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人類誕生から現代に至るまでの歴史 ウィキペディアから
人類(※)は、数百万年前にアフリカ大陸で誕生した、とされている。
約540万年前アフリカ大陸で、現在のところ最古の猿人とよばれるアウストラロピテクスが登場した。これが最初の人類とされている。東アフリカのタンザニアで、猿人の一種である、ジンジャントロプス(Zinjanthropus、en:Paranthropus boisei)の化石が発見された。
エチオピア北東部ハダール村付近では、318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人、en:Australopithecus afarensis)の化石骨が、1974年11月24日に発見された、「ルーシー」と名付けられた。
200万年前から100万年前、アフリカ大陸の北側から、陸地づたいに、地中海東岸あたりに生活の場を広げ、ユーラシアを西方(地中海北側を、ヨーロッパ方面)へ進む者と、東方(中央アジア、東アジア方面)へ進む者に分かれて広がっていった、と考えられている。
約50万年前、アジアには北京原人、ジャワ原人などの原人がいたことが知られている。かれらの脳容量は猿人の約2倍(約1,000ミリリットル)あったと推定される。洞窟や河岸に住み、堅果の採集や狩猟を生業としていたことが知られ、礫石器や火の使用の痕跡も確認されている。
同じく約50万年には現在のヨーロッパあたりで、旧人類の一種のネアンデルタール人(※)が暮らしており、その骨の化石が多数発見されている。(年代は、31万5000年前から80万年以上前までの様々な時期が示されている)ネアンデルタール人の脳の容量は現世人類とほぼ同じかそれよりも大きく(1,300-1,600ミリリットル)、剥片石器の使用が認められる。地質学上、氷河時代にあたっていたため、炉をともなう住居に住んだり、毛皮の衣服を着るなどの生活上の工夫がみられる。死者の埋葬もおこなわれており、たがいに協力しあって生活を営んでいたことが知られている。
現生人類が登場するのは約30万年前のこととされる。ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年であり、ヨーロッパとアジア人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定された[2]。Y染色体ハプログループの分析結果からも古くに分岐したハプログループA (Y染色体)、ハプログループB (Y染色体)がアフリカのみに見られることから、アフリカ単一起源説は疑いようのないものとなっている。
現生人類は長らくアフリカにとどまったが、7万年間に出アフリカを果たした。出アフリカ後、イラン付近を起点にして南ルート(イランからインド、オーストラリアへ)、北ルート(イランからアルタイ山脈付近へ)、西ルート(イランから中東・コーカサス山脈付近へ)の3ルートで拡散した[3][4]。すなわち南ルートをとった集団がオーストラロイド、北ルートがモンゴロイド、西ルートがコーカソイド、非出アフリカがネグロイドということになる。
化石人骨ではクロマニョン人が確認されている。クロマニョン人が描いたとされている壁画が、フランスのラスコーやスペインのアルタミラで発見された。なお、クロマニョン人は、現在のヨーロッパ人の祖先である。
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まず2010年ころまでは広く信じられていた定説を紹介しておくと、考古学者たちは次のように考えていた[5]。
これは疑いようの無い説のように見なされていたので、世界の教科書類においても上のような説明がされるようになっていた[5]。 (なお、日本の文明の発展が比較的遅れたのは、日本が森林や海など、食料を採集や狩猟で供給できる十分な環境があったため、集住や農耕をする必要性が比較的低かったためという説もあった)
ところが、1996年に始まったギョベクリ・テペ遺跡の発掘が進み、年代測定などが進むにつれ、その遺跡の年代が1万年ほど前のもので、狩猟・採集をしていた人々が築いた精巧な浮き彫りが施された巨大な石を用いた大規模な神殿だと、論文で2010年ころから指摘されるにつれ、上に挙げた考古学者に広く信じられていた"定説"がひっくり返ってしまい、考古学の世界に大きな衝撃が走った[5]。すなわち、このギョベクリ・テペ遺跡により、農耕が始まる前の時代に、狩猟・採集をしていた人々が紛れもなく文明を築いていた、ということが分かったので、「文明が築かれたのは、あくまで農耕が始まった後の話だ」とする従来の定説がガラガラと崩れてしまったのである[5]。世界から考古学者たちがこの遺跡を確認するために訪れたり、この地域に住んでいた人々についてより詳しく調査するためにギョベクリ・テペの周辺の遺跡の発掘に協力するようになっており、日本の考古学者も周辺の遺跡の発掘に参加している[5]。
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そして、いち早く文明を築き、発展していったものが主に4つあると言われている。今のイランなどの場所に位置するメソポタミア、ナイル川近辺を中心に発展した古代エジプト、中国本土の中国文明、そしてインド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川周辺に位置するインダス文明。これらを総称して世界四大文明という。また、これにアメリカ大陸のメソアメリカとアンデス文明をくわえて、六大文明とすることもある。エジプト文明とメソポタミア文明をあわせて、オリエント文明と呼ぶこともある。オリエントとは「日ののぼるところ」及び「東方」を意味する。
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メソポタミア文明は、ティグリス川流域やユーフラテス川流域、またはその間で発達した文明である。灌漑が発達したメソポタミア南部では、急激に人口が増え、数多くの大村落が成立し、それはやがて都市へと発展していった。
紀元前2700年頃までに、シュメールという民族がウル、ウルクなどの都市国家を形成し、神権政治を行った。また、楔形文字とよばれる文字も発明された。
しかし、セム語派のアッカドが彼らを征服しメソポタミアを統一した。アッカドの王ナラム・シンは「四方世界の王」と称し、この言葉は「四天王」の語源となった。そして、時は進み今度はセム語系のアムル人が古バビロニア(バビロン第1王朝)を建て、バビロン第一王朝のハンムラビは「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典をつくった。
その後、その頃には珍しい鉄製の武器をはやくから使用していたインド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが彼らを滅ぼし、アナトリア半島(現在のトルコ付近)に国家を建国した。また、バビロン第一王朝滅亡後のバビロニアにはカッシート人、その北にはミタンニ、そして後述のエジプト新王国も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生じ、しばらく続いた。
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エジプト文明はナイル川を中心として発展した文明である。エジプト文明は、エジプト古王国、エジプト中王国、エジプト新王国、の3つの時代に分けられる。
エジプトでは、国家統一以前にノモスと呼ばれる地域の政治的まとまり(領土国家、領域国家)が複数存在した。
エジプトではメソポタミアよりもはやく統一国家が成立した。紀元前3000年にメネスがエジプトを統一し、古王国では、王はファラオと呼ばれた。また、ギーザにはピラミッドも誕生した。
中王国時代にはセム語系の戦士集団、ヒクソスがシリアから侵入し、国内は一時混乱したが、新王国が起こって彼らを追放し、「エジプトのナポレオン」とも呼ばれるトトメス3世は、シリアとヌビアを征服したが、次第に衰退しアッシリアやアケメネス朝の侵入を受けて滅亡した。
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インダス文明とは、インダス川流域で発展した文明のことであり、位置はインドよりも、どちらかと言えばパキスタン寄りである。
インダス文明はドラヴィダ人によって作られたとされる、インド最古の文明で、遺跡としては、モヘンジョダロ、ハラッパーなどがある。インダス文字が作られたが、いまだ解読されていない。
また、この頃のインダス文明では、強大な権力を示す、神殿や王宮が発見されていない。
やがて、滅亡し、インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ人が侵入し、パンジャーブに住み着いた。その後、ガンジス川に進出し、その後、今のカーストと呼ばれる身分制につながるヴァルナ制やジャーティも誕生した。また、これらの制度を否定して、仏陀(釈迦)が仏教を、マハーヴィーラがジャイナ教を開いた。
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遼河文明からは大規模な竪穴建物や墳墓、祭壇などの神殿が発見されている[6]。興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。
黄河文明では黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。後の漢民族拡散の中心となる文明である[3][4]。
長江文明は稲作の発祥となる文明である。初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
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アメリカ合衆国の独立、フランス革命とナポレオンによるフランスの第一共和政、第一帝政の後、ウィーン会議、フランスの復古王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政、ドイツやイタリアの統一、アメリカの南北戦争、産業革命など
二度の世界大戦は総力戦となった。ロシア革命でソビエト連邦が誕生した。アメリカ合衆国とソ連との間で冷戦が勃発した。
ソビエト連邦の解体とドイツ再統一によって、アメリカが勝利する形で冷戦は終結した。
注:細かい項目をたくさん並べることが目的ではないことを理解しておくこと。
以下はカテゴリ「世界史」に含まれるサブカテゴリまたは分類された個別記事の一覧である。
現生人類は「出アフリカ」をした後に、大まかに三方向に分かれ、地中海東岸あたりで西方面(ヨーロッパ方面)へ進む者と、東方の中央アジア・南アジア方面へ進む者と、東欧やロシア方面へ進んだ者たちがいて、アジア方面へ進んだ者は東アジアへ進んだ者とオセアニア方面に進んだ者に分かれ、一方で、ロシア・シベリア経由であれ、中央アジア経由であれ東アジアにたどりついた者の一部は北へ進みベーリング海峡あたりをアラスカ方面へ渡り、北米大陸を南下して、ついには南米大陸へ渡り、その南端に至った者がいた、という壮大な人類史があったことを踏まえて配列する。
欧米で「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスが紀元前5世紀頃に著したとされる『歴史』は、ヘロドトスが知りえた時代と地域の歴史に関するもので、自らが属するギリシア文明圏を超えた世界を展望した最初の歴史書といえるものであった。また、日本においては「日本史」と「世界史」が別ものとして、義務教育や高等学校、また大学の一般教養でも講じられ、大学の専攻も異なるが、それに対して欧米では「エジプトから始まって自国の近代、現代で終わる」一貫史が認識されていることも重要である。
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