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神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の本山 ウィキペディアから
妙本寺(みょうほんじ)は、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。池上法縁五本山の一つ。[注釈 2]
妙本寺 | |
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祖師堂(市指定有形文化財)[1]
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所在地 | 神奈川県鎌倉市大町1-15-1 |
位置 | 北緯35度19分3.3秒 東経139度33分20.9秒 |
山号 | 長興山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | 霊跡本山 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 文応元年(1260年) |
開山 | 日蓮[注釈 1] |
開基 | 比企能本 |
文化財 | 銅造雲版(重要文化財)ほか |
公式サイト | 日蓮宗霊跡本山 比企谷妙本寺 |
法人番号 | 3021005001978 |
妙本寺のある谷戸は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があった。比企能員は源頼朝に仕えた有力御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となって一幡を生むなど、源将軍家とは深い関係を有した。その結果、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようになった。建仁3年(1203年)に頼家が病気で倒れると、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で、後継争いが勃発した。能員は密かに頼家と北条氏討伐を謀るが、これを事前に察知した北条氏によって名越で謀殺される。比企一族は比企谷の谷戸に籠って戦うが敗北し、一族郎党は屋敷に火を放って自害した(比企能員の変)。その際、若狭局は井戸(一説には池)に身を投げ、一幡は戦火の中で死んだと伝えられている。
ただ一人生き残った能員の末子(後の能本)は助命され、和田義盛に預けられた後に安房国に配流となった。成人の後には京都に上り順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると佐渡まで供をしたといわれている。更にその後、彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘・鞠子。寺伝では媄子)が4代将軍・九条頼経の御台所とになったことから、許されて鎌倉に帰った。しかし、文暦元年(1234年)に竹御所が難産の末に男子を死産し、そのまま本人も死去した。その際に、持仏であった釈迦如来像を祀るための釈迦堂の建立を遺言したという。この遺言を承け、嘉禎元年(1235年)に比企谷に新釈迦堂が建立され、竹御所はその下に葬られた。寛元元年(1243年)、比企一族の出身といわれる仙覚が新釈迦堂の住持となり、寛元4年(1246年)には頼経の命により万葉集諸本の校訂を成し遂げた[3]。 その後建長5年(1253年)、能本は鎌倉を訪れた日蓮に帰依、文応元年(1260年)には、父・能員と母の菩提を弔うべく新たに法華堂を建立し寄進した。その際に、日蓮が父に「長興」母に「妙本」の法号を授けたことから、寺号を「長興山妙本寺」と定めたと伝わっている。なお、日蓮没後には六老僧の一人・日朗が継承し、以後、比企谷妙本寺を本拠として長谷山本土寺や長栄山本門寺等を管轄した。このことから日朗門流は「比企谷門流」と呼ばれ、この3ヶ寺を併せて「朗門の三長三本」[注釈 3]と称された。
このように比企谷門流にとって三長三本は重要な拠点であったが、本土寺は遠く離れていた事から3世以降に専従の住持が置かれたのに対し、妙本寺と本門寺は昭和16年(1941年)まで1人の住持が2ヶ寺を管轄する「両山一首制」によって護持されていた。更に、天正19年(1591年)に両山12世・佛乗院日惺が徳川家康の江戸入府に伴い本門寺に本拠を遷した為、貫首不在となった妙本寺には別当職に相当する「司務職」を置き比企谷全山を総理統監させた。なお歴代司務職には妙本寺の本院・本行院の住持が就任する慣わしとなった。[注釈 4] 門流の本拠が池上に遷ったとはいえ妙本寺と本門寺が同格であることに変わりはなく、最盛期には院家塔頭2院16坊を擁し、直末寺は比企谷池上両山併せて165カ寺、朱印領1貫500文を有する大寺として隆盛を極めた。その後、天保13年(1842年)には天保の改革にて廃寺となった感応寺の本堂の解体部材と厨子が遷された。この時運び込まれた解体部材は祖師堂下に貯蔵されていたが、明治8年(1875年)1月10日に発生した大火により身延山久遠寺が灰燼に帰した際に、久遠寺祖師堂再建の為にこの部材が使用された。昭和16年(1941年)に両山一首制から一山一首制に移行し、平成16年(2004年)には由緒寺院から霊跡寺院に昇格した。
現住は82世・鈴木日敬貫首(東京都墨田区法性寺より晋山)
此地ハ比企谷新釈迦堂 即 将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原賴經ノ室ナル竹御所夫人ノ廟アリシ處ニテ當堂ノ供僧ナル權律師仙覺ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ 今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適ニ堂ノ須弥壇ノ直下ニ當レリ 堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム 西方崖下ノ窟ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ 悉シクハ萬葉集新考附録萬葉雑攷ニ言ヘリ / 昭和五年二月 宮中顧問官 井上通泰 撰 / 菅虎雄 書 / 鎌倉町青年團 建碑
夕日いざよふ妙本寺、法威のあとを弔へば、芙蓉の花の影さびて、我世の末をなげくかな。法よ、おきてよ、人の子よ、時の力をいかにせん、永劫の神またたきて、金字玉殿いたずらに、懐古の客を誘ふかな。梢の鳩の歌ふらく、ありし昔も今も尚ほ、夕日いざなふ妙本寺、芙蓉の花は美なるかな。
鎌倉の地たる洵に聖地なるかな 宗祖この山に憩ひこの町に叫びこの海より流さる 潮音耳を打てば今猶此経難事の聲あり 街衢塵を揚ぐれば杖木瓦石の響きあり 嗚呼この地を過ぎこの地に住む者其れ 宗祖當年の忍苦を偲び粛然奮然 信仰を増進せよや
日蓮宗は1941年(昭和16年)に本末を解体したため、現在では、旧本山・旧末寺と呼びならわしている。この内、直末寺11ヵ寺及び大乗山薬王寺と本院である妙本寺を併せた13ヵ寺が「鎌倉朗師講」として比企谷門流の伝統を継承している。
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