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音楽を通じて心豊かな人間を育てることを目的とする教育法 ウィキペディアから
スズキ・メソード(英語: Suzuki method)は、公益社団法人才能教育研究会(さいのうきょういくけんきゅうかい、英語: Talent Education Research Institute)が普及推進している活動で、音楽を通じて心豊かな人間を育てることを目的とする教育法の一つ。20世紀の日本のヴァイオリニスト鈴木鎮一によって創始され、日本、アメリカなどで教育活動が展開されている。主な活動は音楽教育であるが、それが本来の目的ではなく、音楽によって子供の心を豊かにし、自信をつけることにあるとしている。
「どの子も育つ、育て方ひとつ」
1932年(昭和7年)、帝国音楽学校のヴァイオリン教授であった鈴木鎮一の下に、当時4歳の江藤俊哉が父親に連れられてきた。同様の早期教育を望む親子が次々と現れる中で、鈴木は母国語と同じように耳から音楽を教える母語教育法を確立していく。
戦災と疎開を経て、鈴木は1946年(昭和21年)に長野県松本市に松本音楽院を開設。あわせて全国幼児教育同志会を発足させるが、2年後の1948年(昭和23年)に才能教育研究会と改称し、さらに1950年(昭和25年)に文部省(現文部科学省)より「社団法人 才能教育研究会」として認可され、今日に至るスズキ・メソード普及の主体となった。鈴木鎮一は会長としてこれを率い、井深大が名誉会長としてこれを支援した。
鈴木鎮一の没後は、2000年から豊田耕兒が第2代会長を務め、2008年から中嶋嶺雄、中嶋の急逝に伴い2013年から鎮一の姪である鈴木裕子が、2016年からは早野龍五が会長に就いている。
1964年(昭和39年)以来、鈴木は毎年10人、5歳から13歳くらいまでの生徒を海外演奏旅行に連れて行った。これは「テン・チルドレン・ツアー」と呼ばれ、1994年(平成6年)まで30年間にわたり、20ヵ国384都市で483回にわたるコンサートを行なっている。なお、最初の「テン・チルドレン」には、後述する大谷康子や早野龍五が含まれていた。
アメリカでは、1975年(昭和50年)ハワイ州で第1回世界大会を開催。さらに1978年(昭和53年)、鈴木は日米親善コンサートのため100名の児童を率いて渡米。アメリカ側の100名の児童も加わってケネディ・センターで行われたコンサートには、娘エイミーをスズキの教室に通わせるジミー・カーター大統領夫妻も臨席した。
これらの活動によってスズキ・メソードは広く普及し、アメリカ各地で公教育にも取り入れられた。1999年(平成11年)の映画『ミュージック・オブ・ハート』でメリル・ストリープ演じる主人公のヴァイオリン教師が用いたのもスズキ・メソードである。2011年(平成23年)現在では日本の生徒数をはるかに凌ぐ30万人が学んでいる。
ヴェネズエラでは、鈴木初期の門人である小林武史が1971年(昭和46年)に招かれ、スズキ・メソードに基づく教授法を伝えたことで、同国の文化政策エル・システマ成立に大きな役割を果たした。[1]
今日、日本のスズキ・メソード音楽教室には、ヴァイオリン科・チェロ科・フルート科・ピアノ科がある。ヴァイオリン科が最も歴史が長く、最も生徒数が多い。
生徒数は才能教育研究会の公表によれば世界中に40万人強、日本国内では1万人弱で小学生以下が大半を占める。長野県に本部があり、日本全国に大きな支部が15、小さな支部が相当数ある。
スズキ・メソードには生徒の明確な目標を定めるために『卒業制度』というものがある。
教室のレッスンは、基本的にスズキ・メソード発行の教本を順に習っていくが、教本の各巻はスズキ・メソードが設ける「科」とほぼ対応している(上級になると教本を使わず市販の楽譜を用いる場合もある)。生徒は各科の課題曲として決められた曲目をかつてはテープやMD、現在はCDなどに録音し、長野県の才能教育研究会本部に送って採点を受ける。録音の機会は1年に1回、秋ごろである。合格すると卒業証書が送られてくる。
ただし、録音をせずに次の練習曲に進むことも出来る。どの科にも共通だが、1つの科を何年もかけて卒業する生徒もいれば、1年のうちに複数の科を卒業してしまう生徒もいる。これはそれぞれの生徒の進度に合わせる。
なお、ヴァイオリン科の「才能教育課程」はもとは「研究科一期」という名前だったが、会長が豊田耕兒になってからテクニックなどあらゆる面で一つの区切りとなる過程として名称が変更された。
ヴァイオリン科
全課程(あるいは才能教育課程)を修了した者は、国際スズキ・メソード音楽院へ進んでスズキ・メソード指導者となる、あるいはより専門性の高い音楽教育を受けて職業音楽家になるなどのキャリアを選択するが、早期教育によって涵養された能力を音楽以外の分野で開花させる者も多く、鈴木鎮一はむしろそれをスズキ・メソードの誇りとした。
なお、鈴木鎮一は現在の国立音楽大学で教鞭を取ったものの、斎藤秀雄とドイツ留学時代以来の友人であり、スズキ・メソード確立のきっかけとなった門人江藤俊哉が後に桐朋学園大学前学長となり、また現学長の堤剛が鈴木のチェロ指導曲集に模範演奏を寄せているように、桐朋学園大学との関係が深い。後述する出身者に散見されるように、スズキ・メソードで始めた者が、職業音楽家を志して「弦の桐朋」へ進むケースも珍しくない。
毎年7月末から8月初めにかけて、長野県松本文化会館をメイン会場に一週間ほど開催される。朝早くからの各曲目に分かれてのグループレッスンや、夕方から夜にかけてのコンサートなどが行われる。全国の会員の社交場にもなっている。鈴木鎮一が亡くなった1998年(平成10年)には『鈴木先生をしのぶコンサート』が行われた。
かつては毎年3月下旬に全国から東京へ生徒を集めて一大コンサートを行うのが恒例であった。
第1回は1955年(昭和30年)に全国大会として東京体育館で開催され皇太子明仁親王・皇太子妃美智子(現在の上皇明仁・上皇后美智子)、高松宮宣仁親王・同妃、秩父宮妃らの臨席する中、約1200人の生徒が演奏を披露した。第2回は翌年名古屋の金山体育館で開催され、以後も東京・横浜・名古屋など場所を移しつつ毎年開催された。
1966年(昭和41年)第12回からは日本武道館で開催されるようになり、1992年(平成4年)第38回からはグランドコンサートと名を変え、鈴木鎮一の没後も2004年(平成16年)第50回までは毎年開催されていた。その後数年おきの開催となり、2007年(平成19年)に第51回、2009年(平成21年)に第52回を開催。2011年(平成23年)には第53回を開催するため準備を進めていたが、直前に東日本大震災が発生したため急遽中止となった。
2018年(平成30年)4月4日、9年ぶりとなる第53回グランドコンサートが両国国技館で開催され、明仁天皇・美智子皇后・高円宮妃久子の臨席する中、各科約2500人の生徒が演奏を披露。さらにエル・システマジャパンの指導する福島県相馬市・岩手県大槌町の子どもオーケストラが共演した。
2004年の例
最後の鈴木鎮一作曲『きらきら星変奏曲』は、スズキ・メソード音楽教室のどの科でもレッスンで最初に習う、特別な意味を持った曲であり、全国大会でも唯一参加者全員が演奏する。
スズキ•メソードでは、ヴァイオリン奏法におけるボウイングテクニックの一つである指弓のことを「パンダ」と呼称する。命名者は鈴木鎮一である。
弓を上下逆に、先の方を持って演奏する練習方法。
弓の吸い付きが良くなる効果がある。これも考案者は鈴木鎮一である。
協奏曲のソロパートを大勢で合奏する。代表的なものはヴィヴァルディの協奏曲 イ短調 第1楽章。圧巻はメンデルスゾーンの協奏曲 ホ短調 第3楽章であり、グランドコンサート等で演奏されることが多い。
新しい曲に進むにつれ、以前に習った曲が下手になってしまうことを防ぐために、時折、以前に習った曲の中からくじ引きでランダムに演奏して常に技量を維持する方法。
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