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京都市上京区にある寺院 ウィキペディアから
本法寺(ほんぽうじ)は、京都市上京区本法寺前町にある日蓮宗の本山(由緒寺院)の寺院。山号は叡昌山。本尊は三宝尊。塔頭が3院ある。
寺伝によれば、永享8年(1436年)に日親が本阿弥本光(清信)の帰依を得て建立した「弘通所」が始まりであるという[1]。当初は東洞院綾小路(現・京都市下京区)にあったという[2]。後に本阿弥家の菩提寺となっている。
法華行者として強い信念をもつ日親は、永享11年(1439年)に室町幕府第6代将軍足利義教の屋敷へ赴き、庭中へ直訴し諌暁を図る。足利義教に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と説いたのである。驚いた幕府は諌暁を禁止した。それでも日親は諦めることなく、身命を賭けた諌暁書「立正治国論」を著したために足利義教の怒りを買った。それにより、永享12年(1440年)2月に日親は投獄され、本法寺は焼かれてしまった。日親は地蔵ヶ原にて拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたとされ「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」などと呼ばれた。翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が赤松満祐に殺されたことにより赦免され、本法寺は康正年間(1455年 - 1457年)に四条高倉で再建された。
しかし、寛正元年(1460年)に日親が肥前国で布教したことが罪とされ、再び本法寺は破却された。寛正3年(1462年)11月に日親は細川持賢邸で禁錮となるが、翌寛正4年(1463年)には赦されて三条万里小路(さんじょうまでのこうじ、現・中京区三条柳馬場)に本法寺を再建している[3]。
天文5年(1536年)に本法寺は洛中の他の法華系寺院とともに天文法華の乱で焼失し、堺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本法寺は一条堀川に再建された。
本法寺10世・日通の時、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命により現在の地に移転し、本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂宇の建立・整備が行われた。また、日通は絵師長谷川等伯と交友があり、等伯が塔頭・教行院を宿舎としていたため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。
江戸時代には後水尾天皇や紀州徳川家の庇護を受けている。中山法華経寺(現・千葉県市川市)の輪番にあたる上方三山の一つでもあった。
天明8年(1788年)の天明の大火により、経蔵と宝蔵を残して全て焼失したが、本堂は寛政9年(1797年)に再建されている。
塔頭はもとは34院あったとされる。幕末頃の文久3年(1863年)時点では蓮光院、興徳院、真蔵院(明治時代初期に綴喜郡へ移転し現在まで存続)、本養院、十乗院、興造院、執行院、大雲院、興雲院、玉樹院、寿量院、法昌院、玉昌院、信教院、教学院等の17院が確認できるが、明治時代初期の廃仏毀釈によって大半が廃寺とされた。
仁王門の正面には裏千家今日庵がある。
現住は96世瀬川日照貫首(千葉県柏市妙照寺より晋山)。親師法縁縁頭寺。
典拠:2000年までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
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