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上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899年5月21日 - 1975年10月28日)は、日本の歴史学者。専門は中世ヨーロッパ史。東京商科大学学長(就任時は東京産業大学:現一橋大学)であり、戦後の一橋大学新制大学化にあたり指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学構想は別名を「上原構想」とも呼ばれている。学長退任後は構想の核となった初代一橋大学社会学部長を務めた。
1899年、京都市西陣にあった日蓮宗檀家の商家に生まれた。小学校3年から松山市大街道商店街の薬種商であった叔父の家に住む。旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1915年、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学した。その後、同校専攻部経済学科に進み、三浦新七の下で学び、1922年(大正11年)卒業した。尚、東京高等商業学校は、1919年に東京商科大学に昇格している。
その後、ウィーン大学に2年間留学し、アルフォンス・ドプシュ教授のゼミナールで、当時日本ではまだ珍しかった一次史料からの史料批判を行うヨーロッパ中世史研究の研鑽を積んだ。帰国後、1926年(大正15年)高岡高等商業学校(現・富山大学)教授に任じられた[1]。1928年(昭和3年)、東京商科大学教授となった[2]。1940年(昭和15年)、東京商科大学附属商業教員養成所主事、東京商科大学附属商学専門部主事[3]。一方で、横濱専門学校(現神奈川大学)に出講して、その草創期には経済史の講師をつとめた。
1946年(昭和21年)に高瀬荘太郎の後を継ぎ、東京産業大学(東京産業大学は戦時中東京商科大学から名称変更をよぎなくされた。上原就任中に東京商科大学へ名称再変更となる 現・一橋大学)学長に就任。新制一橋大学の設立に指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学化の核となった「社会科学の総合大学化構想」は別名を「上原構想」ともいわれている。また戦後初の学生公選により選ばれた学長でもある。
上原構想は、社会科学を総合的に扱う社会学部の設立が核となっており、学長退任後の1951年(昭和26年)に、初代一橋大学社会学部長に就任した。この間、小樽商科大学等でも教鞭をとる。また、日本教職員組合の国民教育研究所初代所長、国民文化会議議長、富山大学設置準備委員会委員等も務めた。
1959年(昭和34年)日米安全保障条約改定に反対し、清水幾太郎や家永三郎らとともに安保問題研究会を結成。翌1960年(昭和35年)、一橋大学を突如辞職した。同年10月国民文化会議会長を辞し、1964年(昭和39年)5月国民教育研究所研究会議議長も辞職。
1969年(昭和44年)4月27日の夫人の死を契機に、1971年(昭和46年)6月、息子の上原淳道や弟子達も知らない間に長女(国立音楽大学ピアノ講師)のみを伴い東京を退出し、宇治で「高島宗助」という偽名を使って隠遁生活を送る。大学退職後は日蓮の研究に傾倒する。1975年(昭和50年)10月28日、京都市西京区の京都桂病院で肺ガンと急性心不全によって76歳の生涯を終え、遺骨は長女により西方寺に埋葬されたと報じられた。その死は公表されず、1979年(昭和54年)6月16日死後3年8か月にして朝日新聞が発見し、記事にした。
上原専禄に関しては、下記「上原専禄に関する参考文献」のような論考が出ている。戦前から戦後に活動した歴史学者としての側面に加えて、哲学的な側面、そして戦前から戦後にかけての大学論、大学教育に与えた影響が論じられている。
『上原專祿著作集』(全28巻予定だったが、20巻分のみ刊)評論社、1987-2002年
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