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ロシアの大学 ウィキペディアから
サンクトペテルブルク大学(ロシア語: Санкт-Петербургский государственный университет、ラテン文字表記の例:Sankt-Peterburgskij gosudarstvenij universitet)は、ロシア・サンクトペテルブルクにある国立大学。モスクワ大学と並ぶロシアの名門大学であり、帝政ロシア、ソ連時代を通じて、ロシアの教育、文化面で多大な役割を果たした。
Санкт-Петербургский государственный университет | |
ラテン語: Universitas Petropolitana | |
モットー |
Hic tuta perennat (この保護は続く) |
---|---|
種別 | 国立 |
設立年 |
1724年 1819年独立 |
学長 | ニコライ・クロパチェフ(Николай Кропачев) |
職員数 | 15000人 |
学生総数 | 39000人 |
学部生 | 32000人[1] |
所在地 |
ロシア サンクトペテルブルクСанкт-Петербург, 199034, Университетская наб., 7/9 |
キャンパス |
都市 郊外 |
公式サイト | spbu.ru |
1724年、ピョートル1世の命令によって設立された帝国科学アカデミー(現在のロシア科学アカデミー)を前身とする。1819年にアカデミーから分離され、独立した大学となった。ロシア最古の大学といわれているが、1755年創設のモスクワ大学を最古とする意見もある。
1861年には正規学生が1270人、非正規学生が167人所属しており、そのうち498人が最も大きな学部である法学部に所属していた。しかし1861年から1862年にかけて学生暴動がおき、2度も学校が閉鎖となった。学生の集会は警察に規制され、公共の言論は禁止され、多くの学生が退学になり、騒動の後の1865年には学生は524人しか残っていなかった。1869年に再び学生暴動がおきるが、以前のものと比べると小規模のもので、1869年には2588人が大学を卒業している。
第二次世界大戦時のレニングラード包囲戦の際、多くの学生と教員が餓えや戦闘、粛清により死亡した。しかし、1941年から1942年にかけてサラトフに学校機能を移転して学校教育は続けられた。1944年にソビエト連邦最高会議は、創立125周年の記念とそれまでの科学と文化への貢献を認めてレーニン勲章を授与した。
1940年代後半には、イデオロギーや反ユダヤ主義による粛清が強くなった。とくに1949年には何人かの主要な言語学の教授が愛国心のない世界主義者として糾弾され、学校を去らなければならなかった。そして戦後の冷戦時代、レニングラード大学に入学するユダヤ人には定員制限が存在し、それはペレストロイカまで続いた。また1949年から1950年にかけて、レニングラード事件の調査のために監獄にいれられた何人かの教授がそのまま死亡した。
1966年、数学と科学系の学部を郊外のペトロドヴァレーツ地区に移転することが決定した。移転作業は1990年代に完了した。
1969年、ソビエト連邦最高会議から労働赤旗勲章を授与された。
帝政時代にはサンクトペテルブルク大学(ペテルブルク大学)、第一次世界大戦勃発によりペテルブルクがペトログラードに改称したことに伴いペトログラード大学、ロシア革命によりジダーノフ記念レニングラード国立大学(レニングラード大学)となり、1991年の8月クーデターの後にサンクトペテルブルク国立大学になった。現在の正式名称はサンクトペテルブルク国立総合大学。ロシアでは通常СПбГУ(エス・ペ・ベ・ゲ・ウー、SPbGU)と呼ばれる。
1722年にピョートル1世の命令により建設されたロシア政府の合同庁舎。当時、12の省庁(Collegia、コレギア)があったためこう呼ばれた。現在は大学本館として使われている。市内で最も古い時代の建物のひとつ。詳しくは「en:Twelve Collegia」参照。
全部で24の学部があり、そのうち15の学部が都市部のワシリー島にある。選択できるのは通常の昼間課程の他に夜間部・通信講座・予科の課程で、学部課程・専門課程・修士課程・準博士課程・博士課程が用意されている。
規模や入試難易度などで有名な学部は法学部、数学・力学部、哲学部であり、特に法学部の卒業生には著名な政府要職者が多いことで有名である。したがって、ロシアで近年一番人気のある法学部はサンクトペテルブルク大学である[2]。サンクトペテルブルク大学法学部はモスクワ大学法学部と同じか、それ以上の高いプレステージがあると言われており、将来政府機関で働きたい学生からは特に人気がある。具体的な卒業生としてはウラジーミル・プーチン第2・4代大統領、ドミートリー・メドヴェージェフ第3代大統領、アレクサンドル・コノヴァロフ司法大臣、ドミトリー・コザク副首相、ヴィタリー・ムトコ観光スポーツ青少年政策大臣、アナトーリー・セルジュコフ国防大臣、ヴィクトル・エヴトゥホフ商工業次官、アレクサンドル・スミルロフ司法第一次官、エレーナ・ボルセンコ司法次官、ユーリ・アレクセイエフ内務次官などがおり、卒業生は現在のロシア政治エリートの主流派となっている。その他にも下院議員・州知事・検察官・憲法裁判所裁判官・ガスプロム役員など法学部卒業生は多分野で活躍している[3]。またロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが学んでいたのも、現在のサンクトペテルブルク大学法学部である。
その他にも、ロシアではピョートル大帝の時代からモンゴル、中国、チベットなどの文献の収集がおこなわれており、その東洋学研究が引き継がれた東洋学部は世界的な東洋学の研究機関として有名である。
また、経営学部所属のビジネススクール「Graduate School of Management」(GSOM)は、2005年にSkolkovo Moscow School of Managementと共にロシア連邦政府のリーディング・ビジネススクール優先育成プロジェクトに選ばれ、MBAの取得などでロシアでもっとも充実したビジネス教育環境が整備された。その結果、現在ロシア国内・全東ヨーロッパともにGSOMはビジネススクールランキングで1位[4]、世界全体で60位[5]となっている(ハーバード大学1位、復旦大学29位、ソウル大学56位、東京大学68位、モスクワ大学91位)。
尚、日本語教育が行われている学部は3学部あり、東洋学部、言語学部、国際関係学部がある。東洋学部と言語学部には日本人教師がいる。東洋学部では日本語を主専攻で学び、言語学部と国際関係学部では第二外国語として学んでいる。 このペテルブルク大学東洋学部支那・満州・蒙古学科の日本語講座は明治3年(1870年)にロシア外務省アジア局長ストレモウホフ(のち外相)が開設を提案した講座で、ストレモウホフは文久3年(1863年)に竹内下野守一行の幕府使節ではアジア局次長として、慶応2年(1866年)に樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使として外国奉行・小出秀実がロシアへ派遣された時は、アジア局長としてロシア側の全権として交渉した[6]。日本人講師の初代はロシア外務省の役人となった橘耕斎、その後を外務省勤務の西徳二郎、安藤謙介が引き継ぎ、初めて教師が本職である講師として黒野義文が教壇に立った。 東京外国語学校のロシア語学科最上級(第1期生)で日本最初の露語辞典『露和字彙』編纂にも関わった黒野義文は明治21年(1888年)から大正5年(1916年)までペテルブルク大学東洋学部支那・満州・蒙古学科の日本語講座で日本語を教え、『日露通俗会話篇』ほかロシア語で日本に関する本を十冊ほど執筆[7]、多くの日本学研究者を育て、欧米大学における日本学の土台を構築することになった。
学部課程および専門課程の入学試験は、原則として統一国家試験(Единый государственный экзамен (ЕГЭ))の結果により判断される。一部の専門的知識を前提とする学部ではЕГЭの代わりに独自の試験が設定されている。また、通常の入試の他に学生オリンピック優秀者や障がい者が別枠で入学できるシステムも存在する。学部・専門課程の2012年度の入学試験には40915人が出願し最終合格して入学したのは2884人であった(合格率7%、競争率約14.2倍)。出願者中、35630人が国費による入学希望者、5285人が私費による入学希望者である。2013年度の出願者は、44800人(国費希望者38900人)でありロシア全体の出願者が減少しているにもかかわらず前年度よりも7%増加している。もっとも人気のあったのは「人的資源管理」のプログラムで、競争率は72.4倍であった(大学新記録)[8] 。
QS世界大学ランキング2018-2019年度版では235位であり、モスクワ大学(90位)についでロシアで2番目の位置にある。
ロシア最多のノーベル賞受賞者(2013年時点で7人、モスクワ大学6人)を輩出した。
学術交流提携校は以下の通りである[9]。
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