「安房」の名称と由来
『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は、東国により良い土地を求め阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという[2]。また、『古語拾遺』の説のほか、『日本書紀』景行天皇53年10月条の東国巡狩の折の淡水門に因むとする説もある[3]。
現在の行政区分での領域
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、千葉県の南部の地域が旧安房国に該当する。
沿革
律令制以前のこの地域には、阿波国造と長狭国造の2つの国造が置かれていた。律令制において令制国である上総国の一部となり、養老2年5月2日(718年6月4日)、上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を分けて安房国とした[2]。国造は「阿波」の表記であり、藤原京出土木簡に「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦699年)とあるなど、郡(評)の表記にもゆれがあるが、これに先立つ和銅6年(713年)の好字令で南海道の「粟国」が「阿波国」に変更されており「安房」の表記となった。天平13年12月10日(742年1月20日)に上総国に合したが、天平宝字元年(757年)に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランクされる[2]。
国府は現在の南房総市府中付近に置かれ、古代末期から中世にかけて丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏などの武士団が活動し、平安時代末期には源頼朝の再起の地となる。鎌倉時代の守護は不明。室町時代の守護には結城氏、上杉氏が就いた。15世紀半ば頃より里見氏が台頭し、戦国期には安房統一を果たして上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。
豊臣秀吉による小田原城攻め以後は、安房一国が里見氏の領地となった。関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の慶長19年(1614年)に里見忠義が大久保忠隣改易に連座して伯耆国倉吉に転封。その後は、東条藩、勝山藩、北条藩、館山藩などの諸藩と、幕府領・旗本領が置かれた。村数は280ヵ村(天保期)。明治2年(1869年)安房では勝山、館山の2藩に、新たに長尾藩、花房藩の2藩が置かれた。この地の幕府領・旗本領は安房上総知県事・柴山典の管轄となり、翌年に宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、安房4郡の約5万6千石を管理した。明治4年(1872年)、廃藩置県によって木更津県に編入され、明治6年(1874年)木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。明治30年(1897年)には安房国4郡が統合されて、千葉県安房郡に再編された。
明治以降の沿革
国内の施設
国府
国分寺
神社
- 安房郡 安房坐神社 - 名神大社。
- 比定社:安房神社(館山市大神宮)
- 安房郡 后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社) - 式内大社。次の2社は元々2社一体か[5]。
- 比定論社:洲崎神社(館山市洲崎、北緯34度58分4.93秒 東経139度45分29.66秒)
- 比定論社:洲宮神社(館山市洲宮、北緯34度57分9.29秒 東経139度50分18.53秒)
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[5]。
- 総社:鶴谷八幡宮(館山市八幡、北緯35度0分18.86秒 東経139度52分0.00秒) - 元社は元八幡神社(南房総市府中、北緯35度0分43.05秒 東経139度53分21.11秒)。
- 一宮:安房神社(館山市大神宮、北緯34度55分20.77秒 東経139度50分12.04秒)
洲崎神社(館山市洲崎)を一宮、洲宮神社(館山市洲宮)を二宮とする説もあるが、これは「洲の神」を祀る神社として2社一体であった洲崎神社・洲宮神社の間での呼称と見られている[5]。
安国寺利生塔
- 安国寺 - 仏日山安国寺(鴨川市北風原、本尊:聖観世音菩薩)が継承。
- 利生塔 - 未詳。
駅
いずれも律令時代の駅。
馬牧
城館
湊・津
- 保田湊
- 勝山湊
- 那古湊
- 北条湊
- 八幡湊
- 正木湊
- 白子湊
- 和田湊
- 磯村湊
- 余瀬湊
- 天津湊
- 小湊
地域
古代-中世
郡と荘園
中世-近世
安房国の藩
郡と村
石高
- 95736
人口
- 1721年(享保6年) - 11万5,579人
- 1750年(寛延3年) - 15万8,440人
- 1756年(宝暦6年) - 13万7,565人
- 1786年(天明6年) - 12万5,052人
- 1792年(寛政4年) - 13万836人
- 1798年(寛政10年)- 13万3,513人
- 1804年(文化元年)- 13万2,993人
- 1822年(文政5年) - 13万9,662人
- 1828年(文政11年)- 14万830人
- 1834年(天保5年) - 14万4,581人
- 1840年(天保11年)- 13万9,442人
- 1846年(弘化3年) - 14万3,500人
- 1872年(明治5年) - 15万4,683人
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
人物
国司
安房守
守護
鎌倉幕府
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室町幕府
- ? - 1337年 - 斯波家長
- ? - ? - 南宗継
- ? - ? - 鵤木氏
- 1363年 - 1368年 - 上杉憲顕
- 1369年 - 1385年 - 結城直光
- 1388年 - 1390年 - 上杉憲方?
- 1395年 - 1396年 - 結城直光
- ? - 1416年 - 木戸満範
- 1423年 - ? - 上杉定頼
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武家官位・官途名としての安房守
- 平頼綱
- 上杉憲定
- 上杉憲基
- 上杉憲実
- 右田弘詮(1518年 - )従五位下
- 留守景宗
- 鮎ヶ瀬実光
- 織田信時
- 庵原忠胤
- 臼杵鎮続
- 北条氏邦 従五位下
- 里見義頼 従五位下
- 太田資武
- 真田昌幸(天正7年〈1580年〉 - )従五位下 *文禄3年〈1594年〉正式任官
- 里見義康(天正19年〈1591年〉 - )従四位下
- 堀内氏善
- 松平信吉(慶長8年〈1603年〉 - )
- 本多政重(慶長20年〈1615年〉6月3日 - )従五位下
- 箭田野義正
- 伊達成実
- 伊達宗実
- 佐久間勝豊 従五位下
- 松平信嵩 従五位下
- 松平信将(享保17年〈1732年〉12月28日 - )従五位下
- 松平昌信 従五位下
- 松平信圭 従五位下
- 勝海舟(文久3年〈1864年〉2月5日 - )従五位下
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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