Loading AI tools
ウィキペディアから
中嶋 嶺雄(なかじま みねお、1936年5月11日 - 2013年2月14日)は、日本の政治学者、国際社会学者[2]。社会学博士[2]。専門は現代中国政治。東京外国語大学学長、同大学名誉教授、国際教養大学学長、公立大学法人国際教養大学理事長をそれぞれ務めた。位階は従三位。
長野県松本市生まれ。長野県松本深志高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部中国科を経て、東京大学大学院社会学研究科国際関係論修士課程修了、博士課程中退。1980年、社会学博士[3]。
中華人民共和国時代の中国についての先駆的な研究者として知られ、文化大革命に対する批判など現代中国への冷徹な認識で知られる。東京外国語大学名誉教授(1995年から2001年まで学長)、元北九州市立大学大学院教授。
薬局を経営する父・中嶋高雄と母・綾子の間に一人息子として誕生。その後、地元の市立源池国民学校に入学。1945年、9歳の時に終戦となり、玉音放送を耳にする。終戦後、松本音楽院の一期生として鈴木鎮一に師事し、ヴァイオリンを習い始める[2]。小学校卒業後、新制の松本市立清水中学校へ入学。1953年、松本深志高校へ進学。高校入学後、父の経営する薬局の資金繰りが行き詰まり、一人で製薬会社へ直談判に行くが、未成年のため応じてもらえず、債権者に家財一式を渡すこととなった。
当初は、父の後を継いで薬剤師になるために理科系へ進むつもりであったが、家業が暗転したことで世の中の矛盾に気付きマルクス主義に目覚め、社会科学を学ぶために文系へ進路変更した。失恋の影響で高校卒業後、一年間浪人。社会主義革命の息吹に燃えていた中国を専攻したいという思いから、東京外国語大学の中国科を受験して合格する。入試の面接(当時は入試に面接があった)では、「なぜ外大を選んだのか」という質問に対し、「串田先生(串田孫一)がおられるから」と答えた。また、語学をフランス語で受験したが、受験者中最高点だったという。東京外国語大学入学後は学生運動に没頭し、安保闘争に身を投じた[2]。その中で、妻となる奈良女子大学理学部の洋子(後に中学校の理科の教員となる)と出会う。大学を卒業する頃は安保闘争の高揚期であったため、企業への就職活動は一切行わなかった。
1960年に大学を卒業した後、「今までの学生運動の経験を生かせる場所はないか」と考え、左翼系の研究所である財団法人世界経済研究所の理事長をしていた小椋広勝の自宅を訪問。その後、入所試験を受けて合格し、世界経済研究所へ採用される。岸信介内閣で安保闘争が敗北した後、香山健一から紹介されて、清水幾太郎が結成した現代思想研究会に参加[2](当時全学連リーダーを務めていた森田実も参加していた)。『現代思想』の編集などを担当していた[2]が、第7号をもって停刊し、現代思想研究会も解散となった。現代思想研究会の解散後、世界経済研究所で研究を続けるうちにマルクス主義への憧れが自己の中で崩壊し、「このような気持ちで研究を続けるわけにいかない」と思い、また、学生運動時代の仲間が大学院進学を考えるようになった影響で、自分も大学院を目指すようになる。
東京大学大学院社会学研究科を受験し、合格。国際関係論を専攻する(指導教官は江口朴郎)。大学院在学中、当時の中華人民共和国で吹き荒れていた毛沢東思想へ疑問を感じるようになり、『現代中国論-イデオロギーと政治の内的考察』(1964年、青木書店)を著し、毛沢東を批判する。その後、母校の東京外国語大学の教員である伊東光晴(経済学担当)、鐘ヶ江信光(中国語担当)、小川芳男(当時の学長)から「助手に採用したい」との申し出を受け[要出典]、1965年に大学院修士課程修了後[4]、同博士課程を経て[4]、東京外国語大の教員となる[4]。中国で文化大革命が起こると、人事院総裁に直訴し、禁止されていた「国家公務員の共産圏渡航」を認めさせ、中国を訪問する。1966年、香港・広州・北京・上海などを訪れ、『毛沢東語録』を片手に持つ紅衛兵と共にピアノとヴァイオリンの合奏を行うなど、様々な交流をした。これらの経験から得た情報を元に、『中央公論』に『毛沢東 北京脱出の真相』と題する論文を投稿した。
1968年、大学紛争が発生して全共闘により、東京外国語大学も封鎖される。この影響で、中嶋の研究室も荒されて放火された。文化大革命や大学紛争を見ているうちに、左翼思想から完全に転向することとなる。
また金嬉老事件の際、鈴木道彦や中野好夫、日高六郎、宇野重吉らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見した[5]。
大学紛争終息後の1969年から1年半、外務省特別研究員として香港へ留学。当時の日本で文革に好意的なムードが支配的な中、文革を権力闘争として突き放した視点からの論考を多数発表した。そのうちの代表的なものは『北京烈烈』に収められ、1981年のサントリー学芸賞を受賞した。以後現代中国論を中心に幅広く執筆し、保守派の論客として名をなした。
東京外国語大学では国際関係論のゼミナールを担当。1977年、教授に昇任[6]、またオーストラリア国立大学現代中国センター教員として1年間オーストラリアに在住。1980年、東京大学から「中ソ対立と現代 : 戦後アジアの再考察」にて 社会学博士の学位を取得し、パリ政治学院客員教授となる。1992年、カリフォルニア大学サンディエゴ校大学院客員教授となり、中国の政治と国際関係についての講義を1年間受け持つ。この時、アメリカの学生の学業に対する熱心さを感じた。
1995年、東京外国語大学学長に就任する。国立大学協会副会長を務めるなか、次第に協会運営に不満を募らせ、1999年にボンで行われた日独学長会議に偶然石弘光一橋大学学長、内藤喜之東京工業大学学長と参加し、帰国後如水会館のレストランで話し合ったことがきっかけとなり、その後四大学連合が結成された[7]。
また、学長時代の2000年に東京外国語大学が府中市に移転したことが、近隣にあるリベラルアーツ・カレッジの国際基督教大学 (ICU) および後に ICU 学長となる鈴木典比古らとの交流を深めるきっかけとなった[8]。これ以降両大学の交流は幅を広げ、EUIJ東京コンソーシアム、「教育・研究等の連携・協力に関する基本協定書」、多摩アカデミックコンソーシアム (TAC)、グローバル5大学連携協定などの締結につながっていく。
2002年、北九州市立大学大学院社会システム研究科教授に就任した。
2004年、国際教養大学 (AIU) の初代理事長・学長に就任。それまでは日本に数校しかなかったリベラルアーツ・カレッジの設立に奔走した。中嶋は「東京外語大の学長として成せなかった分まで改革を」と考え[9]、教員の任期制の導入や留学生との寮生活を基本とするリベラルアーツ教育の実現など、大学改革にも尽力した。
2013年2月14日午後10時26分、秋田県秋田市の病院にて肺炎により死去[10]。76歳だった。叙従三位。訃報は、都内の自宅で近親者が密葬を終えた後に明らかにされた。同年3月17日に、大学葬・追悼の会が同大にて行われた。
中嶋の死去から3か月後、ICU 元学長の鈴木典比古が、AIU 第2代学長に就任した。
2014年11月、AIU 開学10周年式典において、中嶋に「名誉学長」の称号が授与された[11]。さらに大学図書館の名称も「中嶋記念図書館」となり、大学図書館内には中嶋の著作や蔵書を収めた「中嶋嶺雄文庫」および中嶋の銅像も設置された[11]。
2018年9月に、評伝『グローバル人材その育成と教育革命 日本の大学を変えた中嶋嶺雄の理念と情熱』(中嶋嶺雄研究会編、アジア・ユーラシア総合研究所)が刊行。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.