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1927年から1949年の中国の内戦 ウィキペディアから
国共内戦(こっきょうないせん、中: 国共内战/國共內戰)は、20世紀前半の中国大陸において、中国国民党および中華民国国民政府率いる国民革命軍[注釈 1]と中国共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。
国共内戦 | |
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戦闘中の国民党軍と共産党軍。上から時計回りに四平戦役での共産党軍、国民党軍のムスリム兵士、1930年代の毛沢東、閲兵中の蔣介石、前線を視察する粟裕。 | |
戦争:国共内戦 | |
年月日:1927年 ~ 1937年、1945年 ~ 1949年もしくは1950年あるいは1979年 | |
場所:中国大陸(中華民国) | |
結果:中国共産党の勝利。1949年に中華人民共和国が成立。中国国民党は台湾に逃れる。 | |
交戦勢力 | |
中国国民党 中華民国 軍閥勢力 |
中国共産党 中華人民共和国 中華ソビエト共和国 親共的な地方勢力(中華共和国、内モンゴル人民共和国など) |
指導者・指揮官 | |
蔣介石 白崇禧 陳誠 李宗仁 閻錫山 何応欽 胡宗南 顧祝同 衛立煌 杜聿明 孫立人 傅作義 劉峙 薛岳 王耀武 湯恩伯 黄百韜 † 張霊甫 † 張学良 馮玉祥 |
毛沢東 朱徳 彭徳懐 周恩来 林彪 劉伯承 賀竜 陳毅 羅栄桓 徐向前 聶栄臻 葉剣英 鄧小平 粟裕 陳賡 葉挺 † 博古 † 李徳 張国燾 |
第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦(1927年 - 1937年)と、第二次国共合作の日中戦争終結に伴う国共の再対立によって生じた第二次国共内戦(中: 第二次国共内战/第二次國共內戰:1946年 - 1950年代)とに大別される[1]が、単に「国共内戦」と言う場合には一般に第二次国共内戦を指すことが多い[2]。その為、本項では第二次国共内戦について記載し、第一次国共内戦については別項で記載する。
なお、中国共産党及び中華人民共和国政府は、1921年の中国共産党成立から第一次国共合作を経て、1927年の国共分裂までを「第一次国内革命戦争」、第一次国共内戦を「第二次国内革命戦争」と称しており、第二次国共内戦についても解放戦争(かいほうせんそう)、人民解放戦争(じんみんかいほうせんそう)、または第三次国内革命戦争(だいさんじこくないかくめいせんそう)と呼称している[2][3]。
1920年代から敵対関係にあった中国国民党(国民政府)と中国共産党の両党は、日中戦争の間は表面上協力関係(第二次国共合作)にあったが、戦争が終結すると早くも1945年10月から再び武力衝突へと転じ、1946年6月から全面的な内戦を開始した。
日中戦争の間、国民革命軍(国民党軍)が日本軍の前面に立って戦力を消耗していたのに対し、共産党軍は後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていった。更に日本の降伏後、共産党はシベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行した他、ソビエト連邦からの援助も継続的に受領し、国民党軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。共産党軍は、拠点となる中国北方から徐々に南下して国民党軍を圧迫し、中華民国に代わる新しい中国の国家として中華人民共和国を建国した。
一方の国民党は、日中戦争以降続いていたアメリカからの援助を受けて、内戦の前半には優勢を保っていた。だが、腐敗・失策による民心離反や1948年以降の大規模な軍事的敗北によって国民党は1949年に入ると勢力を急速に失い、1950年の海南島陥落によって中国本土の拠点を全て失った。情勢の変化を受け、国民党は中央政府を中国本土から台湾へ移転し、海南島陥落以降は台湾地区[注釈 2]の防衛に専念するようになった。そのため、中華民国という国家の消滅は避けることに成功した。
国共内戦の結果、中国は台湾の中華民国と中国本土の中華人民共和国による分断国家となった。1979年以降は支配地域の変更や両軍間での戦闘行為が発生していないものの、中華民国と中華人民共和国は中国統一を巡って引き続き対立関係に在る。
中国国民党と中国共産党は孫文の指導の下で1924年に協力関係(第一次国共合作)を組み、当初は国民革命の達成に向けて共同歩調を取っていた。だが、1927年の上海クーデターが発生すると国共合作は崩壊し、蔣介石率いる国民党の国民政府と共産党は全面的な内戦状態(第一次国共内戦)となった。国共間の内戦は西安事件による国民政府の方針転換や日中戦争勃発による第二次国共合作の成立によって1937年に一旦収まった。だが、これは日本という共通の敵から中国を守ることを目的に成り立っていたため、国共間の対立関係は依然として残ったままであった。日本軍も中国全土に常にいたわけではないため、戦場ではない場所では依然として小規模な戦闘が続いていた(国共摩擦)。
第二次国共内戦 | |
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戦争:国共内戦 | |
年月日:1945年 - 1949年 | |
場所:中国大陸(中華民国) | |
結果:中国共産党の勝利。1949年に中華人民共和国が成立。中国国民党は台湾に撤退する。 | |
交戦勢力 | |
中国国民党 中華民国 支援国: アメリカ合衆国 イギリス他 |
中国共産党 中華人民共和国 支援国 ソビエト連邦他 |
指導者・指揮官 | |
蔣介石 白崇禧 陳誠 李宗仁 閻錫山 何応欽 胡宗南 顧祝同 衛立煌 杜聿明 孫立人 傅作義 劉峙 薛岳 王耀武 湯恩伯 張霊甫 |
毛沢東 朱徳 彭徳懐 周恩来 林彪 劉伯承 賀竜 陳毅 羅栄桓 徐向前 聶栄臻 葉剣英 鄧小平 粟裕 陳賡 |
戦力 | |
430万人以上 | 380万人以上 |
損害 | |
150万人以上戦死 | 25万人以上戦死 |
1945年8月に日本が降伏すると、中華民国は対外的に戦勝国かつ国際連合の常任理事国となった。しかし、日本という共通の敵を失ったことで国内では国民党と共産党が統一戦線を維持する意義も名目も消滅し、戦後構想の違いから内戦再発の不安が中国国民及び諸外国の間で募るようになった。その結果、蔣介石は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、共産党の代表として国民党の代表である王世杰、張治中、邵力子と会談を行った[4]。
同年8月30日重慶において「蔣介石・毛沢東巨頭会談(重慶会談)」が開かれた[5]。会議は43日にも及んだが、10月10日に「双十協定」としてまとめられ、内戦は一時的に回避された。
しかし会談の結果も空しく、双十協定調印の日である10月10日に、山西省で上党戦役が起こった[6]。共産党軍は三日で、国民党軍が投入した三分の一にあたる35000人を殲滅した[5]。この戦いで鄧小平は活躍し、その名声が高まる。
アメリカは日中戦争中から蔣介石政権崩壊と共産主義拡大を防止する対策を行っていた。日本の降伏とともにアメリカは、日中戦争末期の時点で既に弱体化の著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練を施した。また、アメリカ船を動員して在中日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京(北平)、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍に代わってアメリカ軍自ら華北の炭坑、鉄道等を接収した(ブリーガー作戦)。
こうしたアメリカ軍による北上作戦援助は、公式には日本軍勢力一掃による中国の急速な主権回復のためと理由づけられていたが、アメリカの目的はそれだけではなく、華北の主要都市および輸送・産業上の戦略拠点が共産党軍の手に落ちないよう先手を打ち、さらに国民党の東北(満洲)支配の足場をいち早く固めることにあった。
アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、中国になんらかの形で民主的な政権が生まれ、それが東アジアの安定勢力になることを期待していた。本国政府や中国駐留アメリカ軍の間で、多少の意見の相違はあったものの、「国民党の主導により中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が激化することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋で一致していた。中国駐留のアメリカ軍総司令官・アルバート・ウェデマイヤー中将の次の会見談話は、なぜアメリカ軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかしアメリカ陸軍省からの指令で、アメリカ人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。アメリカ軍が中国の内戦に参加し、共産党軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた[7][8]。」
ビルマ戦線の司令官衛立煌は国共内戦に反対し、共産党との問題は政治交渉により解決すべきと主張していた。傅作義は国共内戦に内心反対であった。商震も李済深も国共内戦に反対していた。
トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。12月15日、対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。この声明は⑴中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立、⑵共産党軍の国民党軍への編入、⑶安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求し、さらに⑷以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用することを宣明した[9]。マーシャルが重慶に到着したころ、在中アメリカ軍兵力は11万人を超えるピークに達していた。こうしてアメリカは、国民党軍に莫大な支援を集中して共産党側を圧倒しつつ、他方でアメリカのさらなる国家資本援助を報償として提示して国民党の譲歩をせまることによって国共両党を統一交渉のテーブルにつかせようとしたのである。アメリカ政府が統一新政府に中共の参加を要求した背景には、激しい経済混乱とみずからの腐敗を一掃しえずにいる現状のままの国民党では全土の統一は望みえず、かつ共産党を排除するとすでに東北を占領しているソ連の共産党援助を誘発し、その結果国共の主導権争いが米ソ代理戦争の様相を呈して泥沼化するのではないかという恐れがあった。
共産党軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは調停に乗り出し、腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蔣介石に大量の軍事援助を与えつつ、国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのであり[10]、1946年1月にジョージ・マーシャルを派遣した。マーシャルは、国民党が軍事手段で共産党を圧迫しようとすれば、国民政府の崩壊をもって終り、中国に共産党の支配をもたらすであろうと見ていた。そこで、彼は共産党を含めた連立政府を樹立し、双方の軍隊を国民軍に統一するという計画を持って乗り込んできたのである。マーシャル使節団は、国民党と共産党の和解のためにひたすら奔走した。共産党を少数派として政府に参加させることで、彼らを認め彼らの敵対性を除去することを考えた。国民党代表・張群、共産党代表・周恩来とアメリカ代表・マーシャルによる軍事調処執行部(三人委員会)が成立し、1月10日には「国共停戦協定」が調印された。2月25日の基本法案によると、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国国民政府主席(蔣介石)であることを再確認した上で、一年以内にその陸上兵力を国民党軍90個師団、共産党軍18個師団に削減し、更にその半年後にはそれぞれ50個師団と10個師団にまで縮小することが取り決めされていた。多くの人から期待された。マーシャルは、中国国民から「平和の使徒」としてもてはやされた。同年1月、協定に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。
しかし、3月の党大会において国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議し、国共両軍の衝突はやまなかった。同年3月5日にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、冷戦構造が固まって行く。また6月にアメリカは国民政府に向けて対中軍事援助法案を採択した。1946年6月28日、ディーン・アチソン国務次官は記者招待会の席上、アメリカの対中政策について演説し、アメリカの対中援助に関するさまざな行為は「破壊的な長期間にわたる日本との戦争による影響を除去するため、一国家としての中国を援助するというこれまでに確認された計画」を完遂するためであって、これが目標とするところは中国の統ーでありアメリカ政府としては「中国共産党を含むすべての重要な政党の十分かつ公平な代表からなる政府によってこうしたアメリカの援助が実行に移されることを特に希望する」のであり、「中国の各政党聞において統一政府を成立させるという協定が実現されない限り、アメリカ政府は対中援助を行うことはできない」と強調した[11]。
中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した[11]。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった[11][12]。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難するメッセージを送っている[11]。マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蔣介石にあるとして非難している[13][11]。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している[14]。1946年8月31日にトルーマンは再度、国共間の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したがそれもなんら効力を発揮することなく国民党の軍事攻勢は続けられた。1946年12月18日、トルーマン大統領は「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する[11]。アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった[11]。
つまり、マーシャル・プランのような中国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。またアメリカ軍を撤退させたことにより、後に共産化を招くこととなり、国民政府が台湾への遷都後に米華相互防衛条約の締結・在台米軍の駐留などアメリカの庇護を受けることになる。
1946年6月26日、蔣介石は国民党正規軍160万人を動員し、全面侵攻の命令を発した[15]。毛沢東は「人民戦争」「持久戦争」の戦略によって抵抗した。毛沢東は国民党内部の内戦消極分子の獲得や、また「土地革命」を行うことで大量の農民を味方につけた。1946年年末には各都市で「内戦反対、反米愛国」というデモが発生、規模は50万以上であった[16]。
国民党軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め中国全土で支配地域を拡大したが、東北に侵入したソ連軍の支援を受ける共産党軍(八路軍)は日本によって大規模な鉱山開発や工業化がなされた満洲をソ連から引き渡されるとともに、残留日本人を徴用するなどして戦力を強化していた。日本女性は看護師などとして従軍させられた[17]。
八路軍の支配地域では通化事件が起き、数千人の日本人居留民が処刑された。崩壊した間島省では延吉普通学校事件が起き高官・民間有力者約180名が拘束され、処刑されたり労働改造を受けた。また、航空戦力を保持していなかった八路軍は捕虜となった日本軍軍人を教官とした東北民主連軍航空学校を設立した。日本人に養成された搭乗員は共産軍の勝利に大きく貢献することとなった[18]。
国民党の指導者の蔣介石は、満洲の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてソ連のスターリンと協定を結んだため、ソ連から共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民党軍は満洲で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は敗退・撤退を重ね、国民党は中国本土の大部分を手中に収めようとしていた。
だが、法幣の大量発行がインフレーションを招き、農民を中心とした民衆の支持を失う。そしてアメリカの国民党への支援も、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策への集中、政府内の共産党シンパの活動等の理由により、先細りになっていった。
1947年3月には蔣介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換する[16]。対象地域は共産党軍の根拠地である延安などであったが、毛沢東は3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導した。5月から6月にかけて、共産党軍は83000人の国民党軍を殲滅する[19]。1947年6月の時点で共産党員は46年の136万から276万に急増、兵力も120万から195万へと増大。対する国民党軍の兵力は430万から373万へと減少していた[19]。
農村部を中心に国民党の勢力は後退、共産党が勢力を盛り返してゆき、1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役」で、共産党軍は決定的に勝利する。まず、1948年9-11月の遼瀋戦役では中華民国国軍(1947年に改組された国民党軍)47万が殲滅され、国共軍事比は290万人対300万と逆転した[20]。そして、1948年11月-1949年1月の徐州を中心に展開された淮海戦役では、中華民国国軍80万、共産党軍60万とが衝突するという大規模な戦闘が発生し、後に改革開放路線で市場経済を導入することで知られる鄧小平が指揮官の一人として参戦し、中華民国国軍55万5500人を殲滅した[20]。更に1948年12月-1949年1月までの平津戦役でも、52万の中華民国国軍が壊滅した[20]。これにより、中華民国国軍は主戦力を喪失し、「重点攻撃」を仕掛けることもできずに支配地域を一気に喪失していくこととなる。中国全土を支配することを意識し始めた毛沢東は、中国北部に集中している数多くの幹部を南下させ、南方地域の接収管理工作を担わせる戦略を考えていた。しかし、国共の形勢は逆転していたが、日中戦争や国共内戦を経て疲弊する中国社会において共産党の南下動員は限界に直面し、幹部の逃亡など様々な矛盾が起きていた[21]。
三大戦役後、毛沢東率いる共産党は総攻撃を仕掛けて国民党が拠点を置く大都市部を相次いで占領した。1948年時点で中華民国は主要都市として全国の12都市を院轄市に指定しており、三大戦役終結直後の1949年2月1日時点ではソ連軍占領下の大連と人民解放軍に占領された哈爾浜、瀋陽、天津、北平を除く7都市を未だに支配していた。だが、三大戦役で主戦力を失っていた国民党にはもはや共産党の侵攻を食い止める余力がなくなっていた。
1949年1月、蔣介石が三大戦役での敗走の責任をとって総統を辞任すると、副総統だった李宗仁が総統(代理)に就任し、同年4月1日に共産党との和平交渉団を南京から北平(北京)に派遣して北平和談を行い、交渉団が最終案である国内和平協定を持ち帰ってきた。しかし、同年4月20日に国民党は署名を拒否する電報を共産党に打って交渉は決裂し、同年4月23日には渡江戦役で人民解放軍によって首都・南京を占領されたのを皮切りに、漢口(同年5月16日)、西安(5月20日)、上海(5月27日)、青島(6月12日)を人民解放軍がなし崩し的に占領していった。さらにアメジスト号事件(4月20日)においてはアヘン戦争以来中国に駐留していたイギリス艦隊を撤退させた。
国民党に代わる「新中国」建設の準備を進めていた共産党は、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を北京で宣言したが、この時点で国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していた。そのため、共産党は中国大陸からの国民党勢力一掃を目指して広州(10月14日)、重慶(11月30日)、成都(12月27日)と国民党の拠点を相次いで占領し、さらに旧第二次東トルキスタン共和国の残存勢力と協力して新疆の全域を1950年春までに占領した(新疆侵攻)。そのため、1950年1月の時点で国民党に残された台湾以外の拠点は、西南軍政長官公署の支配下にある西康省の西昌一帯と東南軍政長官公署の支配下にある海南島(海南特別行政区)のほか、江蘇省(嵊泗県 [注釈 3])、浙江省(舟山群島の大部分及び大陳列島など)、福建省(金門島、馬祖列島及び烏坵)、広東省(万山群島)沿岸の島々のみとなった。
これを受け、人民解放軍は国民党の反攻拠点となる西昌一帯と海南島の制圧を目指し、1950年3月から本格的な軍事作戦を展開した。その結果、西昌は西昌戦役によって同年4月7日、海南島は海南戦役によって5月1日に中華人民共和国の支配下に入り、国民党は中国大陸における大規模な軍事作戦を展開するための拠点を全て喪失した。これにより、中華民国国軍による中国大陸への反攻は事実上不可能となり、国共両軍による全面的な戦争は事実上収まることとなった。なお、同時期には舟山戦役と万山群島戦役が勃発しており、1950年5月16日に舟山群島、8月4日に万山群島が人民解放軍によって占領され、終結している。さらに人民解放軍は10月にチベット地域で事実上独立していたチベットに侵攻した(チャムドの戦い)。
その後も雲南省のビルマ、ラオス国境地帯では雲南反共救国軍によるゲリラ戦が引き続き行われた。雲南反共救国軍は1951年(民国40年)5月に滄源、耿馬、瀾滄、双江の4県で大規模な攻勢に出るが、人民解放軍の反撃によって7月までにビルマやタイ北部に脱出した。その後、国連決議に伴って雲南反共救国軍の兵士たちは武装解除の上、台湾に退去することが決まり、1954年(民国43年)までに6,986人が台湾に退去した。しかし、一部の兵士は現地に残留し、雲南人民反共志願軍を結成して1960年(民国49年)までゲリラ戦を行った。その後、雲南人民反共志願軍兵士のうち4,200人は台湾に退去したが、一部はタイ北部に残留した。残留した元国民党兵士たちは黄金の三角地帯で麻薬の製造や密輸を行っていたが、1972年にタイ王国軍に帰順して共産ゲリラの掃討作戦に参加している[22]。ゲリラ掃討後、元国民党兵士たちは武装解除された上でタイ政府から居住権が与えられ、観光や農業に従事するようになった。(2017年)現在でもメーサロン近辺には末裔が居住している[22]。
中国人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府は、1949年1月16日に南京から広州への中央政府を撤退させたのを皮切りに、重慶(同年10月13日)、成都(11月29日)へと撤退し、最終的に中国大陸から台湾への撤退を決定した。残存する中華民国国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には1949年12月7日に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした(中華民国政府の台湾への移転)。
このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による中華民国政府への軍事行動は一時的に停止する。なおこの間人民解放軍は朝鮮戦争に介入する一方でチベットに侵攻し、さらにベトナム民主共和国に武器の援助や軍事顧問の派遣を行い第一次インドシナ戦争に介入していた。
なお、1949年に根本博中将(元支那派遣軍参謀長)は占領下の日本から台湾に密航し、中華民国の軍事顧問として古寧頭の戦いの作戦指導を行い、人民解放軍との戦いで成果を上げている[23]。
蔣介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蔣介石を支援した[24]。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦防衛に成功、際立った効果をあげた[24]。
白団による中華民国国軍への指導は1960年代末まで行われた。
第二次世界大戦でアメリカは、日本の侵攻に抵抗する中国の親米的な国民党政権を援助するために、そして中国におけるアメリカの利権や市場を守るため、日本と戦争を行うことになったにもかかわらず、戦後その中国で反米的な共産党政権が成立し、中国におけるアメリカの利権や市場を失うどころか第二の共産主義の大国の成立を許した(中国の喪失)。このことは太平洋戦線の帰還兵で上院議員のジョセフ・マッカーシーら反共主義者の批判を浴び、原因は政府内の共産主義者とその同調者だと主張したため、いわゆる赤狩りのきっかけとなった。
赤狩りにおいては特に国務省において中国外交を担当していた外交官たち(チャイナ・ハンズ)は共産中国成立の責任を問われて多くが罷免され、国務省からアジア通の外交官が一掃されたため、その後のアメリカのアジア外交に悪影響を及ぼした[独自研究?]。
朝鮮戦争に人民義勇軍が参戦したため、人民解放軍による中華民国への軍事行動は1950年10月から一時的に停止した。朝鮮戦争により、トルーマンは同年1月に発表していた台湾不介入声明[25]を撤回して同年6月に台湾海峡の中立化を名目に第七艦隊を派遣した。それを受け、中華民国国軍は福建省沿岸で南日島戦役(1952年)と東山島戦役(1953年)を引き起こしたが、いずれも散発的な攻撃で終わった。逆に1954年9月、中国人民解放軍は金門島の中華民国国軍に対し砲撃を行い(九三砲戦)、中華民国への攻撃を再開する。同年12月にはトルーマン政権の対中政策への批判を掲げて米国大統領となったアイゼンハワーは米華相互防衛条約を締結した。しかし翌1955年1月に解放軍は浙江省の一江山島を攻撃し、この地を占領することに成功した(一江山島戦役)。これを受け、中華民国国軍は同年2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍護衛のもとで大陳島撤退作戦を実施し、大陳島の拠点を放棄した。これにより、中華民国は浙江省にあった実効統治区域を全て喪失し、1950年以降で唯一となる支配地域喪失を喫した。
また、1958年8月には中国人民解放軍が金門島の中華民国国軍金門守備隊に対し砲撃を開始した(金門砲戦を参照)。その際、中華民国国軍は人民解放軍との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。アメリカは中華民国の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中共[注釈 4]はまぎれもなく台湾侵略を企図している」とし、中華民国政府に軍事援助を開始した。同年10月6日には人民解放軍が「人道的配慮」から金門島・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言、アメリカとの全面戦争を避けた。これにより、中華民国は金馬地区の防衛に成功し、大陳島に続く拠点の喪失を阻止した。ただし、人民解放軍による金門島への定期的かつ形式的な砲撃はその後も続き、1979年1月1日の米中国交樹立をもってようやく砲撃に停止命令が下された。
なお、翌1959年9月には前内閣総理大臣であった石橋湛山が私人として中華人民共和国を訪問、周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。周はこの提案に同意し、台湾(中華民国)に武力行使をしないと約束した(石橋・周共同声明)。
1962年、大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蔣介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手したが[26][27]、アメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[28]。また、1965年には台湾海峡の航行を巡って[29]東引海戦(5月1日)、東山海戦(8月6日)、烏坵海戦(11月13日 - 14日)がそれぞれ発生したが、いずれも偶発的な戦闘で単発的な衝突に留まった。
1979年1月1日の米中国交樹立を受け人民解放軍の金門島砲撃が停止されて以来、中台間での戦闘行為は発生していないが、緊張状態は続いている。
1945年
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1984年
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中国大陸では、現在に至るまで中国共産党による一党独裁政治が続き、政治や言論の自由が抑圧され、[30]文化大革命、朝鮮戦争、中越戦争、中越国境紛争、中印国境紛争、中ソ国境紛争、赤瓜礁海戦、天安門事件など内乱や対外戦争が発生した。
台湾島・澎湖諸島一帯では、中国国民党の圧政に対する二・二八事件の鎮圧以降40年にわたって戒厳令(動員戡乱時期臨時条款)が施行され、国民党が強権的に台湾・澎湖一帯を独裁する時代が続いた。しかし、1980年代に入り戒厳令が停止され、歴史上初めて台湾生まれの李登輝が総統になると、中国大陸に対する敵対的状態の終結[31]を一方的に宣言し[32]、実質的な休戦状態に入ってきた。大陸選出議員(万年議員)の強制引退や直接選出による中華民国総統選挙が行われるなど急速に民主化が進み、現在の中華民国は議会制民主主義・五権分立を元にした民主主義国家であると宣言している。
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