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日本の音楽ユニット ウィキペディアから
TM NETWORK(ティーエム・ネットワーク)は、小室哲哉(シンセサイザー・キーボード)、宇都宮隆(ボーカル)、木根尚登(ギター・キーボード)の日本のスリーピース音楽ユニットである。
TM NETWORK | |
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別名 |
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出身地 | 日本 東京都多摩地域 |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
公式サイト | FANKS intelligence |
メンバー |
1984年(昭和59年)4月21日にシングル「金曜日のライオン (Take it to the lucky)」及びアルバム「RAINBOW RAINBOW」でデビュー。1987年(昭和62年)2月26日リリースの4枚目のオリジナルアルバム「Self Control」で初のオリコンアルバムチャートベストテン入りを果たす。同年4月8日リリースの10枚目のシングル「Get Wild」で初のオリコンシングルチャートベストテン入りを果たす。同年7月1日発売のベストアルバム「Gift for Fanks」で初のオリコンチャート1位を獲得。1990年(平成2年)に名義を「TMN(ティーエムエヌ)」へリニューアル。その後、デビュー10周年となる1994年(平成6年)4月21日に「プロジェクト終了」宣言、同年5月18日・19日のライブ『TMN 4001 DAYS GROOVE』をもって終了。1999年(平成11年)には再びTM NETWORKとして再始動。LPレコード、カセットテープを含めたシングルとアルバムの売上総数は公称1600万枚を突破している。
1984年のデビュー以降、正規メンバーの変更は一切行われていない。
名前 | 生年月日 | 出身地 | 血液型 | 身長 | 担当 | 役割 |
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小室哲哉 (こむろ てつや) |
1958年11月27日(65歳) | 東京都府中市 | O型 | 167cm | シンセサイザー、キーボード、ピアノ、ハモンドオルガン、シンセベース、DAW、シンクラヴィア、ボーカル[11]、コーラス、ドラムス、チューブラーベル[12]、エレクトリックギター[13] | 作詞、作曲、編曲、リーダー、プロデュース |
宇都宮隆 (うつのみや たかし) |
1957年10月25日(67歳) | 東京都立川市 | 178cm | ボーカル、コーラス、ギター、ベース[14] | 作詞[15]、作曲[16] | |
木根尚登 (きね なおと) |
1957年9月26日(67歳) | B型 | 174cm | コーラス、アコースティックギター、ピアノ、キーボード、ハーモニカ、エレクトリックギター、シンセサイザー、ベース、ボーカル[17] | 作詞[18]、作曲、編曲[19] |
TM NETWORKは小室をリーダーとする3人組の音楽ユニット[20]・ロックユニット[21]・デジタルバンド[22]、シンセサイザーを大幅に導入した新世代ロック・バンドとして注目を浴びる[23]。1986年5月30日発売のバンドスコア『VISION MELODIES』において小室は、「史上最少のAVプロジェクト」と言っており、「音楽だけでも世間から認知されるのが大変なのに、ビジュアルまで考えるのは欲張りである」、「ビジュアルを考えた音楽がTM NETWORKの音楽であるとすれば、これは1つのジャンルと言えるかもしれない」と語っている[24]。 2002年のJASRACによる小室インタビュー[25]ではロックバンドの意識だったがダンスミュージックにシフトしていった、また2015年の木根による著作[26]ではDRESS2レコーディング時にシンセサイザーバンドだと再確認したと述べられている。
略称はTM、TMN。TMN名義で活動していた時期はTMとは略されず、そのままTMNと呼称されることが多かった。なおTM NETWORK名義の楽曲も一部のメディアやファンからはT.M.Revolution[注釈 3]やTMGとの区別のためTMNと呼称されることもある(特に1990年以降)[注釈 4]。
切れのいい歌を入れた[27]デジタルシンセサイザーやサンプラーを中心としたスタイリッシュなポップスの在り方を明確に提示し、1980年代末から1990年代初めの日本国内に一大旋風を巻き起こした。その音楽性は、デビュー直後のB'z[注釈 5]やaccess、DREAMS COME TRUE[注釈 6]、TRF等1990年代以降のJ-POPやアニメソングにも非常に大きな影響を与えており、ロックを基盤とした独特の緊張感を持つ作風から、同時期に活動していたBOØWYともよく比較される[28]。
デジタルシンセサイザーやサンプラー・シークエンサー・コンピューター・デジタルオーディオワークステーション(DAW)を活用した同期演奏の第一人者[1]であるが、アナログシンセサイザーを多用したRHYTHM REDツアーやハモンドオルガンなどを用いたチャリティーイベントAAA'93での演奏、グランドピアノを用いた1994年終了コンサートのアンコール[29]、LIVE TOUR Major Turn-Roundでのメロトロンを用いた演奏[30]や2020年年末イベントのアコースティックよりな「TIMEMACHINE」等の演奏[31]など、同期を使わないこともある。
デビュー当初のコンセプトは「ライブはしない、その代わりPVにはテレビCM界の大御所を起用する」というものだったが、正確には「ライブをしない」ではなく「小室の要求を満たすテクノサウンドを制作できる機材が高価過ぎて手が届かなくて、ライブができなかった」と言うのが正しい。それに気付かされたのが「DEBUT CONCERT」開催時の音色の薄さであり、その後すかさず「ライブをしない」というフェイクのコンセプトを打ち立てた[32]。そのような試行錯誤を続けていく内に、「アルバム毎」あるいは「何年かの周期」という小室の音楽的な志向や興味をその時の活動のテーマにして、それを宇都宮・木根が理解し3人が意思統一して、「その時代でやりたいことを徹底してやる」[33]「洋楽と邦楽の間にある溝は何なのかを常に話し合い、その上で洋楽への入り口になって、代理人として道案内をする」[34]ことをTMの活動の基本コンセプトとし、その方針は小室のTM以外での活動でも活用されることとなった[35]。
活動開始前は鍵盤楽器を主なルーツにしていたものの、ピアノ・歌のみだと「フォークソングになってしまい、先進性がない」と危惧し、シンセサイザーを全面に持ってきてしまうと「1980年代前半のイエロー・マジック・オーケストラの二番煎じになる」と悩んだ。その時にBOØWYの活動を見た小室は「ギターの音色はロックになっていて、歌のメロディは歌謡曲に近い」とうらやましく感じ、歌と音を上手く合わせることで、先進性と大衆性のバランスをとる様に意識した[36]。
全ての演奏をメンバー内で完結させる形のロックバンドではなく、個々のキャラクターと役割の分担を重視した音楽ユニットとして組まれた。小室はそれをフォーミュラ1のエンジン・ボディの開発チーム、ドライバー、整備班、スポンサーをひっくるめたプロジェクトチーム・あるいはコーポレートアイデンティティに例え、それらのチームワークをTMに流用している。バンドではないことを逆手にとって、「3人が経営する企業」に置き換え、企業理念の要領でデザイン要素(ロゴマーク・コンセプト名等の変更・統一)を計画的にコントロールし、活動の活性化を促しつつアピールし、メンバーの変化と成長をアイディアで見せることで迫力と緊張感をファンに楽しんでもらう活動をビジネスレベル・プロジェクト単位で自覚的に行った[37][28]。少なくとも「小室がスタジオで機材を遊び感覚で動かしながら新しい制作方法を開発し、木根がバラードを作り、宇都宮が歌に専念する」という制作システムは1979年に前身たるバンド「SPEEDWAY」でセッションした時から変わっていない[38]。
作詞は「僕は曲を作る時にどうしても音が先行してしまうし、どうしても趣味の『SF・不思議の世界』になってしまう。だから、誰もが心の中で『自分のそういう部分がある』と納得できるわかりやすいものが欲しい」という小室の意向から、周囲と相談しながら大半の作詞作業に女性の作詞家を起用している。メインの作業を女性に委託しているのは、「TMの繊細な部分と合っていて、細かい所まで神経が行き届いているから」という志向によるものである。小室が曲を完成させた時点で、映画・小説を持ち出して、「こういう曲にしたい」と周囲と話し合い、曲に合った作詞家を探し出して、その人も含めて話し合う。加えて書き上げた歌詞にも合わないと容赦なくリテイクを出すため、とても手間をかけている。宇都宮は「1回OKは全くない。何回も書き直してやっとOKが出る」と話している[39]。
シンガーソングライター・小説家の小室みつ子[注釈 7](1986年以前の初期は「西門加里」のペンネーム)が主なTMの作詞担当を行っている[注釈 8]。小室みつ子以外では、松井五郎(1985年と2014年に2曲)、麻生香太郎(SEYMOUR、1984年と1985年の初期に数曲のみ)、三浦徳子(1985年に1曲のみ)、川村真澄[注釈 9](1986年に1曲のみ)、神沢礼江[注釈 10](1986年と1987年に数曲のみ)、竹花いち子(1986年に1曲のみ)、TMN時代には脚本家の坂元裕二[注釈 11](1990年と1991年に数曲のみ)からも詞の提供を受けている。
作詞の世界観について、代表曲の大部分を担当している小室みつ子は「主人公の資質はピュアだけど、ピュアになりきれない世界の中で生きる主人公」をテーマの主軸とし、小室は「純粋にファンタスティックで、SF・ロールプレイングゲームを思わせる世界観」を基本方針にしている[40]。
作曲と編曲のほとんどは小室と木根が担当している。1980年代末より楽曲制作にシンクラヴィア(Synclavier 6400)を導入しハードディスクレコーディングを取り入れている[3]。
歌唱パートのメロディの基本構成は「宇都宮がメイン・小室がハーモニー部分のコーラス・高めの音等のきつめのコーラスを木根」という割り振りになっている[41]。
活動を考える際、主に木根と2人で「3人は何ができて、何ができないか」「デモテープはどう作るか」を時間をかけて話し合う[42]。小室は「デモテープを作っているときにあまりにマニアックで過激な方向へ走っていったときに、木根はすごく大衆的な耳を持っているから、彼に聞かせると『この方向性でいいか悪いか』が分かる」と語り、木根は「あんまり意識はしてないけど、口で言わなくてもやっぱり顔に出るのかな。TMの楽曲の第一番のリトマス試験紙」と話している[43]。そのシステマティックな制作姿勢は小室は2人との関係性を自分自身も評する上で「3人の間での意見の食い違いなんて、『リードシングルはどれにしよう』『セットリストはどうしよう』とかその程度」[43]「ヴィジュアル面・音楽面・コンテスト等のプレゼン・デモテープの作り方等での『自分の思い付きを実現する』という苦しい作業に、軽く乗ってくれて対応できる順応性・柔軟性・癖を持っている」[44][42]「3人とも個別で『自分は何をやればいいのか』を、独自に一定の距離を保ちながら考えていた」「『1人だけ売れると嫉妬心を持つ』というケースが全然なかった」[45]「3人で揉め事や喧嘩をしたことや不平不満を言ったことは一度もないですね。プライベートでも仲がいい」[46]と答えている。
「TMN終了」以降は1年に2、3度しか会わないことも珍しくなくなったが、宇都宮の個人事務所エム・トレスの意向でTMの制作チームのスタッフが、安室・globeのコンサート制作チームとしてそのままスライドされたこともあり、久しぶりに会っても違和感やブランクは全くなかった[40]。小坂洋二は3人を「彼らが揃えたスタッフも、中学からの友達ばかりだった」「しんみりしそうになると、すぐに笑い飛ばす独特の世界」と話している[47]。
デビュー時から、イメージ戦略を徹底的に行った。特に「面白い」イメージを付けないために、雑誌に載せる予定の写真は写っている表情まで隅までチェックし、「ナチュラル」「自然体」と評されそうな写真は極端なまでに避け、「笑顔」「コンサートの楽屋風景」は絶対に採用しなかった。雑誌・テレビに出てもしゃべるのは小室と宇都宮だけで、元々プライベートでも面白い雰囲気を持つ木根はトークに参加できなかった。その内にFMラジオ出演・雑誌インタビューは小室中心、テレビ出演では宇都宮を目立たせ、AMラジオ出演は木根出演と徹底して役割を分担し、常にスタイリングされたトータルな世界観で表に出た[48][49]。当初フォークシンガーを目指していた木根は、TM結成後はイメージ作りのため、フォークについて口にすることを禁じられたという[50]。
モデルはデュラン・デュラン、ジャパン等のニューロマンティック系のバンドのジェンダーレスな雰囲気を狙って出す様にしていた[51]。
ライブはどのような演出・構成・プレイリストなのかは読めないように仕込み、幕が開いて初めて分かるように演出した。天井からスピーカーをぶら下げる形のサラウンドシステムを導入したり、ムービングライト等様々な最新のテクノロジーを取り込んだ。木根は「サポートメンバーもTMの正式メンバー」という精神で、気持ちよく集団制作ができるロックバンドとしての環境作りに気を回した[28][52]。基本は「音楽・照明・舞台構成・パフォーマンスが一体となって融合している」ことを目標にし、観客が場内に入ってから、ライブが終わって場外へ出る間の余韻まで綿密に計算している。それ故にアンコールは一度も行わず、強いていえばカーテンコールで一礼して観客に答えるだけだったが[53]、「TM NETWORK FANKS CRY-MAX」以降は時折アンコールを取り入れるようになった[54]。
ライブでは楽曲に対して「再構築」とも取れる大幅なアレンジ・リミックスを施している。発端は「E-mu Emulator IIの読み込みに時間がかかるため、その場をどうつなぐか」という発想からスタートした[55]。そこから、基本方針は「ただ踊るだけの曲なら、ドラムだけでも成立するし、1、2回聞いたら飽きられる。踊りやすいのは勿論のこと、座って聞いていても聴かせる音にする」ことを目指す様にしている[56]。
従来の「この楽曲だけ聞ければいい」「この辺で踊れればいい」「アンコールで盛り上がって行きつく」構成ではなく、「プロローグで『これは何?』と疑問と興味を持ってもらい、ストーリーが段々と盛り上がっていって、エピローグで意味がわかる」というシアトリカルな演出を志向した。舞台監督からの影響もあり、「一景・二景…」と絵を分けて、舞台用語・演劇用語を使いながら企画会議を進めていき、それらに音楽をどう結び付けていくのかを考えていった[57]。
デビュー30周年を迎えた2014年は、新曲発表・2度の全国ツアー・7年ぶりのオリジナルアルバム・アリーナ公演・大型フェス出演など、精力的に活動した。また、2012 - 2015年に行われた30周年関連の一連のライブでは、シアトリカル(演劇的)なライブ演出を強めたため80年代同様にMCやアンコールはほぼ行わなかった[58]。2013年より従来のハードウェア・シンセサイザーに加え新たにソフトウェア・シンセサイザーも導入[9]、2014年秋ツアー以降の30周年ライブではキーボードブースにはプロジェクターから透過スクリーンにソフトシンセの画面を投影する機材を導入し演奏は巨大LEDスクリーンの前で行い[59][60][61]、2021年のライブ作品配信では三角形の昇降型映像照明装置[62]を用いて、視覚的にもその時点での最新の近未来感を演出している。
(※は「SPIN OFF from TM」のメンバーとしても参加)
レコーディングのみ参加のメンバーは各シングル、アルバムの項を参照
1988年にはラジオ『小室哲哉のSF Rock Station』(東海ラジオ放送)内の企画ユニットとして、TMの3人+日詰昭一郎の4人で「ハンバーグ&カニクリームコロッケ」を結成、インディーズでシングル「神社でB/恋のながら族」を限定リリースした(編成は、ボーカル:日詰、ギター:小室、ベース:木根、ドラムス:宇都宮。B面には松本孝弘も参加)。バンド名の由来は当時小室がお気に入りだったファミリーレストランのメニューから。レコードの価格は東海ラジオの周波数に合わせて1,332円だった。
1993年には、チャリティーイベント『Act Against AIDS '93』で、葛城哲哉(G)、北島健二(G)、久保こーじ(Key)、鮫島秀樹(B)、橋本章司(Dr.)と演奏。
また、2003年、2005年、2007年、2020年の4回に渡って、宇都宮と木根、浅倉大介、阿部薫、葛城哲哉の5名で「TM tribute LIVE」/「SPIN OFF from TM」ツアーが行われた。「TM NETWORKのライブではあまり演奏しない曲もセレクション」「オリジナルアレンジを基本に演奏する」がコンセプトで小室公認で行われている。このツアーを始めるにあたり小室は自分の代役として浅倉大介を指名している。2020年の浅倉不参加回にSOPHIAの都啓一が参加、追加公演には両名とも参加し、最終日のアンコールではShinnosukeとnishi-kenも参加した。
2020年年末には宇都宮・木根によるイベント『年忘れ!!歌酔曲vsフォーク 〜ハタシテ?ドチラが勝つでショー〜』終盤に小室も参加して、出演者の野村義男(Ba)、松尾和博(Gt[注釈 12])、nishi-ken(Key)、山本英美(Gt)、中村修司(Gt)と演奏した[31]。
ユニット名の「TM」はメンバーが住んでいたと同時に、音楽活動を始めたホームタウンともいえる東京都多摩地域の「多摩」(TaMa)がその由来である。小室がシカゴのように地域名を入れたいとこだわったためだったが、ユニット名の由来があまりパッとしないという理由でレコード会社・事務所からユニット名の再検討が行われ(2016年12月26日放送のTakanori Music Revolution内にて小室哲哉が「TAMA NETWORKで行こうとしたが、(ソニーレコードの)坂西伊作氏により拒否された」と明かしている)、「メロー・イエロー」「ピーカーブー」「スロー・ダンサー」「ジェニファー・ジェニファー」などの案が出るなどした。最終的にユニット名は「TM NETWORK」に、「TM」は公式には「タイムマシン(Time Machine)の略」ということになり、数々のCM(カセットテープのCMなど)やアルバムの企画、楽曲がこの公式設定に則って制作された。この本当の由来は1993年まで公にされなかった(木根が1993年4月25日 - 11月7日まで東京都多摩地域で放送していたイベント放送局「TAMAらいふ21FM、愛称:Egg Station」に出演した際に初めて明らかにし、自著『電気じかけの予言者たち』で明記。その後2006年9月6日放送の『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』でも語った)。「NETWORK」の部分に関しては木根の考案で、メン・アット・ワークの語呂からヒントを得たという。
なお、2015年4月8日オンエアー「TM NETWORKのオールナイトニッポン」内で「本当に多摩だったの?」という質問に小室は「ドラムのTAMAっていうメーカーあるじゃない。ああいうのもあるんだからいいんじゃないのって」と答えた。
のちに2016年の日本テレビ系「踊る!さんま御殿!!」[120]、2023年のTBSラジオ「「立飛グループpresents東京042~多摩もりあげ宣言~」[121]、2024年のテレビ朝日系「徹子の部屋」[122]でもユニット名の由来について語っている。
デビュー当初は小室と宇都宮の二人のみの露出を、とEPIC・ソニー側から要請されていた。その戦略のため「1974」のジャケットには木根は写っていない[123]。
デビュー当時に小室は高校時代の同級生に「売れないからレコード買ってよ」と頼み込んだことがあった[124]。
デビュー直後から、ヤマハとの付き合いが始まっている。切っ掛けは当時のマネージャー・青木高貴が飛び込み同然で1stアルバムと1stシングルのMVを持って渋谷のヤマハの営業部を訪れて、売り込みをかけた。ヤマハ側が「映像を見てみたらクオリティが高かった。当時の最新鋭のシンセサイザーも使いこなしていた」と認めたことによる。当時打ち合わせに立ち会ったのは、後に「TK state」の専務取締役を務める道免友彦である[32][125]。
「RAINBOW RAINBOW」は佐野元春が絶賛した初期の頃特有のSF的要素を持つ一曲である。また「PANORAMAGIC (アストロノーツの悲劇 )」は小室による造語だが、この数年後に同名の電化製品が発売されている。
「TM NETWORK」の名称を決めた場所は東京都府中市に所在していた「すかいらーく国立店」(「ガスト国立店」に改称後、2024年1月8日に閉店)とされている[126]。また、ライブ後はすかいらーくを主とするファミリーレストランで打ち上げをする。これは小室の極端な偏食によるもので、いわゆる「居酒屋メニュー」を好まなかったため(魚介類が苦手、というのは、藤井徹貫の書籍などでも頻繁に語られている)。事前に貸し切り状態にしたり、地方などでは通常は貸し切りできないため、事前にイベンター、スタッフを全ての4人掛け席に1人ずつ前乗りさせ、2 - 3時間近くコーヒーで粘って席を確保していた。ちなみに2001年の『TM NETWORK TOUR MAJOR TURN-ROUND』で小室が大阪、福岡、東京でのライブ後の打ち上げ計3回分の代金を支払った総額は、1人がファミレスなら10年間くらい食べ放題の金額であったという。
デビューしてまだブレイクする前、収入は少なかったがレコード会社から若干の衣装代が支給されていた。しかし常に高価な服を買い、かつ同じものを二度と着ないようにしていたことでお金が無くなり、以後人前に出るときの衣装は上下19800円(当時は破格)のものをディスカウントショップで購入していたこともあったという[127]。
小室はロンドンに渡る際、現地にて女性ボーカリストをスカウトしTM internationalという姉妹ユニットを結成・世界デビューさせる計画があったが、自分の無力さを痛感したこと・「キック・ハイハットがシンクロしていない。これでは踊れない」と現地のミュージシャンに忠告されたこと・スタジオワークの面白さを知ったことで白紙になった[127][128]。
小室はTMNリニューアルの際、「本当はTM-Internet-workにしたかった」という。その時は「インターネットという言葉はまだこの時代には時期尚早すぎる」という自身の判断により没になった[129]が、後に『Major Turn-Round』プロジェクトのキーワードの一つとして使われることになった。
再始動初のライブは香港にてT.M.Revolutionとのジョイントで行う予定だったが、諸事情で取りやめになり、代替公演として『TM NETWORK Log-on to 21st Century supported by ROJAM.COM』を横浜アリーナにて行った[130]。
小室は、TM(TMN)がレギュラー出演していたTBSのラジオ番組内で、個人が主催するパーティにメンバー3人で出演する仕事を10万円で請け負うと述べたことがある。TBSラジオで俳優の岸谷五朗がメインパーソナリティを務めていた生放送『岸谷五朗の東京RADIO CLUB』の直後の番組内で突発的に小室が『(小規模の)イベントをやりたい』、『そのMCに岸谷はどうか』という趣旨の発言をしたため、スタッフの配慮からか既に帰宅途中であった岸谷がTBS社屋(TMNの番組の生放送ブース)まで呼び戻されたことがある。岸谷は上記の番組、または、その後発のラジオ番組(TBS)内にて『小室は夜中に急に中華料理が食べたくなり、ヘリコプターを手配して香港へ食べに行ったことがある』という趣旨の逸話を話しているが、これはフィクションである(2014年にTM NETWORKが出演したアーティスト・プロデュース・スーパー・エディションで明らかになった)。
木根は2014年5月、バラエティー番組「解禁、今だから言えるナイショ話」で、『TM初期の代表曲「Get Wild」ではギターを弾かず、弾いているフリだけの「エアギターだった」と告白した。実際弾いていたのは、B'zでデビューする前の松本孝弘であった[131][注釈 13]。』と取り上げられたが、9月ニコニコ生放送出演時に「実際はアンサンブルでオクターブ奏法を弾いているんです」と説明し、翌月演奏動画も投稿[132]。2023年6月のトーク番組「じっくり聞いタロウ〜スター近況(秘)報告〜」でもこの件について弁明した[133]。
大江千里は「『10年に1回出るか出ないか』という挑戦を毎回やっている人たち」「TMのモデルとなる様な活動をしている人は、日本にも海外にもいない。だから前人未到のことをやっている面白さがある」と評している[134]。
山下達郎は「たまたま『PERFORMANCE '84-'85』と『ELECTRIC PROPHET』が並行していて、たまたま同じホテルに泊まった時、女子中学生の騒がれ方が何百人の単位で違っていた。1984年のことだけど、未だに僕は鮮明に覚えている」と当時の衝撃を振り返っている。その後竹内まりやのアルバム「REQUEST」のレコーディングの際に、同じスタジオの隣の部屋でTMのレコーディングが行われた。TMの楽曲を聴いた際、山下・竹内は共に「勢いがある。自分達のやっていることは、本当に大丈夫なのか?」と将来が不安になったことを吐露した[135]。
ピエール中野は「ギターが意外性のある複雑なことをやっているし、上物の音の入れ方とかに凛として時雨への影響が表れている。今聴いても格好いいし、新しい」と評している[136]。
40周年の際、音楽評論家の田家秀樹は「テクノロジーとポップミュージックではYMOが先陣を切ったわけですが、どこが違うかもよく分かります。時代も違いますけど、YMOは実験的だった。TMは大衆的だった。アートとポップを両立させた」[137]、シンガーソングライターの松任谷由実には「このアルバムを通して聴くと正に、彼らが日本のエレクトロ・ポップの祖だということがわかります」[138]と評されている。
野宮真貴は「YMO以来の3人組で、しかもメロディアスな歌ものが新鮮でした。私はグラムロックが流行っていた頃からビジュアル重視だったので、当時からブリティッシュで端正な佇まいが美しい小室さんのことをすごくチェックしていた」と話している[51]。
清塚信也は「TMの楽曲のすごい所は、とてもシンプルなテーマ性を次々に展開していくところ。『レ#・ド#・シ』(ミ・レ・ド)というテーマを何度も使い、そこからの展開でドラマを持たせている。逆にすると『ドーレーミー、ドーレーミー』と『チューリップの歌』になってしまうとてもシンプルな音階だが、TMの手にかかるとここまで格好良いドラマになる」と絶賛している[139]。
澤野弘之は「『キーボードで曲を創っている人がこんなに目立っているバンドがあるんだ!』と驚いて、こういう在り方を目指すのもアリかもしれないなと思ったんですよね」と自分の活動する際の姿勢のルーツになったことを話している[140]。
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