J-SOULなどにも「J-」を付ける使い方も一時期流行した。これらの言葉はJ-ROCKを除くと現在はあまり使われておらず、「J-POP」がこれらのジャンルの楽曲も内包する言葉である。なお、日本国外で日本音楽を内包する言葉としては、Japanese Music(J-music)が一般的である。
方言としてZ-POP(ズィー・ポップ)がある。JFL系列のラジオ局ZIP-FM(愛知)とJFN系列のエフエム熊本(FMK)が用いる言葉で、日本を表す"Zipangu"(ジパング)の頭文字であること、局限定であること(ZIP-FMは放送エリアである名古屋周辺を「ZIP CITY」と呼ぶ)、局による選曲方針の違いなどがあるものの、J-POPとほぼ同意義である。
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