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古代朝鮮および古代日本の行政区画 ウィキペディアから
評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位である。日本では7世紀後半に各地で置かれたが、701年以降は「郡」に改められた。
『日本書紀』は大化の改新(645年)の時に郡が成立したと記すが、実際に郡が用いられるのは大宝律令(701年)制定以降であり、それ以前は評を使っていた文書(木簡類)が見つかっている[1]。
平安時代に書かれた『皇太神宮儀式帳』[2]に「難波朝天下立評」という文言[3]があり、大化の改新直後の孝徳天皇の時代に「評」という制度が導入されたと記されており、発掘された金石文にも「評」を使っているものがあることから、こうした事実は古くから知られてはいた。
ところが、『日本書紀』には一貫して「郡」と表記されていた。これについて昭和26年(1951年)に井上光貞が大化改新で導入されたのは「評」だったという説を唱え、これに対して坂本太郎が日本書紀の記す「郡」こそが正式な名称で「評」は異字体に過ぎないとしてこれを否定した。この両者による論争は改新の詔の記事の信憑性や『日本書紀』編纂時の修飾説(原典史料の表現を編纂当時の表現に書き改めた部分があるという見解)などと絡んで長い間議論されてきた。
しかし、藤原宮などの発掘によって大宝律令制定以前に書かれた木簡の表現は全て「評」と記されており、逆に「郡」表記のものが存在しないことが明らかとなった。このため、今日では大宝律令制定以前は「評」と表現される地方行政組織が存在したと考えられている。
その後、大宝律令の制定によって「評」は「郡」に改められることになるが、単に名前が変わっただけではなく、その際に統合・分割などの再編成が行われていたとも考えられている。
ただし、史料が少なく、その実態については諸説が分かれている。まず「立評」(評の設置)時期については『常陸国風土記』の説により大化5年(649年)あるいは白雉4年(653年)と考えられているが、全国一斉に行われたものなのか、地域差があったのかについて意見が分かれている。因幡国の豪族伊福部氏に伝わる『伊福部系図』には、大化2年(646年)に初めて水依評が設置されたという記述が存在する。和気氏系図、和邇部氏系図、田島氏系図、阿蘇氏系図、金刺氏系図、尾張氏系図[4]、千家氏系図[5]、土方君系図[6]に評督の記述がある。
また、従来の国造が廃止あるいはそのまま評に移行されたのか、それとも国造などの支配に属していない朝廷支配地を対象として導入されたのかについても意見が分かれている。
さらに、木簡や金石文などから評の長官を評督(ひょうとく、こおりのかみ)・次官を助督(じょとく、こおりのすけ)を置き、その下に評史(ひょうし、こおりのふひと)などの実務官がいたという考えが有力だが、これとは別に『常陸国風土記』などには評造(ひょうぞう、こおりのみやつこ)という呼称も登場する。これを評督・助督と関連づける説(前身説や総称説、助督の置かれない小規模評の長官職説など)や既存の国造と関連づける説(後身説や評督を出す国造以外の有力豪族説など)があり、統一した見解が出されていない。
なお、中国正史には、高句麗に「内評・外評」(『北史』・『隋書』)、新羅に「琢評」(『梁書』)という地方行政組織があったことが記されており、『日本書紀』継体天皇24年(530年)条にも任那に「背評(せこおり)」という地名が登場することから、新井白石[7]・本居宣長[8]・白鳥庫吉[9]らは、「評」という字や「こほり(こおり)」という呼び方は古代朝鮮語に由来するという説を唱えていた。また金沢庄三郎は日本語と朝鮮語が同系であると考えて「こおり」を「大きな村」という意味の古代日本語という説を唱えている[10]。なお、三国史記の地名一覧には「評」の地名はなく、高句麗の「忽」が「こおり」に近いと考えられている。
発掘結果から「評」と表現される地方行政組織が存在したとは確実であるが、『日本書紀』や『万葉集』では一貫して「郡」となっており「評」については一切記されていない。『日本書紀』や『万葉集』では故意に「評」を「郡」に置き換えてあることが明らかになったがその目的や理由については判っていない。
八木充は、飛鳥浄御原令で評を郡とすることが定まったが、浄御原令は一律に実施されたものではない不完全なものだったため、『万葉集』に天皇を「大王」と表記する例が見られるのと同じように、大宝律令の頃まで評表記が残ったと主張した[11]。
「評」は、国造のクニを分割・再編しながら、大化・白雉年間(645~654年頃)に全国的に実施されたと推測されている。それまで国造や県主だったり、部民や屯倉を管理していた地方豪族のうち、有力者が評家(こおりのみやけ)を建て、評の官人(評造・評督・助督)となった。
木簡・文献・出土瓦などにおいて存在が確認できる主な評を以下にまとめる。
国名 | 評名 | 郡制施行後の郡名 | 備考 | 典拠 |
---|---|---|---|---|
大倭国(倭国) | 所布評 | 添上郡・添下郡 | ||
忍海評 | 忍海郡 | |||
高市評 | 高市郡 | 『富士大宮司系図』 | ||
葛城評 | 葛上郡・葛下郡 | 『望月系図』『神別系譜』 | ||
阿久奈弥評 | 「飽波評」とも。後の平群郡飽波郷か[19]。 | 正倉院黄絁幡残片墨書[19] 法隆寺幡銘[19] | ||
山背国 | 弟国評 | 乙訓郡 | 「乙訓評」とも[注釈 1]。 | |
川内国 | 川内評 | 河内郡 | ||
石川評 | 石川郡 | 『皇胤志』 | ||
高安評 | 高安郡 | |||
丹比評 | 丹比郡 | |||
志貴評 | 志紀郡 | 『金剛場陀羅尼経』写経 | ||
飛鳥評 | 安宿部郡 | 鳥坂寺跡出土線刻平瓦[20] | ||
津国 | 三島上評 | 島上郡 | 『寺井系図』 | |
伊賀国 | 奈波利評 | 名張郡 | ||
伊勢国 | 朝明評 | 朝明郡 | 「朝」の字は欠損。 | |
安怒評 | 安濃郡 | |||
飯高評 | 飯高郡 | |||
猪名部評 | 員弁郡 | |||
河曲評 | 河曲郡 | 「河」の字は欠損。 | ||
三重評 | 三重郡 | |||
飯野評 | 飯野郡 | 『大同本記』逸文 | ||
多気評 | 多気郡 | 『大同本記』逸文 | ||
度会評 | 度会郡 | 『大同本記』逸文 | ||
三川国 | 青見評 | 碧海郡 | ||
飽海評 | 渥美郡 | |||
鴨評 | 賀茂郡 | |||
各田評 | 額田郡 | |||
波豆評 | 幡豆郡 | |||
穂評 | 宝飯郡 | |||
尾張国(尾治国) | 海評 | 海部郡 | ||
年魚市評 | 愛智郡 | 『尾張宿祢田島氏系譜』 | ||
春部評 | 春部郡 | |||
尓破評 | 丹羽郡 | 「尓皮評」「迩波評」とも。 |
『鷲津系図』 | |
知多評 | 智多郡 | 「知田評」とも。 | ||
羽栗評 | 葉栗郡 | |||
山田評 | 山田郡 | |||
遠水海国 | 荒玉評 | 麁玉郡 | ||
渕評 | 敷智郡 | |||
長田評 | 長上郡 | |||
城飼評 | 城飼郡 | 「紀甲評」とも。 | 『土方系図』 | |
駿河国 | 珠流河評 | 駿河郡 | ||
伊豆国 | 鴨評 | 賀茂郡 | ||
売羅評 | 那賀郡入間郷売良里か[21]。 | |||
甲斐国 | 山梨評 | 山梨郡 | 『古屋家系譜』『辻家文書』 | |
无耶志国(无射志国) | 玉評 | 多摩郡 | 『卜部系図』 | |
仲評 | 那珂郡 | |||
横見評 | 横見郡 | |||
大里評 | 大里郡 | 藤原宮跡出土瓦片[22] | ||
前玉評 | 埼玉郡 | 「前」の字は一部欠損。 | 藤原宮跡出土瓦片[22] | |
荏原評 | 荏原郡 | 无射志国荏原評銘文字瓦[23] | ||
上捄国 | 阿波評 | 安房郡 | ||
馬来田評 | 望陀郡 | |||
下捄国 | 印波評 | 印旛郡 | 『印波国造系図』『門山家系図』 | |
常陸国 | 石城評 | 石城郡 | 『常陸国風土記』 | |
近淡海国 | 浅井評 | 浅井郡 | 「阿佐為評」とも。 | |
伊香評 | 伊香郡 | |||
衣知評 | 愛智郡 | |||
栗太評 | 栗太郡 | 『小槻宿祢系図』 | ||
坂田評 | 坂田郡 | |||
安評 | 野洲郡 | |||
三野国 | 厚見評 | 厚見郡 | ||
安八麻評 | 安八郡 | |||
刀支評 | 土岐郡 | |||
大野評 | 大野郡 | |||
各牟評 | 各務郡 | |||
加尓評 | 可児郡 | |||
加毛評 | 賀茂郡 | |||
不破評 | 不破郡 | |||
ム下評 | 武芸郡 | 「ム」は「牟」の異体字。 | ||
山方評 | 山県郡 | |||
科野国 | 伊那評 | 伊那郡 | 「伊奈評」とも。 | |
諏訪評 | 諏訪郡 | 『金刺氏系図』 | ||
上毛野国 | 車評 | 群馬郡 | ||
大荒城評 | 邑楽郡 | 飛騨国荒城郡との説あり。 | ||
碓日評 | 碓氷郡 | |||
佐位評 | 佐位郡 | 「佐為評」とも。 | 『上毛野佐位朝臣姓生形家系』 | |
下毛野国 | 芳宜評 | 芳賀郡 | ||
奈須評 | 那須郡 | |||
若狭国 | 三方評 | 三方郡 | 「三形評」とも。 | |
小丹評 | 遠敷郡 | |||
越国(高志国) | 与野評 | 江沼郡 | 那谷金比羅山窯跡群出土須恵器平瓶刻書銘[24] | |
利波評 | 砺波郡 | 「利浪評」とも。 | 『越中石黒系図』 | |
新川評 | 新川郡 | |||
入評 | 丹生郡 | |||
旦波国 | 伊看我評 | 何鹿郡 | ||
竹野評 | 竹野郡 | |||
加佐評 | 加佐郡 | |||
熊野評 | 熊野郡 | |||
与射評 | 与謝郡 | |||
多貴評 | 多紀郡 | |||
二方評 | 二方郡 | 但馬国所属の可能性あり。 | ||
因幡国 | 水依評 | 法美郡・邑美郡 | 後に高草評を分割。 | 『因幡国伊福部臣古志』 |
高草評 | 高草郡 | |||
波伯吉国 | 川村評 | 河村郡 | ||
出雲国 | 出雲評 | 出雲郡 | ||
楯縫評 | 楯縫郡 | |||
大原評 | 大原郡 | |||
神門評 | 神門郡 | 木簡は一部欠損。 | ||
隠岐国 | 依地評 | 隠地郡 | ||
次評 | 周吉郡 | |||
海評 | 海部郡 | |||
知夫利評 | 知夫郡 | |||
播磨国 | 粒評 | 揖保郡 | ||
神前評 | 神埼郡 | |||
宍粟評 | 宍粟郡 | |||
志加麻評 | 飾磨郡 | |||
佐由評 | 佐用郡 | |||
加毛評 | 賀茂郡 | |||
備前国 | 大伯評 | 邑久郡 | ||
吉備道中国 | 賀賜評 | 賀夜郡 | 「加夜評」とも。 | |
浅口評 | 浅口郡 | |||
小田評 | 小田郡 | |||
下道評 | 下道郡 | |||
後木評 | 後月郡 | |||
備後国 | 神石評 | 神石郡 | ||
周方国 | 佐波評 | 佐波郡 | ||
熊毛評 | 熊毛郡 | 大隅国熊毛郡の可能性あり。 | ||
讃岐国 | 多土評 | 多度郡 | ||
紀伊国 | 氷高評 | 日高郡 | 『続日本紀』 | |
阿波国 | 板野評 | 板野郡 | ||
長評 | 那賀郡 | |||
三間評 | 美馬郡 | |||
麻殖評 | 麻殖郡 | |||
伊予国(伊余国) | 宇和評 | 宇和郡 | 「汙和評」とも。 | |
風早評 | 風早郡 | |||
久米評 | 久米郡 | |||
湯評 | 温泉郡 | |||
小市評 | 越智郡 | 「小千評」とも。 | 『河野家譜』 | |
竺志前国 | 嶋評 | 志麻郡 | ||
糟屋評 | 糟屋郡 | 京都妙心寺鐘銘[25] | ||
夜津評 | 夜須郡 | |||
豊後国 | 久須評 | 球珠郡 | ||
日向国 | 久湯評 | 児湯郡 | ||
衣評 | 頴娃郡 | 『続日本紀』 | ||
肥後国 | 阿蘇評 | 阿蘇郡 | 『阿蘇氏系図』 | |
所属国不明 | 笠評 | 丹後国加佐郡もしくは備中国の笠国造に関連か[26]。 | 法隆寺旧蔵弥勒菩薩像銘[26] | |
三野評 | 讃岐国三野郡・石見国美濃郡・備前国御野郡が候補となる。 | |||
山ア評 | 「ア」は「部」の異体字。 | 福岡市井尻B遺跡出土瓦[27] | ||
豊評 | 福岡市井尻B遺跡出土瓦[27] | |||
大評 | ||||
駅評 | 駅家の前身を指すか。 | |||
馬評 | 伊予国宇摩郡あるいは駅評と同義で駅家の前身か。 | 岡山県立博物館所蔵須恵器 | ||
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