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ドイツの都市 ウィキペディアから
ヒルデスハイム(Hildesheim)はドイツの都市。ニーダーザクセン州南部の都市であり、約10万3千人(2002年)の人口を有する。また、世界遺産に登録されている ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミヒャエル教会がある。
紋章 | 地図 |
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基本情報 | |
連邦州: | ニーダーザクセン州 |
郡: | ヒルデスハイム郡 |
行政区分: | 大規模独立市 |
緯度経度: | 北緯 52度09分 東経 09度57分 |
標高: | 海抜 78 m |
面積: | 92.96 km² |
人口: |
102,325人(2023年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 1,101 人/km² |
郵便番号: | 31101-31141 (旧: 3200) |
市外局番: | 05121 |
ナンバープレート: | HI |
自治体コード: | 03 2 54 021 |
市庁舎の住所: | Markt 1 31134 Hildesheim |
ウェブサイト: | www.hildesheim.de |
行政 | |
上級市長: | クルト・マーヒェンス (Kurt Machens) |
ブロッケン山などがあるハルツ山地の北方で、北ドイツ平原の南に位置する[2]。また、ヴェーザー川とエルベ川の間にもあたる[2]。
市街は古い町並みを見せ、郊外には金属・電機・ゴム・精密機械・化学などの工場が控える[3]。
近隣の都市としては、約40キロ北東にブラウンシュヴァイク、30キロ北北西にハノーファー[4]が位置する。
中世から近世にかけては聖俗両面で有力な都市であった[2]。また、学問の分野でも「中心地」と評される[5]。
フランドル地方とドイツ東部を結ぶヘルヴェーク(Hellweg)街道沿いの8世紀の商人集落とその南に建てられた大聖堂(Domburg)を中心に形成された。大聖堂は、815年頃 ルートヴィヒ1世によって設置されたヒルデスハイム司教座(司教区はマインツ首都大司教管区(Kirchenprovinz Mainz)の一部)の聖堂である。司教ベルンヴァルト(Bernward; 993-1022)および司教ゴーデハルト(Godehard; 1022-1038)の許で市域は東に発展し、1030年頃、上記東西に走る街道が バルト海に通じる南北に走る街道と交わる地点にアンドレアス教会(Andreaskirche)と新しい市場が造られた[6]。ヒルデスハイム司教はかねてからフルダ修道院長と確執があったが、1063年 ゴスラーでのハインリヒ4世臨席の 聖霊降臨祭のミサの最中には、教会の中で両者の配下の者たちが武器を振りかざして渡り合うという不祥事が引き起こされている[7]。
10世紀末から11世紀にかけてマインツ大司教とガンダースハイム帝国律院(Reichsstift Gandersheim)の所有をめぐって対立した。その後、司教区内の整備が進み、15世紀末には教会の数は334にまで達し、1500年頃の司教座教会主席助祭教区(Archidiakonat)は34と記録されている。司教は領邦君主としての支配を進め、王権の支援も得て大公(Herzog)のような地位を獲得した。1100年頃には、司教は周辺の伯たちを封臣(Lehnsleute)にし、自らのミニステリアーレらを伯たちの居城に配置した。1300年頃司教領は最大の拡大をみた。一方で司教の都市ヒルデスハイムでの影響力は後退した。司教領は周囲をヴェルフェン家の本拠地に囲まれていたのでブラウンシュヴァイク大公と対立した[8]。
歴代の司教はザクセン朝 ザーリアー朝 ホーエンシュタウフェン朝の王・皇帝とも深く結びついていた。また学問・芸術の奨励者でもあった。一方、都市ヒルデスハイムは1217年には市庁舎を有し、1236年には 参事会を置いている。1249年には都市の自治(Rechte der Stadt)が認められた。 13世紀から15世紀にかけて市の繁栄は頂点に達したが、毛織物の取引とビールの販売がその経済の中心を占めていた。1583年、市域(städtisches Gemeinwesen) 75,4 haに1万人が居住していた[9]。 15世紀・16世紀ドイツのハンザ都市を放浪するティル・オイレンシュピーゲルは、ある時ヒルデスハイムの豪商に料理人として雇われ、いたずらをしている[10]。
世俗化(Säkularisation)の後の司教領の人口は132000人を数えた。その後、1802年から 1807年まで司教領はプロイセンに、1807年から 1813年までヴェストファーレン王国(Königreich Westphalen)に、1813年以降 ハノーファーに属し、その状態で1866年にプロイセンに帰属した。1946年11月1日以降はニーダーザクセン州の一部となっている。ヒルデスハイム司教区は1992年/ 1994年ハンブルク大司教区(Erzdiözese Hamburg)に属している[11]。
1367年にはハンザ同盟に加盟した。第二次世界大戦で、歴史的建造物を含む街の多くが破壊されたが、現在までにその多くが再建され、かつての中世風の町並みも再現されている[2]。
文献に最初に見られる地名表記は、1004年の ≫Hiltenesheim≪ である。古いドイツ語の人名 ≫Hildin≪ あるいは ≫Hildini≪(「戦い」に関わる語)に由来するとされている[6]。一方、≫Hilduinesheim≪ という表記も伝わっている。これは、ヒルデスハイム司教区を設置したルートヴィヒ1世の王室礼拝堂主任司祭(Erzkaplan)を務めたヒルドゥイヌス(Hilduinus; イルドゥワン Hilduin)に因んだ表記かもしれない[12]。彼は826年ローマから聖セバスティアヌスの聖遺物を入手し、自身が修道院長を務めるソワッソンのサン・メダル(St-Médard)修道院にそれを奉遷して「大きなセンセーションを呼んでいた」人物である。彼はまた、パリ近郊のサン・ドニ修道院の院長でもあった[13]。一方、グリム兄弟『ドイツ伝説集』には、ルートヴィヒ1世による聖母教会建設に因むとする伝説が採り上げられている[14]。
1705年創刊の「ヒルデスハイマー・アルゲマイネ新聞」(Hildesheimer Allgemeine Zeitung)は2023年7月1日から世界最古の日刊紙となっている(それまでの世界最古の日刊紙は1703年創刊の「ウィーン新聞」Wiener Zeitung)[15]。
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