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日本の仏教の宗派 ウィキペディアから
日蓮宗(にちれんしゅう)は、
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本節では、鎌倉仏教の宗旨日蓮宗/法華宗(≠宗教法人日蓮宗)の宗祖日蓮の教えの大要を紹介する。
日蓮が説いた本尊(大曼荼羅)・題目・戒壇を三大秘法として[10]、諸経の王と位置付けられる経典、妙法蓮華経(法華経)を釈迦の本懐にして最高無上としている。題目(南無妙法蓮華経)を唱えること(唱題)を重視している[11]。「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経(法華経)に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する[12]。
開祖である日蓮の主要著作『立正安国論』のタイトルから類推して、国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る者がいる[13]。
日蓮は、天台の教観二門(教相門・止観門)を教学の大綱とし、
などは天台教学を踏襲するとともに、「妙法蓮華経(法華経)の行者」としての自覚と末法観を基調とした独自性を示した[14]。しかし、日蓮の時代は末法であり、天台宗の宗祖の説いた法華経には衆生を救う力がないとされ、南無妙法蓮華経こそが肝心であるとされる[要出典]。
よく混同されるが、今日の宗教法人日蓮宗は身延山久遠寺を中心とする本迹一致派であり、大石寺を中心とする日蓮正宗及び日蓮正宗系新宗教の創価学会や冨士大石寺顕正会は本迹勝劣派に属し、全く別の系統である。創価学会とは小樽問答を越て、末縁もない。
日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしており、阿弥陀信仰、禅、密教の盛行によって邪法が広がっていると考えた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。そして法華経に説かれた
等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、元寇)を、日本において法華経が蔑ろにされてきた結果とみなした。
日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」・「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一の教義であり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった[15]。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた[16]。つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教義は法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした[16]。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的な関わりがみられる[17]。
日蓮は、天台教学を「迹門の妙法蓮華経(法華経)」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、自らの教義を本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした[16]。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。さらに、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである[16]。また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切否認する仏法絶対の立場に立った[16]。
思想面(本仏の位置付け[注釈 2]、妙法蓮華経の解釈[注釈 3])から、次のような分派(門流)が成立した[19][20]。
[[日蓮]] ┬ [[日昭]]門流(浜門流) --------------- 日蓮宗 ============= 釈尊本仏、[[一致派]]<ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120a">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20a-日蓮宗が一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> ├[[日朗]]門流([[比企谷門流]]・[[池上本門寺|池上門流]]) - 日蓮宗 ============= 釈尊本仏、一致派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979199a">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], p. 199a-日朗門流が一致派であるとしているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120a">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20a-日蓮宗が一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> │├[[日像]]門流([[四条門流]]) ----------- 日蓮宗 ============= 釈尊本仏、一致派<ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120a">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20a-日蓮宗が一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> ││├[[日隆門流]] ------------------- [[法華宗本門流|法華宗(本門流)]]、[[本門法華宗]]===釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979192,_199">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], pp. 192, 199-日隆門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE斎藤昭俊1988451a">[[#CITEREF斎藤昭俊1988|斎藤昭俊 1988]], p. 451a-ただし、日隆門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120b">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20b-日隆門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> ││├[[日真門流]] ------------------- [[法華宗真門流|法華宗(真門流)]] ========= 釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979199,_230">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], pp. 199, 230-日真門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120c">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20c-ただし、日真門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> ││└[[日奥]]門流-------------------[[不受不施派]]、[[不受不施日蓮講門宗]]=釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979199b">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], p. 199b-不受不施派、不受不施講門派が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref group="注釈">{{harv | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 20 }}や{{harv | 創価学会教学部 | 1968 | p = 146 }}には、一致とある。</ref> │└[[日静]]門流([[六条門流]])-----------日蓮宗=============釈尊本仏、一致派<ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120a">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20a-日蓮宗が一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> │ └[[日陣門流]] ------------------- [[法華宗陣門流|法華宗(陣門流)]] ========= 釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979191,_199a">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], pp. 191, 199a-日陣門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120d">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20d-ただし、日陣門流が勝劣派であることのみ。</ref> ├[[日興]]門流([[富士門流]])<ref group="注釈">小泉久遠寺(日蓮宗)、北山本門寺(日蓮宗)、洛中三条要法寺(日蓮本宗)は、日蓮本仏はあくまで富士門流派祖滅後に権力闘争や派閥原理主義から派生した異流教学であると退け、派祖日興の本義は釈尊本仏と主張している。一方、上条大石寺、下條妙蓮寺、讃岐本門寺、日向定善寺(以上、日蓮正宗)は、「開目抄」「諸法実相抄」「富士一跡門徒存知事」「五人所破抄」「日興遺戒置文」などの遺文を根拠に、宗祖本仏論を主張している。</ref> │├[[日目]]門流 ││ ├[[日郷]]門流 ││ │ ├[[小泉久遠寺]] ----------- 日蓮宗 ============= 釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE黒木報源2008482">[[#CITEREF黒木報源2008|黒木報源 2008]], p. 482-日蓮宗に属する九本門宗は、「興統法縁」でまとまっていると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> ││ │ └[[保田妙本寺]] ----------- [[単立]] ============== 日蓮本仏、[[勝劣派]]<ref group="注釈">[[保田妙本寺]]の項目には日蓮本仏勝劣派とある。</ref> ││ └[[日道 (大石寺)|日道]]門流([[大石寺|石山]]派)---------[[日蓮正宗]]============日蓮本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979205a">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], p. 205a-日蓮正宗が日蓮本仏論を採用していると記載。</ref><ref name="FOOTNOTE斎藤昭俊1988441a">[[#CITEREF斎藤昭俊1988|斎藤昭俊 1988]], p. 441a-日蓮正宗が日蓮本仏論を採用していると記載。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120e">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20e-日蓮正宗が勝劣派であると記載。</ref> │├[[日代]]門流([[西山本門寺|西山]]派) ------------- 単立 ============== 釈尊本仏、勝劣派<ref group="注釈">[[富士門流#教義|富士門流]]の項目には、釈尊本仏、勝劣派とある。</ref> │├[[北山本門寺|北山]]門流(談所派・大坊派) ----- 日蓮宗 ============= 釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE黒木報源2008482">[[#CITEREF黒木報源2008|黒木報源 2008]], p. 482-日蓮宗に属する九本門宗は、「興統法縁」でまとまっていると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> │└[[日尊 (日興門流)|日尊]]門流([[要法寺|要山]]派) ------------- [[日蓮本宗]] ============ 釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120f">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20f-日蓮本宗が勝劣派であると記載しているが、釈尊本仏には言及していない。</ref> │ └日蓮宗 ============= 釈尊本仏、一致派<ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120h">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20h-ただし、日蓮宗が一致派であることのみ。</ref> ├[[日向 (日蓮宗)|日向]]門流([[身延門流]]) ------------- 日蓮宗 ============= 釈尊本仏、一致派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979199c">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], p. 199c-日向門流が一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120a">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20a-日蓮宗が一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> └[[富木常忍|日常]]門流([[中山門流]])-------------日蓮宗=============釈尊本仏、一致派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979199d">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], p. 199d-日常門流が-一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120a">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20a-日蓮宗が一致派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref> └[[日什門流]]のうち[[京都妙満寺|妙満寺]] ------- [[顕本法華宗]] =========== 釈尊本仏、勝劣派<ref name="FOOTNOTE金岡秀友1979191,_199b">[[#CITEREF金岡秀友1979|金岡秀友 1979]], pp. 191, 199b-日什門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE斎藤昭俊1988442a">[[#CITEREF斎藤昭俊1988|斎藤昭俊 1988]], p. 442a-ただし、日什門流が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref><ref name="FOOTNOTE日蓮宗事典刊行委員会198120g">[[#CITEREF日蓮宗事典刊行委員会1981|日蓮宗事典刊行委員会 1981]], p. 20g-顕本法華宗が勝劣派であると記載しているが、日蓮本仏論には言及していない。</ref>
権力との距離という実践面[注釈 4] から、桃山時代末期より江戸時代にかけて
という区分も生じた。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常[要曖昧さ回避])などの門流にわかれ、たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた [21] 。
江戸時代に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった [22] 弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、寮ごとに「持ち寺」・「出生次第」・「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった [22] 。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。また1941年、旧・日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、各法類とも法類内の結束をはかり、2024年(令和6年)現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている [23]。
総本山━┓ 大本山━╋━┳━中本寺━┳━小本寺━━末寺③ 本 山━┛ ┗━末寺① ┗━末寺②
江戸期に檀林から発生した法縁であるが、最近では法音寺(愛知県)の進師法縁や龍潜寺(福岡県)の諦師法縁など檀林によらない法縁がある。おもな法縁は下記の通り。什師法縁(日什門流)については、日蓮宗と顕本法華宗、単立と分かれているため縁頭寺、出世寺については触れない。興統法縁(日興門流)の場合、日蓮正宗(総本山大石寺)や日蓮本宗(総本山要法寺)については本末制のみのため法縁はない。宗教法人・日蓮宗の内部で合同を維持している寺院は興統法縁会を組織し、かつて本門宗の宗務院が置かれた北山本門寺を縁頭寺としている。
大正時代、顕本法華宗の本多日生を牽引役として、門下各派による統合運動が展開された。
1914年(大正3年)には、日蓮門下7宗派[注釈 6] の管長が池上本門寺に集まって、「各教団統合大会議」を開催。1914年(大正3年)12月、「日蓮門下統合後援会」が組織された。翌1915年(大正4年)6月、一致派の日蓮宗が離脱したのを除く、勝劣派の6宗派[注釈 7] の統合が成立した。また、1917年(大正6年)、門下合同講習会が開催され、1917年(大正6年)11月には統合修学林を開校するにいたった[25]。
この時期には門下の9宗派[注釈 8] による、宗祖日蓮への「大師」号の授与運動が展開され、1914年(大正3年)11月にいたり、宮内省より日蓮にたいする「立正大師」の諡号宣下が行われた[25]。
身延山久遠寺 | 中山法華経寺 | 京都妙満寺 | 京都妙満寺末約200か寺 | 京都妙満寺末180か寺 | 北山本門寺とその末36か寺、伊豆実成寺、京都要法寺末34か寺、保田妙本寺末9か寺ほか | 京都要法寺とその末50か寺 | 京都要法寺末30か寺 | 宮崎県内日郷門流8か寺 | 宮崎県内日郷門流1か寺 | 日向妙国寺 | 西山本門寺 | 保田妙本寺 | 日知屋山定善寺 | 下条妙蓮寺とその末6か寺 | 讃岐本門寺 | 富士大石寺 | 越後本成寺 | 京都本隆寺 | 京都本能寺 | 大阪本因妙寺 | 福島正福寺 | 京都妙蓮寺 | 宥清寺 | 岡山妙覚寺 | 岡山本覚寺 | 最上稲荷 | 清澄寺 | 石塔寺 | ||
1872年 (明治5年) |
日蓮宗 | 1872年 (明治5年) | ||||||||||||||||||||||||||||
1874年 (明治7年) |
日蓮宗一致派 | 日蓮宗勝劣派 | 1874年 (明治7年) | |||||||||||||||||||||||||||
1876年 (明治9年) |
(名称変更) | 日蓮宗妙満寺派 | 日蓮宗興門派 | 法華宗本成寺派 | 法華宗本隆寺派 | 日蓮宗八品派 | 日蓮宗不受不施派 | 1876年 (明治9年) | ||||||||||||||||||||||
1882年 (明治15年) |
日蓮宗 | 日蓮宗不受不施講門派 | 1882年 (明治15年) | |||||||||||||||||||||||||||
1898年 (明治31年) |
(名称変更) | (名称変更) | (名称変更) | (名称変更) | 1898年 (明治31年) | |||||||||||||||||||||||||
1899年 (明治32年) |
顕本法華宗 | (名称変更) | 法華宗 | 本妙法華宗 | 本門法華宗 | 1899年 (明治32年) | ||||||||||||||||||||||||
1900年 (明治33年) |
本門宗 | 日蓮宗富士派 | 1900年 (明治33年) | |||||||||||||||||||||||||||
1912年 (明治45年) |
(名称変更) | 1912年 (明治45年) | ||||||||||||||||||||||||||||
1941年 (昭和16年) |
日蓮宗 | 本化正宗 | 1941年 (昭和16年) | |||||||||||||||||||||||||||
1946年 (昭和21年) |
中山妙宗 | 日蓮宗 | 法華宗 | 本門佛立宗 | 妙法華宗 | 日蓮講門宗 | 1946年 (昭和21年) | |||||||||||||||||||||||
1947年 (昭和22年) |
1947年 (昭和22年) | |||||||||||||||||||||||||||||
1948年 (昭和23年) |
日蓮宗 (日蓮宗什師会) | 1948年 (昭和23年) | ||||||||||||||||||||||||||||
1949年 (昭和24年) |
顕本法華宗 | 日蓮宗(真言宗智山派より帰属) | 1949年 (昭和24年) | |||||||||||||||||||||||||||
1950年 (昭和25年) |
日蓮本宗 | 日蓮正宗 | 本門法華宗 | 1950年 (昭和25年) | ||||||||||||||||||||||||||
1951年 (昭和26年) |
本化日蓮宗(日蓮宗より独立) | 1951年 (昭和26年) | ||||||||||||||||||||||||||||
1952年 (昭和27年) |
法華宗陣門流 | 法華宗真門流 | 法華宗本門流 | 日蓮法華宗 | (名称変更) | 1952年 (昭和27年) | ||||||||||||||||||||||||
1954年 (昭和29年) |
日蓮宗不受不施派 | 最上稲荷教(日蓮宗より独立) | 1954年 (昭和29年) | |||||||||||||||||||||||||||
1957年 (昭和32年) |
日蓮宗(興統法縁会、島根尊門会) | 大日蓮宗 | 日蓮正宗 | 日蓮正宗(のちに無効 | 本派日蓮宗 | 1957年 (昭和32年) | ||||||||||||||||||||||||
1958年 (昭和33年) |
日蓮宗郷門派 | 1958年 (昭和33年) | ||||||||||||||||||||||||||||
1972年 (昭和47年) |
1972年 (昭和47年) | |||||||||||||||||||||||||||||
1975年 (昭和50年) |
単立 | 1975年 (昭和50年) | ||||||||||||||||||||||||||||
1976年 (昭和51年) |
1976年 (昭和51年) | |||||||||||||||||||||||||||||
1989年 (平成元年) |
1989年 (平成元年) | |||||||||||||||||||||||||||||
1995年 (平成7年) |
単立 | 1995年 (平成7年) | ||||||||||||||||||||||||||||
2006年 (平成18年) |
日蓮宗 | 2006年 (平成18年) | ||||||||||||||||||||||||||||
2009年 (平成21年) |
日蓮宗 | 2009年 (平成21年) | ||||||||||||||||||||||||||||
身延山久遠寺 | 中山法華経寺 | 京都妙満寺 | 京都妙満寺末約200か寺 | 京都妙満寺末180か寺 | 北山本門寺とその末36か寺、伊豆実成寺、京都要法寺末34か寺、保田妙本寺末9か寺ほか | 京都要法寺とその末50か寺 | 京都要法寺末30か寺 | 宮崎県内日郷門流8か寺 | 宮崎県内日郷門流1か寺 | 日向妙国寺 | 西山本門寺 | 保田妙本寺 | 日知屋山定善寺 | 下条妙蓮寺とその末6か寺 | 讃岐本門寺 | 富士大石寺 | 越後本成寺 | 京都本隆寺 | 京都本能寺 | 大阪本因妙寺 | 福島正福寺 | 京都妙蓮寺 | 宥清寺 | 岡山妙覚寺 | 岡山本覚寺 | 最上稲荷 | 清澄寺 | 石塔寺 |
身延山久遠寺を総本山とし、宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)に置く日蓮系諸宗派中の最大宗派。中世期に成立していた門流の多くと、思想的潮流の相当部分を包含する。祖山1(総本山)、霊跡寺院14(大本山7、本山7)、由緒寺院42(本山42)、寺院数5,200か寺、直系信徒330万人。
なお、日什門流・日興門流は、門流に所属する寺院の一部が日蓮宗に帰属している[注釈 23]。詳細は日蓮宗什師会・興統法縁会を参照。
2024年(令和6年)現在の宗教法人・日蓮宗は、中世期よりそれぞれ独自の伝統を育んできた勝劣派、一致派の様々な門流が参加しており、本尊や儀式などの面で、形式的な統一を行わず、様々な形式が許容されている[独自研究?][注釈 25]。
寺院の本堂に祀られる本尊には、次のような形式がある。
いずれの形式の場合でも、本尊の前に、さらに日蓮座像、法華経八巻を乗せた経机を前置する。
檀信徒の各家庭における仏壇では、奥から手前へ順番に大曼荼羅・一塔両尊・日蓮座像を配置し、場合によってその両脇に七面天女・鬼子母神・大黒天・妙見菩薩など法華経守護の諸天・善神を祀る[注釈 26]。
現在の宗教法人・日蓮宗に属する諸寺では、以下の神々について、「法華経守護の諸天・善神」として境内摂社、堂内堂を設けて祀ったり、檀信徒に神札を授与する事例が広く見られる[独自研究?][注釈 27]。
現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は1941年(昭和16年)の本末解体で消滅し実態はないが、日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている。
祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊跡寺院は日蓮一代の重要な事跡、由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する[注釈 38]。
祖山、霊跡寺院、由緒寺院は「日蓮宗全国本山会」を組織している。総裁は身延山久遠寺内野日總法主、会長は北野立本寺上田日瑞貫首、事務局長は堺妙國寺岡部日聡貫首。
本山妙教寺は2009年(平成21年)7月に一般寺院として日蓮宗に帰一したが、客員として長らく日蓮宗全国本山会に参加している為、その他本山としてあげておく。
※ 1941年(昭和16年)三派(旧・日蓮宗、旧・顕本法華宗、旧ろ本門宗)合同時の本山は以下の通り
東京都大田区池上1-32-15、本門寺敷地内に所在する。
※ 日蓮宗の行政府。現在の内局は以下の通り。
日蓮宗の立法府。選挙区選出の43名に参与推薦の2名を加えた45名で構成されている。 会派として同心会、明和会がある。現在[いつ?]の宗会議員は以下の通り。
※ 選挙区、氏名、住職寺院、会派の順。
1253年 (建長5年) 4月28日、日蓮が朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱えたのを始まり(立教開宗)とする。中世・近世における自称は法華宗であり [135]、ことに中世において日蓮宗は蔑称と捉えられる向きもあった[136]。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする[137]。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した [138][139]。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、日蓮宗一致派初代管長[140])らの活動で、身延山久遠寺(山梨・身延門流)、長栄山本門寺(東京池上・比企谷門流)、正中山法華経寺(千葉・中山門流)、具足山妙顕寺(京都・四条門流)、大光山本圀寺(京都・六条門流)、妙塔山妙満寺(京都・什門流)、長久山本成寺(越後・陣門流)を七大本山とする制度を実施した。しかし、これに京都要法寺を始めとする興門派及び八品派[注釈 39] や一致派本山から異論が噴出する。教部省に訴えた結果、七本山の企ては頓挫し[注釈 40]、管長は一致派・勝劣派に拘らない年番交代となった。
その後1874年 (明治7年)3月、宗教行政の無理さや教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれたため、管長も各派別におくこととなる[141][137]。前者は一致派全門流の合同教団となり、身延山久遠寺の新居日薩が初代管長に就任した[注釈 41]。
1875年(明治8年)3月、 日蓮宗一致派は、派名を廃し単称日蓮宗とする名称変更を、政府へ請願する。 同門他派を踏まえ一度は却下されるも、再三の働きかけにより、 1876年(明治9年)2月、政府はこれを承認した[138]。
対して勝劣派は分裂・解体し、一致勝劣二派制は崩壊[142]。分裂後にも「日蓮宗」を冠する勝劣派も現れ始めるようになるが[3][138]、後に「日蓮正宗」「顕本法華宗」などと名を改め、大半が「日蓮宗」を名乗らなくなる[143][144]。
大正時代の門下統合運動は、「学林」( = 僧侶の養成機関)問題により一致派の日蓮宗が離脱し、また勝劣派による統合も6宗派の個々の自律性を残すものであった。
日蓮宗系宗教団体である国柱会の田中智学は、日蓮思想と国家主義を融合させた日蓮主義を唱え、布教活動を展開し、石原莞爾をはじめとして第二次世界大戦の勃発に影響を与えた。日蓮への「立正大師」の大師号授与以降は、「愛国者日蓮」のイメージが形成されていく[145]。日蓮の思想には、現実に仏国土を成立させるという思想があり(娑婆即寂光)、これが急進的な行動による世界変革を目指す活動に結びついた[146]。
1932年(昭和7年)には井上日召率いる血盟団により血盟団事件が発生し井上準之助と團琢磨が暗殺され、1933年(昭和8年)にはかつて日蓮宗の急進派僧侶であった江川桜堂が結成した「日蓮会殉教衆青年党」による死のう団事件が発生して世間を騒がせた。1936年(昭和11年)には2・26事件が発生するが、この理論的指導者として処刑された北一輝は佐渡出身の日蓮の信奉者であった[147]。
1939年(昭和14年)4月、宗教団体を戦争協力させることを目的として制定された「宗教団体法」[注釈 42][注釈 43] は、"統合運動"の様相を一変させることとなる。
この法律は仏教・神道・キリスト教の各宗教に対し、教団を国家権力下に管理するため宗派合同を求めるものであり、そして1940年(昭和15年)9月、同法第5条[注釈 44][148] を根拠として、政府は神道・仏教・キリスト教の各宗教界代表を招集。1941年(昭和16年)3月末日までに各宗派の自主的合同を終えるよう通達した[149]。
この通達を受け、1940年(昭和15年)12月、本門法華宗・法華宗・日蓮宗・本妙法華宗・顕本法華宗・本門宗・不受不施派・講門派 の日蓮門下八派が出席する門下合同準備会の第一回委員会 (委員長は日蓮宗の柴田一能) が開かれる。委員会は合同に賛成し、宗名・教義・本尊は特別委員会で決めることとなった。その後、3カ月間で、教義や管長推戴について比較的似通った主張をする宗派で合同する方向にまとまる。特別委員の苅谷日任が本迹問題から合同に反対したこともあって八派全ての合同はならず、1941年(昭和16年)3月、日蓮宗第37宗会は、日蓮宗・顕本法華宗・本門宗が各教団解散の上で対等合併する三派合同を承認し、宗名を日蓮宗とすることが決められた[149][150][注釈 45]。
三派合同が成ったものの、戦後には再び分派の動きが激しくなり、次々と分派教団が結成されることとなった。
この現状を憂いたのが国柱会の田中香浦で、日蓮が「立正安国論」を上書し700年となる1959年(昭和34年)に「世にあまた存在する聖祖門下教団がここに大同団結し、『立正安国論献諫』の意義をひろく世に顕彰する大会を盛大に開催し、もって御報恩に資すべきである」と提唱、日蓮を宗祖と仰ぐ11教団が賛同し「日蓮聖人門下懇話会」を結成した。1960年(昭和35年)には「日蓮聖人門下連合会」となり現在に至っている。日蓮聖人門下連合会は宗派の統合を目指すものではなく、「異体同心」として互いを認め合い緩やかに連携してゆく組織である。
連合会には法華宗本門流など勝劣派も含まれるが、日蓮正宗の関係は改善されておらず、日蓮正宗系の各宗派やその信徒団体を発祥とする創価学会などは加入していない。
寺院の離脱や復帰・改宗については以下の通り。
1953年(昭和28年)
1957年(昭和32年)
1959年(昭和34年)
1960年(昭和35年)
1963年(昭和38年)
1964年(昭和39年)
1965年(昭和40年)
1968年(昭和43年)
1972年(昭和47年)
1975年(昭和50年)
1981年(昭和56年)
1984年(昭和59年)
1986年(昭和61年)
2009年(平成21年)
2010年(平成22年)
2011年(平成23年)
2012年(平成24年)
2014年(平成26年)
2016年(平成28年)
2017年(平成29年)
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