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東京都千代田区にある私立大学 ウィキペディアから
法政大学(ほうせいだいがく、英語: Hosei University)は、東京都千代田区富士見二丁目17番1号に本部を置く日本の私立大学。1880年創立、1920年大学設置。大学の略称は法大(ほうだい)。
法政大学 | |
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市ヶ谷キャンパス(ボアソナード・タワー) | |
大学設置 | 1920年 |
創立 | 1880年 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人法政大学 |
本部所在地 |
東京都千代田区富士見二丁目17号1番 北緯35度41分44.3秒 東経139度44分26.4秒 |
キャンパス | |
学部 | |
研究科 | |
ウェブサイト | https://www.hosei.ac.jp/ |
法政大学は、1880年4月設立の東京法学社(のち東京法学校)[1] および1886年設立の東京仏学校を前身とする、私立総合大学である。現総長は廣瀬克哉。
明治初期の頃、近代国家にふさわしい制度づくりの必要性や、自由民権運動が高揚する時代背景などから、近代的な法治システムや権利義務等を教育する、フランス法系の私立法律学校として創設された。これは法学部へと発展した日本最古の私立法律学校である[2]。
また、1920年に大学令準拠の旧制私立大学に昇格した一校であり、東京六大学の一校でもある(東京六大学野球連盟も参照)。現在では、15学部・大学院17研究科を擁する総合大学となっており、スーパーグローバル大学に選定されている[3]。
本部キャンパスは、東京都千代田区に所在する。旧江戸城外堀や皇居、北の丸公園、靖国神社付近に立地しており、都心の緑地に囲まれている。昭和期には郊外へと校地を広げ、現在は東京都内の市ケ谷・小金井・多摩に3キャンパスを有する。
一般入試の実志願者数では、2019年・2020年・2022年に日本一となっている[4]。
創立者のほかに、初代教頭のギュスターヴ・エミール・ボアソナード (Gustave Émile Boissonade) と初代総理(総長)の梅謙次郎を学祖とする。
建学以来「自由な学風と進取の気象」を校風としている。「自由と進歩」は1880年の「東京法学社開校ノ趣旨」に述べられており、「進取の気象」は法政大学校歌に謳われている。
また、戦後これらの伝統にヒューマニズムの精神を加味した3つの指針「独立自由な人格の形成」、「学問を通じたヒューマニティの昂揚」、「日本人の社会生活の向上に寄与する人材の育成」を定めている。
その後、「開かれた大学、開かれた精神」や「自立型人材の育成」を基本理念としながら、大学運営を行ってきた。そして、2016年に大学憲章を定めたうえで、次のようなミッションを掲げている[5]。
「 |
1. 本学の使命は、建学以来培われてきた「自由と進歩」の精神と公正な判断力をもって、主体的、自立的かつ創造的に、新しい時代を構築する市民を育てることである。 |
」 |
前身の東京法学社は、私立法律学校特別監督条規に基づいて帝国大学総長の監督下にあった、日本最古の私立法律学校として知られる。五大法律学校の中でも最も早く設立されたものであり、これが現在の法学部のルーツである[2]。
また、経済学部が東京帝国大学や京都帝国大学そして慶應義塾大学に次いで4番目に設立され(1920年)[注釈 1]、経営学部も神戸大学や明治大学に次いで3番目に設立されており、多くの伝統学部が存在する。
さらに1947年に日本最初の大学通信教育課程を開設[6] した他、1952年には中央労働学園大学の社会学部(日本の大学で初めて設立された社会学部)を吸収合併[7]。1995年にも日本最初の夜間博士後期課程を開設している[8]。
企業側へ学生を派遣し、短期就職させるインターンシップも他大学に先立ち早くから始動させている。また、生涯設計や就職活動などに対する意識をいち早く形成させる目的の「キャリアデザイン学」を開講しており、学部の枠を超えて1年次から教養科目として履修できる。
2011年に公務員および法曹を目指す学生を支援するための「公務人材育成センター」を設置して公務員講座・法職講座を開講[9]、2014年には「高度会計人育成センター」を設置して会計専門職講座を開講している[10]。
国際社会で活躍できる人材を育成するための「グローバル教育センター」を2014年に開設しており、各学部のカリキュラムに連動した海外留学制度や国際ボランティア・国際インターンシップなどの様々な国際教育プログラムを整備している。
学内においては、交換留学生と所定の条件を満たした日本人学生を対象に英語でゼミを行う「交換留学生受入れプログラム (ESOP)」を市ヶ谷キャンパスで開講しているほか、全学部の学生を対象に授業をすべて英語で行う「グローバル・オープン科目」や、ネイティブスピーカー講師による英語スキルの養成などを目的とした「英語強化プログラム (ERP)」、ネイティブスピーカーと英語で自由に会話できる「Gラウンジ (Global Lounge)」を、市ヶ谷・多摩・小金井の全キャンパスに設けている[11]。
2003年より教育の質を向上させることを目的としたファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development、通称FD)プログラムを実施している。具体例としては、授業の満足度等を学生が評価する「学生による授業評価アンケート」を年2回行っている。
2008年には総長室に「大学評価室」を付置し、自己点検・評価のための情報収集・調査・分析などを行っている。
(沿革節の主要な出典は公式サイト[12])
法政大学の前身である東京法学社は、1880年(明治13年)4月、当時の神田区駿河台北甲賀町に設立された[13]。
フランス法の流れを汲む金丸鉄・伊藤修・薩埵正邦・堀田正忠・元田直ら7名[注釈 3] の法律家・司法省関係者によって創立されたもので、「教師を聘し、専ら我国の新法を講義し、又仏国法律を講義す」る講法局と、「上告、控訴、初審の詞訟代言を務め、又代言生を陶冶す」る代言局で構成されていた。つまり、学内に弁護士事務所を置いて、学生に弁護士業務を体験させるリーガル・クリニックを備えた現代の法科大学院の原型といえる。
しかし、同年5月に「代言人規則」(現在の弁護士法に相当)が改正され、代言人組合以外に「私に社を結び号を設け営業を為したる」代言人は懲戒の対象となったため[14]、代言局での実務教育は続行できなくなった[15]。そのため、東京法学社は講義中心の通常の法律学校としての性格を強め、薩埵が中心となって1880年(明治13年)9月12日に「開校」。翌1881年(明治14年)5月に講法局が独立して東京法学校と改称した。
1883年(明治16年)には、ボアソナードが初代教頭に就任。パリ大学から招聘された日本政府の法律顧問で、不平等条約の撤廃のため日本の近代法整備に大きく貢献した。その功績から「日本近代法の父」[16][17][18] と呼ばれている。その後、1886年(明治19年)に帝国大学特別監督学校となり、1888年(明治21年)には文部省令第3号「特別認可学校規則」[19] により特別認可学校となった[20]。
1886年(明治19年)4月に、辻新次(初代文部次官)・古市公威(帝国大学工科大学初代学長)・長田銈太郎(宮内省式部官、明治天皇の通訳)・山崎直胤(内務省初代県治局長)・平山成信(後の枢密顧問官)・寺内正毅(後の第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将)・栗塚省吾(後の大審院部長判事)の7名が、フランス学の普及を目的とした教育機関設立を計画。
同年5月に仏学会 (La Société de Langue Française) が組織され(初代会長は辻新次)、11月に同学会が神田区小川町の東京法学校の正面に東京仏学校を設立した(初代校長は古市公威)[21]。
同校は1885年(明治18年)に旧東京大学に統合された官立の仏法系学校・司法省法学校の後身校的な性格をもち、フランス語で教授する法律科を有し、政府からは手厚い資金援助を受けていた。
また仏学会の会員には、名誉総裁に伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、小松宮依仁親王(後に東伏見宮)、名誉会員に徳川昭武(第15代将軍徳川慶喜の弟、水戸藩第11代藩主)、徳川篤敬(水戸徳川家第12代当主)、鍋島直大(佐賀藩第11代藩主)、蜂須賀茂韶(徳島藩第14代藩主)、太田資美(掛川藩第7代藩主)、大木喬任(元老院議長、枢密院議長)、山田顕義(司法大臣)、ボアソナード、アッペール等が名を連ね[22]、彼ら会員からの支援も受けながら東京仏学校は設立・運営された[23]。
なお、当時の文部官僚トップで東京仏学校設立の中心人物であった辻新次と、当時の司法省刑事局長で後に東京法学校の校長に就任した河津祐之は、1872年(明治5年)頃の文部省において箕作麟祥のもとで学制の起草にあたっていた元同僚であり[24]、両者とも仏学会の創立会員である。
当初はフランス学を教授することを目的としていたが、法律科の設置以降は法律学校としての性格を強め、1888年(明治21年)に文部省令第3号「特別認可学校規則」[19] により特別認可学校となった[25]。
フランス法系の結集を図るため、1889年(明治22年)5月の仏学会臨時総集会において、東京法学校と東京仏学校の合併ならびに和仏法律学校への改称が決議され、9月9日に同校が正式に発足した[26]。
初代校長には、当時の司法次官(司法官僚トップ)で日本における「法律の元祖」[27] といわれる箕作麟祥が就任。以後、日本の現行諸法典を創った法典調査会の中心人物が校長に就任している。その中でも、「日本民法典の父」[28] といわれる梅謙次郎は、20年間にわたり学監、校長、初代総理として、本学の発展に大きく貢献した。
梅が校長を務めていた1903年(明治36年)に法政大学と改称(専門学校令準拠)。その後、1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学・早稲田大学についで、最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。そして、1949年(昭和24年)より新制大学となって今に至っている。
神田区小川町1番地に所在した建坪が316.5坪のレンガ造りの校舎[104]。東京法学校時代の1884年(明治17年)から使用された[105]。レンガ造りの旧勧工場(内国勧業博覧会を日常化した百貨商品販売所)の建物を買い取って内部を改築したもので[105]、建物の前の半分が教務室、食堂、寄宿舎、奥の半分が約300人収容の講堂を中心とした教室であった[106]。その頃の学校としては、かなり人目を引く規模の校舎であったという[106][注釈 26]。この新校舎の購入に際しては、ボアソナードが私財を投じたといわれ[107][108]、校舎の前面には、当時の大審院院長であった玉乃世履の揮毫による「東京法学校」の大文字の額が掛かっていた[106]。
なお、東京法学校はこの校舎の向かいにあったもう1棟のレンガ造り建坪144坪の建物[109] も所有していたが、こちらは仏学会 (La Société de Langue Française) に賃貸され[110]、1886年(明治19年)の東京仏学校開校時の校舎となった。また、この東京仏学校の校舎は、仏学会からさらに夜間のみ東京物理学校(現・東京理科大学)に賃貸され[110](転貸借)、東京法学校と東京仏学校が合併に向けて動き出した1888年末に東京物理学校に売却された[111](同校が1906年に神楽坂に移転するまで使用)。
和仏法律学校時代の1890年(明治23年)に九段上[注釈 27] に竣工した建坪が255坪の木造2階建ての校舎[112]。設計は、エコール・サントラル・パリ (École Centrale Paris) を卒業し、同時期(1890年前後)に帝国大学や一高から五高までの校舎も手掛けた山口半六[113]。
6つの講堂、事務室、応接所、書籍閲覧室などが設けられ[112]、教員や学生たちからは「梧桐の校舎」と呼ばれて親しまれたが[113]、大正期には手狭になったため[注釈 28]、1918年(大正7年)に富士見町4丁目12・13番地(現在の市ケ谷キャンパスの所在地)を買収し[114]、新校舎を建設することになった[注釈 29]。そして1921年に第一校舎が竣工し、移転した[114]。旧九段上校舎は1923年に大東文化学院(現・大東文化大学)に売却され[41]、同学院校舎として1941年まで使用された[115]。
1921年(大正10年)に旧江戸城外堀沿いの富士見町4丁目12・13番地(現在の市ケ谷キャンパス)に竣工した木造モルタル3階建ての校舎。
3階 | 小教室4、中講堂(合併授業用)、大講堂 |
2階 | 小教室(十数室) |
1階 | 学長室、教員室、事務室、学生控室など |
3階の大講堂では、各種式典や講演会などが行われ、日本美術院の展覧会や学生たちによる外国語劇なども催された[39]。第一校舎の竣工記念に、ヴィルヘルム・ゾルフ駐日ドイツ大使を招待してゲーテ作のドイツ語劇『ファウスト』が上演されたほか[38]、1922年にはロマン・ロラン作のフランス語劇やオーガスタ・グレゴリー作の英語劇なども上演された[39]。また、国賓として来日[116] したフランスのジョッフル元帥が1922年2月に来校した際に、学生を励ます演説を行ったのも、この大講堂であった[39]。
1923年に発生した関東大震災での損害は軽微で[117]、授業再開も早かったため、その翌年から法政大学への入学志願者が急増することになった[118]。 戦前の法大を代表する校舎であったが、1945年5月25日から26日にかけての米軍による空襲によって焼失した[119]。
1922年(大正11年)に竣工した建坪が207坪の木造3階建ての校舎[114]。第一校舎に接続して建てられ[114]、大小の教室のみが設けられていた[120]。主に学部の授業に使用されたが[120]、第一校舎とともに空襲により焼失した。
1927年(昭和2年)に竣工した鉄筋コンクリート地上4階・地下1階建ての校舎。山下啓次郎の設計によるもので、完成当時は小講堂や図書館機能を有し、名称は第三校舎であったが、戦後は第一校舎と称されるようになる。末期には国際交流センターやキャリアセンターなどが入っていた。
2007年の外濠校舎完成後に取り壊され、これを最後に市ケ谷キャンパスからは戦前の校舎が全て姿を消すことになった。2007年4月21日には第一校舎の顕彰イベントが行われ、山下啓次郎の孫にあたるジャズピアニストの山下洋輔の演奏会などが催された[121]。なお、山下洋輔の母方の祖父は元法大総長の小山松吉である。
1928年(昭和3年)に竣工した鉄筋コンクリート校舎。蒲原重雄の設計によるもので、その名の通り六角形を2つ組み合わせた形をしており、内部の螺旋階段が特徴的な校舎であった。しかし日本の学生運動が激化した1970年に東京教育大学生リンチ殺人事件が発生し[122]、管理上の問題から同年10月に解体された[123]。
昭和初期には市ケ谷の校舎が手狭になったため、近隣地の取得を目指していたが[124]、東京横浜電鉄(現・東急)から川崎市木月所在の日活撮影所予定地[125](1万坪)を無償提供されることになり、この地に大学予科を移転することになった。これには校友で教授の児玉正勝が奔走したほか、東横社長の五島慶太が若い頃に富井政章の書生をしていた縁もあった[126]。その頃の木月は桃畑と麦畑が広がる田園地帯で、晴れた日には遥か遠くに富士山を眺めることもできた[127]。
鉄筋コンクリート3階建て、中央に時計塔の聳えた白亜の校舎は、1936年(昭和11年)10月に落成式が行われ[127]、1939年(昭和14年)までに野球場、陸上競技場、ラグビー場、プールなども順次建設され、さらに法政大学第二中学校(現在の二中高)も同地に設立された。
1945年(昭和20年)5月23日夜の空襲で時計塔校舎は無事だったが、付属の木造建築物(図書館、二中校舎、野球部合宿所など)の多くは焼失した[128][129]。終戦直後には占領軍が木月校地を一部接収し(1948年まで)[130]、二中校舎の焼け跡や校庭は軍用トラックの駐車場、菜園と化していた野球場は米軍専用球場となり、銃を持った米兵がしばしば教室を巡検した[131]。
新制法政大学の第一教養部が1958年(昭和33年)に市ケ谷への移転を完了した後、時計塔校舎は二中高に引き継がれ、竣工から約80年を経た2014年に、2代目の時計塔校舎に建て替えられている。
1951年(昭和26年)に法政大学と合併した中央労働学園大学から受け継いだ鉄筋コンクリート4階建て、延べ面積800坪の校舎。翌年から社会学部と工学部、法政大学第一工業高等学校の校舎となった。1955年(昭和30年)に社会学部、1964年(昭和39年)に工学部、1965年(昭和40年)に第一工業高校が移転した後は法政大学出版局や大原社会問題研究所(麻布分室)、能楽研究所、沖縄文化研究所の施設となったが、1984年(昭和59年)に売却された。
戦後間もない1953年(昭和28年)に竣工した地上6階・地下1階建ての校舎。55年館と連絡階段で結ばれ、大学院棟として使用された。設計は工学部の教授で、後に国立能楽堂なども手掛けた大江宏。当時の校舎としては斬新なガラス張りの建物であった。大江宏は「アカデミズムの府らしい重厚な建築」ではなく、ガラス張りで外光をふんだんに取り込める、当時の校舎としては画期的な建物を構想し[132][133]、「ネオン輝く大学院」[134] と報じられたが、「HOSEI UNIVERSITY GRADUATE SCHOOL」のネオンサインを見た評論家の大宅壮一からは、「HOTEL UNIVERSITY」と冷やかされたといわれる[135]。
53年館の中庭には、フランスの彫刻家フェリックス・ベヌトー作の原型から作られたボアソナード博士像が置かれた。これは、最高裁判所、外務省、フランス大使館、東京大学法学部、法政大学、明治大学、日仏会館などの後援により[136]、パリ大学に置かれている胸像と同じ原型をもとに、東京藝術大学の海野清教授らが製作した2基の胸像を、最高裁判所と法政大学に設置することになったものである[136]。1953年12月21日午前に最高裁判所で行われた胸像除幕式には、吉田茂内閣総理大臣、田中耕太郎最高裁判所長官、レオン・ジュリオ・ド・ラ・モランディエールパリ法科大学長 (le doyen de la faculté de droit de Paris) 、ダニエル・レヴィー駐日フランス大使、大内兵衛法大総長、鵜沢総明明大学長らが出席し[137]、同日午後には、ほぼ同じメンバーで法政大学においても除幕式が挙行された[137]。
53年館は老朽化のペースが予想以上に激しいことが判明したため[138]、1995年に第Ⅱ58年館とともに解体された[注釈 30]。跡地にはボアソナード・タワーが建設され、ボアソナード博士像も同タワー内に再設置されている[137]。
1955年(昭和30年)に竣工した地上7階・地下1階建ての校舎。当時の工学部教授であった大江宏の設計によるモダニズム建築の建物で、58年館と一体になっていた。正門側から見て右側にあたり、市ケ谷キャンパス最大の教室であった511教室や、各種大・中教室(のちに小教室も設けた)、学生食堂などが入っていた。校舎としては日本最初の鉄骨高層の建築物といわれ[139][140]、また当時としては珍しかった[141] 1階から7階まで続くスロープのほか、カラー・コンディショニングなどの多くの新しい試みも実用化され[141]、58年館とともに、1958年に第10回日本建築学会賞作品賞、1960年に第1回BCS賞を受賞している。55年館の落成記念式典には、安藤正純文部大臣、島田孝一日本私立大学連盟会長らが出席した。
建設されたのは戦後間もない資金的にも苦しい時期であったが、当時の大内兵衛総長の判断で着工され、511教室前の壁には大内の揮毫による「学而不思則罔 思而不学則殆」(学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し 『論語』為政篇)のレリーフが掲げられていた(2019年に大内山校舎に移設)。
1958年(昭和33年)に竣工した地上7階・地下1階建ての校舎。大江宏の設計によるモダニズム建築の建物で、55年館と一体になっていた。正門側から見てピロティを含む左側にあたり、各種教室、学生ホール、地下商店街、学生食堂、事務室、教授室、理事室、総長室などが入っていた。竣工した年に55年館とともに第10回日本建築学会賞作品賞、1960年に第1回BCS賞を受賞しており、戦後の法大を代表する校舎であった。58年館の竣工記念行事には、元東京帝国大学総長で安田講堂などの設計を手掛けた建築家の内田祥三や、後に日本人初のプリツカー賞受賞者となる建築家の丹下健三、戦前にフランスで過ごした芸術家の岡本太郎らが参加している(右の画像はその時の写真)。岡本太郎は、完成直後の58年館を見て「私が見た世界の大学建築の中で、光線の考察や設備の点で群を抜いている」と評した[142]。
なお、53年館に隣接して第II58年館も建設されたが、こちらは53年館とともにボアソナード・タワーの建設に伴い解体された。
55年館と58年館の欠点は大・中教室ばかりで、語学やゼミなどには利用しづらいことであった[注釈 31]。この欠点を克服するために小教室中心の62年館(現・市ケ谷田町校舎)と69年館(現・法科大学院棟)が建設されることになる。
55年館と58年館は竣工から約60年を経た後に、エレメント(ディテール)、素材感、スケール等を継承した、2016年竣工の富士見ゲートおよび2019年竣工の大内山校舎に建て替えられ[143]、跡地には市ケ谷キャンパス中央広場が整備された(2021年竣工)[144]。また、この中央広場には、55・58年館の床石のパターンを模した「メモリアルコリドー」と呼ばれる通路や、柱があった位置に柱に見立てたスツール(背もたれや肘掛けのない椅子)も設置された[145]。
校章のデザインは旧制専門学校の時代から何度か変更があり、現在の校章は1930年に制定された[146]。長い伝統と永遠の真理をイメージして「大学」の二文字を亀の子型に図案化している。考案したのは当時の教授で建築家の山崎楽堂(本名 山崎静太郎)である[146]。画像は帽章。
エンブレムは、校章と頭文字「H」、シンボルモチーフの組み合わせで構成されている。シンボルモチーフの羅針盤は、「その先の自分」の進む方向性を示す「進歩」の象徴、鳥の羽は、その進む方向に向かって「自由」に飛翔する強い意志の象徴であると説明されている。
現在の校旗は、2008年1月に改めて作られたもので初代から数えて3代目に当たる。初代の校旗は戦災で焼失し、2代目は1947年に当時の学生課長が学生自治会と相談して、学生から5銭、10銭と醵金(きょきん)を集め、校章とスクールカラーを配することを条件として高島屋に一任したもので、制作費は15,000円であった。入学式・学位授与式の際に掲揚する以外は、通常目にする機会はない。
縦3列にスクールカラーで色分けされ、中央に「法政」を表すアルファベットの「H」を配したシンプルなもの。中央部分にはオレンジを、その他の部分で青(青紫)を使用。通常時は大学のシンボル旗として略旗が使用されているため、法政の旗というとこれを思い浮かべる者が多い。大学スポーツの応援や、大学グッズなどにもたいていこの略旗が用いられるため、法大生や受験生の間でも「法政の旗=略旗」のイメージが強い。略旗のデザインの起源については、応援団の「団旗」によるものと考えられている。1990年にはそれまで不明瞭だった寸法が正式に縦180cm、横270cmと制定され、中央の「H」の位置をはじめとする細かな寸法も定められた。
法政大学校歌
佐藤春夫(左・1892年-1964年) 近衛秀麿(右・1898年-1973年) |
現在歌われている2代目の校歌。
初代校歌「名大いなれ法政」は格調高い歌ではあったが、六大学の野球応援では迫力を欠いたため、学生たちからより力強い校歌を求める声が上がった。
折からの法政スピル(スピリット)運動が盛り上がりを見せる中で1929年(昭和4年)11月、応援団の学生らにより「新学生歌作成準備委員会」が結成され、活発な募金活動も行われた。
学生対象の歌詞公募では当選作がなかったため、投票により作詞を佐藤春夫(当時の予科講師)、作曲を近衛秀麿に依頼することに決定した。
しかし近衛は佐藤の歌詞では作曲できぬといい、両者の間で激しい論争が起きた。その後、佐藤は未完のまま故郷の熊野に隠退した。改訂版の歌詞は学生委員を通じて熊野から届けられ、近衛はヨーロッパへの演奏旅行に向かう最中にシベリア鉄道の車内で楽譜を書き上げた。
新校歌の後押しを受けた法政大学野球部は1930年(昭和5年)秋のリーグ戦で悲願の初優勝を成し遂げた[43][147][148][149]。
作曲家の團伊玖磨は早稲田・明治とともに法政の校歌が「六大学の校歌の中で最も優れたもの」であり、「終りの”法政 おお わが母校”を二度繰り返す部分の旋律が実によく出来ているし、又美しくもある」と評している[150]。
大学ホームページ上で試聴ができるほか[151]、多くのカラオケボックスで曲目一覧に掲載されている。また着うた・着うたフル・着信メロディでも配信されており、法政大学アリオンコール等の法政大学の合唱団や音楽サークルが楽曲を提供している。
これらの曲は法大応援団などの演奏や東京六大学野球等の応援時に聴くことができる。また、曲を収録したDVD・CD・カセットテープを大学が発行しており、法大生は機会があれば無料で入手できるほか、大学内の大学グッズショップでも購入できる。
スクールカラーは「オレンジ 」と「ブルー(紫より濃い青紫) 」であり、それぞれ「暁の太陽」と「青空」を表している。印刷番号は、オレンジがDIC161(4色分解/Y100%+M60%)、ブルーはPANTONE280(4色分解/C100%+M90%)である。
現在のシンボルマークは1996年3月に制定されたもので、「100有余年の歴史が培ってきた様々な実績と、21世紀に向けたワールドワイドな視点を表すこと」をコンセプトとしている。
スクールカラーの「オレンジ」が持つ意味合いの一つ「太陽」というモチーフをHOSEIの「O」の文字にオーバーラップさせ、宇宙、国際性、スポーティーイメージ、躍動感、明るさ、エネルギーなどを象徴化している。
旧制法律学校時代からの伝統を有する学部で1880年創立。日本の大学では東京大学に次いで2番目に古い歴史(私学では最古の歴史)を持つ法学部である。1922年に文学科と哲学科を加えて法文学部となり[161]、1947年の学部改組により再び法学部(法律学科・政治学科)となる[注釈 32]。法律学はもちろん政治学も学び、国際的に活躍できる知的人格形成を目指す。法律学科ではコースモデル制、政治学科は科目群制、国際政治学科はコース制を設定しており、他学科の講義も受講できるよう配慮している。また国際政治学科では、1年次の夏期休暇を用いてオックスフォード大学への短期留学を行っている(全員必修。他2学科からも希望参加が可能)。
1999年創立。「文化」を一国ずつに考えるのではなく、国境を越えて広がる文化のイメージを捉えると同時に異文化間のコミュニケーションを考える。コース制を敷いており、2年進級時には希望のコースを選択するが、3年進級時に変更も可能。少人数教育も盛んに行われている。長期と短期を選択できる海外留学システム(Study Abroad、通称SA)に力を入れており、学部生の海外留学は必修である。
1999年創立。日本の大学での環境学の先駆的存在。自然保護・街づくり・国際協力などを学ぶため、キャンパスを飛び出して現地へ赴く「フィールドスタディー」が特徴。コース制を実施しており、2年進級時に選択する。文系ではあるものの理系の研究も可能である。
2003年に二部文学部教育学科を発展させる形で設立。英語の「career」という言葉をいかに捉えるのかを研究する学部で、世界規模で注目されているテーマである「キャリアデザイン」を考える。教育学・経営学・文化/コミュニティ学を融合した新しい学問体系で、その核となるのは「生き方研究」である。自身のライフコースを見つめ、深く考慮できる人材育成を目指す。2年次に領域を選択する。
2007年に工学部の建築学科・都市環境デザイン工学科・システムデザイン学科を改組し、市ケ谷キャンパスへ移転して設立。「総合デザイン」を学部の核となるキーワードに設定し、学生の進路に合わせたデザイン学を構成する。美学、工学、技術から生まれる新しい「ものづくり」、「空間づくり」、「都市づくり」の教育研究を理念に置く。専門の授業は市ケ谷キャンパスから少し離れた市ヶ谷田町校舎で学ぶ。現在3学科を抱える。
2008年にIGISを発展させる形で設立。GISと称されることが多い。公式ホームページ・パンフレットでも初めにアルファベット表記であることが多く、今のところアルファベット表記・かな表記のどちらも正式名称として取り扱われている。学内最小の学部で、日本国内でも最小規模の学部である。その分だけきめ細やかな教育を売りにしており、ほとんどの講義は少人数で基本的に全て英語で行われる。また海外からの留学生も多く所属している。1年次の必修科目である「Global Studies」は、専任教員が毎週交替でそれぞれの専門分野と関連づけて講義されている。「芸術・文学と文化 (Arts, Literature and Culture)」、「言語学と英語教育 (Linguistics and English Education)」、「社会とアイデンティティ (Society and Identity)」、「国際関係と経済 (International Relations and Economy)」という科目群がある。
1919年(大正8年)に内務省や財界によって設立された財団法人協調会をルーツとする学部で、1952年に中央労働学園大学(中労大)の社会学部を吸収合併することによって設立された私立では最古の社会学部(日本の大学では中央労働学園大学と一橋大学に次いで3番目の社会学部)。設立当初は中労大から受け継いだ麻布校舎を使用し、1955年の市ケ谷移転を経て1984年に新設の多摩キャンパスに移転した。ゼミナール活動を中心とした7コース・8プログラムで研究を進める。2年次に主専攻(コース)を1つ選び、副専攻(プログラム)を2-3個選ぶ。さらに大学から外へ出て実際に行動する「フィールド学習」を行い、フィールドトリップ、フィールドワーク、フィールドリサーチ、フィールドのメディア化のプロセスを通じて、社会の実像を見つめていく。その他マスコミ・メディア学も履修可能である。日刊ゲンダイによると学部偏差値やグーグルのビッグデータを活用した独自調査において、看板学部のひとつとされている。
2000年創立。福祉・臨床心理・地域づくりの3テーマを主軸に置く独自のカリキュラムで特色ある学習を目指す。東京六大学では初の本格的な臨床心理も学ぶことができる。学外での臨床現場を見学、体験を基にした研究をすることもできる。和ちゃん奨学金という学部独自の奨学金がある。インテンシヴ・イングリッシュという2年間の英語教育も行われている。創立当初は現代福祉学科のみであったが、2010年に福祉コミュニティ学科・臨床心理学科の2学科体制へと改組され、現代福祉学科は現在募集停止中である。
2009年創立。現在法政大学内で最も新しい学部である。21世紀のスポーツと健康の問題を扱い、実習・実技講義も多数備える。また、海外の最先端スポーツ健康学を理解するための英語教育にも重きを置く。コース制を敷いており、2年進級時に選択するが、各コース間の連携を強くし、学部生全員が基本となる体育学、健康科学が身につくよう考慮されている。多摩キャンパスの広いスポーツ施設を利用する。
2008年に工学部生命機能学科・物質化学科を改組、発展させて設立。生物学・生命学を軸とした専門分野を学ぶほか、先端科学を基礎とした技術研究も行う。生命機能学科には、国内大学では珍しい植物医科学専修が存在する。少人数教育を行っており、1年次から実験・実習を重視している。また、チューター制度も導入しているほか、キャリア学習にも力を入れており、外部研究機関等と連携して学習するインターンシップ科目も設定されている。2014年4月に生命機能学科植物医科学専修を改組して応用植物科学科を設置。
2000年創立。情報の名を冠する学部の中でも本学部の研究はかなり本格的で、他大学ではたいてい4年次から参加する情報活動を1年次から参加できる「情報科学プロジェクト」がある。4年間学科生全員へノートパソコンが貸与され、自由にソフトウェアを入れたりハードウェアを拡張することもできる。2年進級次にコースを選択し、2 - 3年次に各コースの科目を履修する。4年次から研究室に所属して卒業研究に取り組む。現在2学科を抱える。
基本的に各学部各学科とも同じ
法政大学の図書館は1899年(明治32年)和仏法律学校時代に創設され[169]、その歴史は100年を超える。創設以来、多くの法大生や教授の研究を支えてきた。1929年から1931年には第二代図書館長として野上豊一郎が就任している[170]。
1945年(昭和20年)5月の空襲で市ケ谷の旧第一・第二校舎は焼失したが、図書館が入っていた旧第三校舎は焼失を免れ、終戦後の12月からは一般市民対象の日曜開館を実施した[171]。
昭和20年代から30年代にかけて協調会文庫や三木清文庫、和辻哲郎文庫などを受贈・購入することによって、蔵書の質・量は充実していったが[172]、新図書館の建設は様々な理由で先送りにされ、一部の蔵書を麻布校舎に分置せざるを得ない状況が続いたが[173]、1981年の80年館(図書館・研究棟)竣工と1984年の多摩図書館開館によってようやく書庫不足の問題は解消し、閲覧環境も大幅に改善されるに至った[174]。
現在、図書館は市ケ谷・多摩・小金井の各キャンパスにそれぞれ存在しているが、全ての学生が3キャンパスの図書館を利用することができる。所蔵資料数は165万冊(2009年4月現在)[175] で日本の大学中6位。法政大学生であれば、自宅のパソコンからも図書の予約が可能。毎日数回3キャンパスの図書館を回る「図書配達車」を運行しているため、所属キャンパスに希望の資料が無くてもスピーディーに入手できる。
各館では、図書館や法大教授が所有する歴史的に貴重な史料も定期的に展示されている。また卒業生や各キャンパス所在地の周辺住民、山手線沿線私立大学図書館コンソーシアム加盟大学生も登録を行えば利用可能である(山手線沿線私立大学図書館コンソーシアム加盟大学生は市ケ谷館のみ利用可能、小金井と多摩の両館は利用不可)。
なお、1988年には小金井キャンパスの図書館長を工学部長が兼務することとなった。2004年4月1日には新たに図書館規程が制定され、規定により市ケ谷キャンパス図書館に3館を統括する館長が置かれるようになったほか、館長の所属しない他2キャンパスの図書館には副館長を置くこととなった。
大学総長を会長とした、法政大学の出版部に当たる一般財団法人。詳しくは法政大学出版局の項を参照。
詳しくは付属施設の項を参照。
全法大生が所属する組織で、法政大学総長を会のトップに置く。構成員は法政大学に在籍する全学生であるが、全ての大学公認団体・サークル・部活動も学友会に登録され、所属する。その他、幹部組織としての団体が少数所属する(以下の所属構成で挙げる団体以外にも数団体所属している)。学内で開催されるイベント等のほか、野球部が東京六大学野球で優勝した際に行われる優勝パレードも学友会が主催している。
法政大学の同窓・親睦会組織は「法政大学校友連合会」と呼ばれていた。2014年に一般社団法人化し法政大学校友会となった[176]。連合会は本部であり、その下にいくつかの組織が存在し、それらが集まって連合会全体を成している。連合会の入会資格は「学校法人法政大学」が設置している学校を卒業していることであり、大学以外(例えば法政大学高等学校)の卒業生でも所属可能である。
正式名称は法政大学学術機関リポジトリ。学内の教育成果や研究結果、研究論文などを電子化し、まとめた上で学外へ広く発信することを目的としており、2007年度から本格的に機能している。国立情報学研究所委託事業・次世代学術コンテンツ基盤の共同構築にも採択されている。学術雑誌の購読数の減少、それによって研究者が各々必要とする学位論文を読むことが困難になった現状、文部科学省「科学技術・学術審議会学術分科会、研究環境基盤部会、学術情報基盤作業部会」の報告などを背景として設立された。登録された教育成果や研究結果、研究論文等(同機関内では「知的生産物」と総称)は、Google・JAIRO・OAIster(ミシガン大学電子資料ポータルサイト)などから検索可能となっており、インターネット環境下の全ての人間を対象とした情報の無償公開を行っている。
登録されたデータはより多くの研究者達の目に留まりやすくなり、自らの研究結果を広範囲に発信できるほか、知の発信による社会貢献責務のある大学にとっても有意義なシステムであるとしている。
登録データは、それぞれ学術雑誌論文、学位論文、紀要、研究調査報告書、学会発表資料、レポート、プレプリント、図書、貴重書、教育資料、その他の合計11に分類される。
2006年4月に開設。通称アイジス。学部横断型の特別プログラムで、特定の対象学部学科に所属しながら卒業所要単位の6割に当たる76単位を、IGISが独自に設置する科目から履修、単位認定を受けることができる。2008年GIS(グローバル教養学部)設置に伴い、現在募集を停止している。
指定学部学科は以下の通り。
略称SSI。「スポーツに優れた者の特別推薦入学試験」による入学者の学ぶ環境をより充実させるためのプログラム。将来のスポーツ文化の担い手となる人材を育成する。多くの学部学科でSSI履修が認められており、履修を希望する学生は、各学部・学科によって定められた科目と同時にSSI科目を44単位以上履修することができる。学部・学科の枠を超えた科目履修を可能にするため、e-ラーニング・システムを利用した3キャンパスを結んだ遠隔授業が行われている。
2003年度より開講。法政大学では初めての学部横断文理融合科目。法政大学の3キャンパスとアメリカ、韓国とを双方向リアルタイム遠隔講義システムで結び、講義を行う。また、外国人教員担当の授業は全て英語で行われる。
2003年度に国際日本学研究所が開設したことに伴い、国際日本学の普及・教育を目的に開設された。入学した生徒は大学院の既存専攻を横断し「国際日本学インスティテュートコース所属」となる。当初は、人文科学研究科・政治学研究科・社会学研究科などの多研究科を横断する形であったが、2011年度より人文科学研究科内に置かれ、教育的充実を図っている。
「日本」像を国際的に、国内から発信するという目的のために、多数用意されている授業カリキュラムの中から専門に合わせて自由に履修し、自己の研究テーマを国際日本学的視点から深化させ、多角的・学際的な研究を行う。「日本」を客観的に見て、世界の諸文化と比較することによって、多角的視点に立ちながら研究したい、またはそのような研究テーマを持つ者、または日本の文化を世界に発信したいと考えている者、または日本の中でも独自の文化を育んできたアイヌ・琉球等を研究対象とする者などが入学する。国際日本学周辺を専門とする研究者を養成するほか、日本文化をより深く学ぼうとする留学生や、学び直しをする社会人のために、それぞれ一般入試とは別に試験を行うなどの機会を設け、様々なバックグラウンドを持つ人のために、広く門戸を開いている。
自主マスコミ講座(通称「自主マス」)は、1988年に当時社会学部の助教授だった稲増龍夫と大学の職員有志が中心となって始めた、マスコミ志願者向け講座である。マスコミ向け就職対策講座としては日本の大学で最も古い歴史を持つ。
受講するには大学内の選考試験に合格しなければならない。法政大学の正課ではないにもかかわらず、その倍率は3倍近くになる。現在は、法政大学の3年生が受講できるアナウンサーコース、新聞・報道記者コース、出版コース、放送コース、広告コースに加え、2年生が受講できる2年アナウンサーコース、2年基礎コース、1年生が受講できる1年基礎コースの8コースがある。2011年度から3年生は筆記試験がなくなり面接のみの試験となった。
2009年秋季より、2年生は、アナウンサーコース、新聞・報道記者コース、出版コース、放送コース、広告コースとコースごとへの募集と変更された。なお、コースごとに分かれての募集は秋季のみであり、春季は基礎コース(2年生)のみの募集である。
法政大学の資格取得支援として、エクステンションカレッジが設置されている。各種資格取得講座のほか、企業からの寄付講座やTOEFL・TOEICスコアアップ講座、英会話講座、コミュニケーション力養成講座、文章作成能力養成講座など多種多様な講義が存在する。
エクステンションカレッジは他大学の有料講座と同様に学外者も受講可能であり、法大生はもちろん、法大生の家族や他大学の学生、一般社会人などにも講座が公開されている。法大生に限らず、学生であれば特別優待料金で受講できるほか、一般人でも規定の条件を満たせば優待料金で受講が可能である。
詳細な協定大学名などは各項目を参照。
2024年1月現在、全部で50ヶ国270大学・機関と交流協定を結んでいる。詳しくは、海外交流協定大学・機関一覧 を参照のこと。
の各学部1 - 4年次。他に法政大学ボアソナード記念現代法研究所を置く。
デザイン工学部や大学院の校舎、研究室や研究所などの一部の大学施設、また法人施設は、富士見校地(本部キャンパス)内ではなく、その周辺に所在している。以下にまとめて記載する。
の各学部1 - 4年次。他に法政大学大原社会問題研究所を置く。
多摩キャンパスには食堂が10ヶ所存在している[209]。1号館食堂・16号館食堂以外は大学生協の運営であるが、それぞれ取り扱うメニューが異なっている。
この他にも多摩キャンパスでは大教室が多数あるため、それぞれ講演会等で利用されている。
の各学部1 - 4年次
キャンパスの他に以下の付属施設がある。セミナーハウスと体育施設などが占める。
体育会に所属する部活動は2009年現在、合計37部存在している。後述の「スポーツ」の項目でも触れるが、数多くの部が大会などで実績を上げている。その他、リーダー部・チアリーディング部・吹奏楽部から成る応援団と第二体育会に所属する部活動が14部存在する。
サークル活動においては大学登録サークル(公認サークル)が174[213]、非公認を含めると無数のサークルが存在している。3キャンパスそれぞれ独自に活動する団体もあれば、キャンパスを超えて活動を行っているサークルもあり、大会で優勝するなど実績を上げているサークルも少なくない。
戦後間もない頃から開催されている大学祭であり、半世紀以上の歴史を誇る。主催は全学生によって信任された自主法政祭実行委員会である。市ケ谷キャンパスの自主法政祭は東京六大学学園祭連盟に加盟している。
法政大学の学園祭が持つ最大の特徴は大学側の関与が少ない学生主催のものであるという点であり「自主」の二文字を冠しているのもこのためである。しかし、もともと「自主」と冠していたわけはなく、20 - 30年ほど前から学生主体の意味合いをアピールする意図で付けられたものである[214][215]。学園祭運営費用など大学からの助成や援助があり、そのため学生や実行委員会が大学本部と対立しているというわけではなく協力体制を敷いている。大学側の関与が少ないという点では早稲田大学の学園祭である「早稲田祭」と同様である。
自主法政祭は3キャンパスのうち市ケ谷キャンパスと多摩キャンパスで行われており、市ケ谷と多摩の実行委員会は別組織だが基本理念など根幹部分では共通する点も多い。また、この自主法政祭では学生の飲酒も自主性に任されており、過去に発生した泥酔による死亡事故の反省を踏まえ、自主法政祭実行委員と参加者双方による事故防止の啓蒙や学内の見回りが徹底されている。また市ケ谷キャンパスの法政祭では当日の警備に大学応援団も参加し、厳正に監視が行われている。しかし、学生の飲酒マナーに改善が見られないことから、現在では禁酒の措置が取られている。
自主法政祭実行委員会による厳しい審査により、各団体の企画場所等が決定される。そのためか市ケ谷キャンパスでは各学生の参加熱意が高く、ビラ貼り日にはより良い位置に貼ろうと学生が校内を走り回り、学内の壁がビラで埋め尽くされる。
市ケ谷・多摩の2つの学園祭は持つ役割や雰囲気がそれぞれ異なっており、多摩祭では広大なキャンパスを利用した「自然を生かし地域と連携した」祭りが、市ケ谷祭では学生の熱気が溢れかえる「学生文化発信の場」の意味合いを持つ。多摩キャンパスの学園祭では地域住民や家族連れなどが学生らと交流する微笑ましい光景も多く見られる。
旧麻布校舎で1953年から行われた「工学祭」がその起源である[216]。小金井キャンパスでは技術連盟や有志からなる「法政大学企画実行委員会」により、毎年11月上旬に3日間「小金井祭」が開催される。他の2キャンパスとは基本理念そのものが異なっており、一味違ったものとなっている。
多くの有志の学生達により構成された「オープンキャンパススタッフ」が運営管理、来場者の誘導、企画進行を担っている。毎年春にスタッフ募集の告知がされ、書類選考と面接を通過した学生がスタッフとして信任され、大学側と協力しつつ当日まで準備を進める。活動は毎週のミーティングなど、クラブやサークルとほぼ同頻度で活動している。模擬授業以外のほぼ全ての企画立案・製作・実行といった一連の流れや各校舎・フロアの備品設置なども学生スタッフに任されており、これだけ学生主体で運営されているオープンキャンパスは珍しいであろう。
毎年春、入学式から授業開始までの間に開催される。主に新入生を対象としたサークルや部活動などの説明会や勧誘行事が行われ、各団体がビラなどを配り新人確保を目指す。主催は自主法政祭実行委員会が兼任しており、大学側と協力し、ガイダンス後のサークル合同説明会や入学式が行われる日本武道館から市ケ谷キャンパスまでの新入生の誘導なども学生が行っている。
法政大学はこれまでに43万人以上[220] の人材を輩出しており、各界で多くの卒業生が活躍している。また、法政大学教授・准教授の中にはテレビの報道番組や情報番組等にコメンテーターとして出演している者や、各新聞社・出版社の記事に取材コメントを寄せている者も多い。東京六大学としての交流も深く、スポーツ界においては野球を筆頭に多くのアスリートを輩出しており、プロ野球選手をはじめ、オリンピック出場選手も多数輩出している。
千代田区との提携による「千代田学」研究の一つとして、「350年の歴史遺産・外濠の再生デザインと整備戦略」がある。
市ケ谷キャンパスに隣接する外濠公園の設置の経緯に法政大学は大きく関わっており、千代田区の資料にも「法政大学と外濠は切っても切れない深い関係がある」とまとめられている[221][222]。校歌にも「蛍集めむ門の外濠」の一節がある。現在でも上記の研究や授業・課外活動等の各方面で外濠・外濠公園との関係は続いている。
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