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西暦1001年から西暦1100年までの100年間 ウィキペディアから
11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。
11世紀は、西アジアでトルコ系のイスラム王朝のガズニ朝やセルジューク朝の台頭が著しく、前者は北インドに侵入しインドのイスラム化の契機をつくり、後者は東ローマ帝国を打ち破って、小アジアにまで勢力を伸ばした。北アフリカのモロッコ近辺ではムラービト朝などベルベル人のイスラム王朝の台頭が始まって、レコンキスタを停滞させる一方、サハラ交易で繁栄したガーナ王国を滅ぼした。
東ヨーロッパでは東ローマ帝国が第一次ブルガリア帝国を征服してバルカン半島全土を回復して最盛期を迎えるが、11世紀後半に入ると衰退に転じ、国内の反乱やセルジューク朝、ノルマン人などの外敵に悩まされることになる。西ヨーロッパでは教皇権が伸長する一方、東西教会の分裂が起こっている。また、東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスが教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端で、十字軍の遠征が開始された。
東南アジア、南インドでは、1025年を境にシュリーヴィジャヤ王国が衰退し、チョーラ朝、クディリ王国が全盛を極めた。東アジアでは、北宋の経済的繁栄は続くものの、遼や西夏への歳幣の負担と社会的格差の進行が重くのしかかり、王安石の改革が始まった。
日本では平安時代中期から後期の初めにあたる。院政の開始以降を中世に区分する場合がある。11世紀の前半から中葉にかけては、藤原北家による摂関政治が全盛を極めたが、地方では国司苛政上訴が行なわれ、小領主の有力武士が台頭していた。名目的な寄進荘園に課税するなど税の公平さを保つために荘園整理令が行なわれたが、反面ここで公認された荘園はそれまでの公田の中に税の取得権が荘園領主にある農地が散在した形態から一円領域化してまとまった経営領域と化し、国衙に納税する公領と対等の権利主体としての地位を獲得する。ここで荘園と公領の領域などを巡る武力紛争が多発する事態となり、双方の現地管理人として武力紛争への対応能力のある武士が任命されることが多くなり、武士の在地領主化が進行した。11世紀の後半になると藤原氏の力が及ばない後三条天皇の親政が契機となり、院政がはじまった。院政は受領が紛争当事者となることで調停不能になった荘園公領間の紛争の調停者として権力を高め、また院自らも荘園領主として広大な荘園を集積した。こうして荘園と公領が併存して地方社会の統治単位となる荘園公領制はこの院政期を通じて発展していくことになる。
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