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日本の歴史学者 ウィキペディアから
阿部 謹也(あべ きんや、1935年2月19日[1] - 2006年9月4日)は、日本の西洋史学者[2]。専門はドイツ中世史[2]。中世ドイツ・ヨーロッパの民衆史を専門とし、伝説や生活史を検証する分野を開拓した。一橋大学名誉教授。上原専禄門下生で、一橋大学学長、国立大学協会会長をつとめた。
1935年、東京都千代田区で生まれた[1]。1941年に鎌倉第一国民学校(現・鎌倉市立第一小学校)に入学[1]。1947年に中野区立第五中学校に入学[1]。在学中の1949年に練馬区立石神井西中学校に転校。早くに父を亡くし、中学時代にカトリック修道生活を送った。1950年、東京都立石神井高等学校に入学[1]。
卒業後は、一橋大学経済学部に進学。修道生活の経験から西洋中世史の研究を志し、一橋大学では上原専禄に師事した。1958年に卒業し、一橋大学大学院社会学研究科に進んだ。上原の辞職により、大学院では増田四郎の指導を受けた[3]。1960年、修士課程を修了。1963年、博士課程を単位取得退学。
同1963年、日本学術振興会奨励研究員に採用された[1]。1964年、小樽商科大学講師に就いた[1]。1966年に助教授昇格[1]。1969年から1971年まで、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団助成金を得てドイツ連邦共和国(西ドイツ)ボン・ゲッティンゲンに研究留学。1973年、小樽商科大学教授に昇格。
1976年、東京経済大学教授に転じた[1]。 1979年、一橋大学社会学部教授に就いた[1]。1987年から1989年には、社会学部学部長を務めた。1992年12月、一橋大学学長に就任。2期に渡って学長を務め、1998年11月に退任した[1]。1999年3月に一橋大学を停年退職し、名誉教授となった。1999年4月からは共立女子大学学長(2002年まで)[1]。2000年からは共立女子短期大学学長もつとめた(2002年)。
在任中には、講師として東京大学文学部・教養学部・教育学部、東京外国語大学、千葉大学文学部、名古屋大学文学部、富山大学人文学部、東京都立大学、岡山大学教育学部、日本女子大学、藤女子大学、北星学園大学、札幌大学などでも教鞭をとった[1]。
最晩年は腎臓病を患い、人工透析を受けながら、研究執筆を続けた。2006年9月4日午後9時37分、急性心不全により東京都新宿区の病院で死去。71歳だった[4]。
専門とする西洋史における代表的な著書には『ハーメルンの笛吹き男』『刑吏の社会史』がある。他に『「世間」とは何か』など「世間」をキーワードに、個人が生まれない日本社会を批判的に研究し独自の日本人論を展開、言論界でも活躍した。著作は『阿部謹也著作集』としてまとめられており、筑摩書房から刊行されている。
『中世の再発見』での対談で、日本の中世民衆史研究に大きな足跡を残した網野善彦と出会い、意気投合。これをきっかけに家族ぐるみの付き合いとなった。その後も度々対談などで仕事をともにするなど、その親交は深かった。
指導学生には、黒川知文(愛知教育大学教授)[6]、土肥恒之(一橋大学名誉教授)[7]、薩摩秀登(明治大学教授)[8]、阪西紀子(一橋大教授)[9]、森宜人(一橋大教授)[10][11][12]などがいる。
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