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1968年に日本で発生した殺人事件・人質事件 ウィキペディアから
金嬉老事件(きんきろうじけん、キムヒロじけん)は、1968年2月20日に、在日朝鮮人(二世)の金 嬉老(きん きろう(キム・ヒロ)、改名後の本名:権 禧老(クォン・ヒロ)、1928年11月20日 - 2010年3月26日、事件当時39歳)が犯した殺人を発端とする人質事件である。寸又峡事件とも呼ばれる。籠城の様子がテレビを通じてリアルタイムで報道されたことで日本初の劇場型犯罪となった[1]。
1968年2月20日、金嬉老は借金返済を求める暴力団への返済を約束して静岡県清水市(現・静岡市清水区)の歓楽街にあるクラブ「みんくす」で暴力団・柳川組組員と面会した。その場で暴力団員2人(未成年の少年1人を含む)に対しライフルを乱射して殺害し逃亡した[1][2][3]。
翌日には、同県榛原郡本川根町(現・川根本町)寸又峡温泉の「ふじみや旅館」で経営者と宿泊客ら13人を銃で脅し、人質にとって籠城した[1]。
金は、M1カービン用の30発弾倉を取り付けた豊和工業製の猟銃「M300」とダイナマイトで武装していた。籠城すると、自ら警察に居場所を通報し、警察が民族差別について謝罪することを人質解放の条件とした。88時間にわたる籠城を経て、2月24日に金は記者に変装した警察官に取り押さえられ、逮捕された[4]。
旅館には、警察とともに、報道陣も詰め掛けた。金は「わたしは昔から警察からひどい扱いを受けてきた。これを世間に訴えるには、こうした騒ぎを起こし、新聞やテレビで取り扱ってもらうしかない」と事件をマスコミに扱ってもらうために起こしたと主張しだした。何度も記者会見を開き、「これまで受けた差別」を訴え、「警察官による在日韓国・朝鮮人への蔑視発言について謝罪すること」を人質解放条件として要求、マスコミの報道内容で人質の扱いを変えるなど、それ以外の要求をほとんどしなかった。これにより、事件は「差別の告発」として報道された[2]。
金は「朝鮮人は日本へ来てろくな事をしない」と警察官が発言したと主張し、「日本人と在日朝鮮人のケンカの仲裁に呼ばれたにもかかわらず、日本人の行為は不問にし朝鮮人だけを逮捕し、このように言った」と主張している。
金が籠城する様子はテレビやラジオで実況中継され、関連していたとされる警察官がテレビに出演するなどもした。連日各テレビ局のワイドショーは、人質被害者の安否や被害者家族の意向などお構いなしにスタジオから「ふじみや旅館」に独自に生電話を入れて視聴率を稼いだ。
一部のメディアは、銃を持って戸外を警戒している金に対し「金さん、ライフルを空に向けて射ってくれませんか」と要望を出し、金が空に向かって数発、ライフルを乱射しているところをカメラで映して演出までした(のちに金本人が法廷陳述で一連のマスコミ報道の裏を暴露して不満を表明している)。また金の本国である韓国でも大々的に報道され、金は「差別と戦った民族の英雄」として祭り上げられた[2]。
事件直後の4月、事件を取材していた記者たちの手記が静岡県警の部内誌に掲載され、金の主張や要求に沿った報道をおこなったことについて反省の弁を述べている[2]。
金は静岡刑務所未決監独房に身柄を移され、殺人罪、逮捕監禁罪、爆発物取締罰則違反で起訴された。
裁判では金の在日朝鮮人としての生い立ちがどれほどの影響を与えたかが主な争点となったが、検察側は、金が事件に自身の出自を後付けで関連させようとしたものとして死刑を求刑し、弁護側は、金は国籍選択の機会を与えられたことがなく、日本の裁判では金を裁けないなどして、公訴取り消しを求めた[2]。
裁判中、刑務所内での金に対する特別待遇の実態が判明する。金の独房は施錠されておらず、散歩や面会なども自由で、脱獄手段に用いられる出刃包丁、ヤスリ、ライターなどを持ち込んでいた。これは金が自殺をほのめかしたりして、規則違反がエスカレートしたものだった。また、暴力団員を殺害しているところから、トラブルを避けるため、女囚用の房に隔離された。刑務官は常に1対1になるよう配置された。
これらの特別待遇は刑務所上級職員の間で申し送り事項になっていた事実も判明し、刑務所の管理体制が問題となり、衆議院法務委員会でも責任追及が行われた。その結果、法務省矯正局長以下13人の法務関係者上級職員、専従職員13人が停職・減給・戒告・訓告などの処分を受けた。包丁を差し入れたとされる看守は、後に服毒自殺をしている[3]。
裁判では、事実上、当事者側となっていた報道関係者らにも証言が求められたが、彼らの口は重かった。1971年7月22日、4度の出頭命令を拒否し、静岡地方検察庁から拘引状を出されていたTBSテレビの記者が出廷。裁判長は被害者としての体験のみに限って証言するように求めたが、報道記者として行った取材で知り得た事実は証言できないとして拒否した[5]。
1972年6月、死刑求刑に対し静岡地裁は無期懲役の判決を下す。1974年6月、東京高裁が控訴棄却。1975年11月4日、最高裁が上告棄却し無期懲役が確定。熊本刑務所、府中刑務所、千葉刑務所などで服役。1999年9月に、韓国に強制送還し二度と日本に入国しないことなどを条件[6] に70歳で仮釈放[7]。東京保護観察所を経て、韓国釜山に帰国させられた。これにより日本における特別永住者の立場を喪失した。
1970年4月に金嬉老が静岡地裁での公判中で「希望していた爆発物を刑務所内で入手している」と述べた。そのため、弁護側が「刑務所内における金嬉老に対する保護義務違反である」と静岡地裁に現物の差し押さえ・調査を要求した。その調査の結果、刑務所内の金に対する特別待遇の実態が判明した。金嬉老に対してのみ散歩や面会なども自由で、金品の持ち込みも制限がなく、脱獄にも使用できる出刃包丁、ヤスリ、ライターなどのほか、カメラ3台、望遠レンズ、テープレコーダー、トランジスタラジオ、ベンジン、香水、金魚鉢なども刑務所の自室にあった[8]。
これらの特別待遇の背景には、金が自殺を示唆して看守らを脅迫していたことから、もし実行されれば、金を英雄視する左翼日本人やマスコミによる刑務所バッシングを招くという判断があった。そのため、規則違反はエスカレートした。金の機嫌をとるために看守が金嬉老の要求でアダルトな写真まで渡していた。そのため金嬉老による自殺脅迫対策のための特別待遇は刑務所の幹部職員間で引き継ぎ時の申し送り事項になっていた。静岡地裁での金嬉老の発言による調査結果が判明以降に、優遇的管理体制は衆議院法務委員会でも責任追及が行われた。その結果、法務省矯正局長以下13人の法務関係者上級職員、13人の専従職員人が停職・減給・戒告・訓告などの処分を受けた。金嬉老に脅迫されて包丁を差し入れた看守が殺虫剤を飲み自殺した[8]。
前述の通り、金は、静岡刑務所では「暴力団とのトラブルを避ける為」という名目の下、女囚の雑居房があてがわれたが、トラブル回避のためとは名ばかりで、房内にはラジオにカメラ、キッチンセットまで備えられ、隣室の女囚と行き来が自由。金の手料理や店屋物を出前させて会食し、男女の営みまで可能な状態だった。いい女が入所すると睡眠薬を混入した店屋物を食べさせ、レイプまでしており、やりたい放題であった[9]。
1999年9月7日、殺人犯であるにもかかわらず韓国政府から助力を得て、釜山にて新生活を始めた[10][11]。本名を金嬉老から権禧老に再変更し、1979年に獄中結婚した女性としばらくして同居するようになる。
2000年4月13日、韓国国民として国政選挙に投票して主権を行使した。4月25日、金の妻が生活定着金など4750万ウォンもの現金をタンスや権の銀行口座から引き出して逃走、窃盗と私文書偽造の容疑で指名手配され、1年5ヶ月逃走後の2001年9月25日に逮捕された[12]。
さらに金自身も、2000年9月3日、講演会がきっかけで内縁関係になった愛人の夫の殺害を計画、凶器を持って押し入り乱暴を働いた上に家の中に火を付けて、夫への殺人未遂と放火および監禁事件を引き起こし、シャツとズボンに被害者の血飛沫が付いたままの姿で現行犯逮捕され服役した。一連の事件により、韓国での金嬉老の人気は地に落ちたという。
晩年の金は「日本にある母親の墓参り」を言いがかりに、2010年3月に韓国政府を経由して、日本の法務省に入国許可を陳情する予定だった[13]。しかし前立腺がんのため、2010年3月26日に釜山市の病院で死去した[14][15][16]。享年81。
本人は静岡県掛川市にある母親の墓所への納骨を希望したが、事件以前からの金嬉老を知る親族は「人生の大半を刑務所で過ごし、人から金をせびっては豪遊する、見えっ張りでずるくて極端な男だった」として、拒絶し[4][17]、釜山沖と事件現場に散骨された[18]。
1968年2月22日、鈴木道彦、中嶋嶺雄などが銀座東急ホテルに集まり、以下の文書をまとめた[23]。
あなたの声は、私たちのところに届きました。(略)あなたの行動は民族の責任を衝きました。私たちは、まさに日本民族のため、あなたの声をまっこうから受け止めたいと思います。
日高六郎、中野好夫、宇野重吉も電話連絡で呼びかけられ、署名する。1968年2月23日、文化人・弁護士5人が文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見、そのときの様子は以下である[23]。
逮捕後、文書に署名した文化人の多くは、事件とのかかわりから逃避・遁走して、「金嬉老の訴えをもとに金を弁護し、闘うという初期の呼びかけはどこへやら」となり、「すでにわれわれの役割は終わったのだ」として縁を切る人物から、「金嬉老を守る会」ではなく「差別と偏見を考える会」へと逃走する人物まででる「失速ぶり」となった[24]。
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