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平安時代中期の僧・文人。図書頭・三河守、従五位下、蔵人、徳明博士。出家。山村氏の祖 ウィキペディアから
寂照(じゃくしょう、応和2年(962年)頃? - 景祐元年(1034年))は、平安時代中期の天台宗の入宋僧・文人。参議大江斉光の子。俗名は大江定基(おおえ の さだもと)[1][2]。寂昭・入空[3]・三河入道・三河聖・円通大師とも称される[1]。
文章・和歌に秀で[4]図書頭・三河守を歴任、従五位下に至る。発心前は往生を願いつつも、狩猟をこととしていた[4]。
三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性[5]が亡くなったことから[6]、寛和2年(986年)6月[7]、寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し[4]、叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後横川で源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ。
永祚元(989年)年3月7日、朝廷に入唐の勅許を求め[8]、長保4年(1002年)6月18日、勅許を得ずに入宋のため旅立った[9][10]。但し、成尋が寂照は勅許を得ていたとしており、出発後に勅許を得たとみられる[11]。また出発前に、母の為に宝積寺で静照を講師として法華八講を修した。この時、500人以上の出家者が四面、垣をなした[4]。また、宝積寺の縁起によれば、同寺は、寂照が中興したという[12]。
長保5年(1003年・咸平6年)8月25日、寂照ら8人は肥前国より渡海し[13]、9月12日に明州へ着いた[14][11]。宋では蘇州の僧録司に任じられ、景徳元年(1004年)には、皇帝真宗に、日本の国号の刻まれた無量寿仏像を進上し、かわりに紫衣と円通大師の号を賜った[2][15]。また、天台山の知礼から源信の天台宗疑問27条への回答とその解釈をえた[2]。また、知礼に『大乗止観法門』や『法等三昧行法』などの経典をもたらした[16]。日本へ帰国しようとしたが、三司使の丁謂(ていい)の要請により、蘇州呉門寺にとどまった[2]。
とはいえ、日本とは手紙のやり取りがあり[17]、長和2年(1013年)から4年(1015年)には弟子の念救が帰朝し[18]、寂照・元燈・念救・覚因・明蓮ら5人の度牒の発行を求めた[19]。また念救は延暦寺に、天台大師智顗の影像・智顗の袈裟と如意・舎利壺をもたらした[20]。一方で、藤原道長から多数の布施を受けたほか、経論・諸宗の章疏・モクゲンジの念珠を送るように求められ、その購入資金・金100両を送られた[21]。
その後寂照は長元7年(1034年・景祐元年)に、日本に帰国する事がないまま杭州清涼山で没した[4][1]。豊川市西明寺に供養塔がある[22]。
子に香基がいたとされる。また、『寛永諸家系図伝』によれば、定基の後裔山村良道は近江国山村郷に住み山村氏を称した[23]。
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