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伊東 光晴(いとう みつはる、1927年9月11日 - )は、日本の経済学者。専門は理論経済学。京都大学名誉教授、復旦大学(中国)名誉教授、福井県立大学名誉教授。吉野作造賞等受賞。紫綬褒章受章。東京都出身。
一橋の杉本栄一ゼミや都留重人ゼミで学び[1][2]、杉本の影響の下、近代経済学、マルクス主義を介した理論経済学の研究に従事する。また同期の山口敏明(東ソー社長や経済同友会副代表幹事を歴任)らとともに一橋新聞部にも参加[3][4]。予科同期の佐藤金三郎(元横浜国立大学教授)とは生涯親しく交友した[5]。
敗戦により、社会のロマンを解こうと経済学の道に入る。特別研究生時代は、日曜日朝から杉本の家で開かれるゼミに、同じく特別研究生の浅野栄一(中央大学名誉教授)や、ゼミOBの宮崎義一(京都大学名誉教授)、宮崎犀一(元東京女子大学教授)とともに出席し、杉本とともに宮川公男(一橋大学名誉教授)、玉井龍象(金沢大学名誉教授)、近藤鉄雄(大蔵官僚、元労働大臣)らの指導を行った[3]。
指導教官杉本の急逝に伴い、杉本の同期だった笠信太郎や田中愼次郎から朝日新聞社に誘われたり、森嶋通夫からも大阪大学に誘われたが、東京に留まるため東京外国語大学に着任。経済学専攻ではない学生の関心に合わせジョン・メイナード・ケインズを使ったイギリス社会・経済思想やヨーゼフ・シュンペーターを通じたドイツ社会・経済思想などの研究を始めた[5]。
経済学の理論的・思想的研究、現代資本主義論の研究を進めた。経済学に技術の問題、経営の問題が抜けていることをいち早く指摘。とりわけ、経済企画庁(現・内閣府) ― 国民生活審議会 では、第1次から長年にわたり委員をつとめた[6]。また、「エコノミスト賞」選考委員会委員長(~第47回)をつとめた。1960年代から80年代にかけては市民の立場に立ったテレビ解説でも知られた[要出典]。
1978年から1983年まで理論経済学会理事、1985年経済学史学会幹事、1986年経済政策学会常任理事。
日本学術振興会学術顧問、郵政省電気通信審議会NTT特別部会長、厚生省中央社会保険医療協議会調査実施小委員会委員長、厚生省少子・高齢社会看護問題検討会座長、厚生省歯科医師の需給に関する検討会座長、経済企画庁国民生活審議会委員、財団法人生命保険文化センター評議員、毎日新聞社「エコノミスト賞」選考委員会委員長、医療経済研究機構所長などを歴任。
弟子に村田修造(元大阪成蹊短期大学教授)、中村達也(中央大学名誉教授)、渡会勝義(元早稲田大学教授)、岡敏弘(京都大学教授)、岩本武和(西南学院大学教授)、根井雅弘(京都大学教授)、井上義朗(中央大学教授)、依田高典(京都大学教授)、服部茂幸(同志社大学教授)、広瀬弘毅(福井県立大学教授)らがいる[要出典]。
京都大学最終講義「経済学40年」は、京都大学定年退官を記念して編まれた論文集である根井雅弘・西村周三編著『現代経済学の再検討』(日本評論社、1992年)に収められている。
佐藤金三郎の遺著『マルクス遺稿物語』(岩波新書、1989年)は、伊東も一部執筆している[10]。
佐武一郎は、東京都立両国高等学校の同級生。
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