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日本の歴史書・神話 ウィキペディアから
『日本書紀』(にほんしょき、やまとぶみ[1]、やまとふみ[2])は、奈良時代に成立した日本の歴史書。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる[3]。日本に伝存する最古の正史で[4]、六国史の第一にあたる。神典の一つに挙げられる[5]。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた[6]。
『日本書紀』は全30巻、系図1巻(系図は現存しない)からなり、天地開闢から始まる神代から持統天皇代までを扱う編年体の歴史書である。神代を扱う1巻、2巻を除き、原則的に日本の歴代天皇の系譜・事績を記述している。ただし神功皇后など天皇とはされていない人物を1巻全体で取り扱う9巻や、事実上壬申の乱の記述に全体を費やす28巻などの例外も含む。全体は漢文で記されているが、万葉仮名を用いて128首の和歌が記載されており[注 1]、また特定の語意について訓注によって日本語(和語)で読むことが指定されている箇所がある[7]。このような漢文中に現れる日本語的特徴、また日本語話者特有の発想による特殊な表現は現在では研究者によって和習(倭習)と呼ばれている[8][9]。『日本書紀』は伝統的に純漢文(正格漢文)の史書として扱われる場合が多いが、この和習を多々含むためその本文は変格漢文(和化漢文)としての性質を持つ[10]。
太歳を用いた干支紀年、和歌の採録数の多さ、分註の多さなどは後世『日本書紀』に続いて編纂された日本の正史、いわゆる六国史の他の書籍と比較した場合際立って目立つ『日本書紀』の独特な特徴である[11]。また、『日本書紀』は単独の人物ではなく、複数の撰者・著者によって編纂されたと見られ、この結果として全体の構成は不統一なものとなっている。このため近代以降においては各巻の様々な特徴によってグループ分けを行う区分論が盛んに研究されている[12]。編纂にあたっては多様な原資料が参照されており、その中には日本(倭)の古記録の他、百済の系譜に連なる諸記録(百済三書、百済で実際に作成されたものであるかどうかは不明)、『漢書』『三国志』(「魏志」「呉志」)などの中国の史書が参照されている[13]。特に百済を中心に朝鮮諸国の事情、対外関係史について詳しく記述していることも独特の特徴である[14]。
歴史記録としての『日本書紀』は、古代日本の歴史を明らかにする上で中核をなす重要な史料であり、東アジア史の視点においても高い価値を持つ史書である。ただし、あらゆる史料と同じように、歴史記録として『日本書紀』を利用する際には、厳格な史料批判を必要とする[注 2]。日本の学界では、『日本書紀』の史料批判の研究は分厚い積み重ねがあり、編纂にあたって語句の修正が行われていること[注 3]、編纂時の知識を古い時代に投影していること(例としては評を参照)などを始めとして、歴史記録・文学作品としての『日本書紀』の性質の多様な面が明らかにされているが、今もなお不明瞭な点も数多く残っており、熱心な研究が続けられている。
『日本書紀』は日本の現存最古の「正史」とされるが、その編纂までには日本における文字の使用と歴史的記録の登場の長い歴史があった。日本(倭)における歴史(即ち過去の出来事の記憶)についての記録として、まず言及されるのは「帝紀」(大王家/天皇家の系譜を中心とした記録)と「旧辞」(それ以外に伝わる昔の物語)である[17]。これらは津田左右吉が「継体・欽明朝(6世紀半ば)の頃に成立した」と提唱して以来、様々な議論を経つつも、「元々は口承で伝えられていた伝承が6世紀にまとめられたもの」と一般的には考えられている[18][19][20]。さらに、文字に残された系譜情報を「史書」として見るならば、雄略朝(倭王武、ワカタケル大王、5世紀後半)にはその種のものが存在していたことが稲荷山鉄剣銘の存在によってわかる[21]。
こうした歴史の記録には、書記官の存在が不可欠である。日本における文字の使用が渡来人によってもたらされたことも含めて、日本の修史事業は朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。日本では5世紀後半から6世紀にかけて、倭王権の下に史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる書記官が登場する[22]。彼ら、フミヒトの多くは渡来人によって構成され、人的紐帯に基づいて倭王権に仕える形態からやがて欽明朝期の百済からのフミヒトの到来を経て制度化されて行った[23]。「帝紀」「旧辞」がまとめられていったとされる時期がこの欽明朝にあたると考えられ、同時期には朝鮮半島において百済と競合する新羅でも修史事業が進められていた[23]。
「書かれた歴史」を編纂する修史事業の記録は推古朝に登場する。『日本書紀』によれば皇太子(聖徳太子、厩戸皇子)と嶋大臣(蘇我馬子)の監修で推古28年(620年)に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』がまとめられた[24]。推古朝の修史事業はこれらの史書が現存しないことや聖徳太子という伝説的色彩の強い人物と関連した記録であること、具体的な経緯などの情報に乏しいことなどから実態が必ずしも明らかではない[25](これらはいわゆる「国史」に分類されるようなものではなかったとする津田左右吉の見解や、それに反論する坂本太郎の見解など[26])。しかし、推古朝において日本における修史事業が始められたことは当時の東アジアの潮流と軌を一にする[27]。上に述べた新羅の修史事業は真興王6年(545年)に「国史」をまとめたものであり、高句麗は嬰陽王11年(600年)に『新集』と呼ばれる史書を撰述している[28][注 4]。百済については修史事業の具体的な記録は残っていないが、『三国史記』の記述からは近肖古王(在位:346年-375年)代以来、何らかの「記録」があったことがうかがわれる[29]。
これらの諸国の修史事業は4世紀以来、国家体制の構築や中華王朝との関係の変化の時期に行われており、外交上の必要性を重要な要因として行われたものであったと見られる。このことは恐らく日本(倭)の推古朝の修史も同様であった[29]。後に中国大陸を統一した唐は外国からの朝貢使の受け入れにあたり国情聴取を制度として実施していた。実際に日本の遣唐使の使節が「日本国の地理及び国初の神名」を問われたことが『日本書紀』の記録に見え、このような外交の場のやりとりは、各国に自国の成り立ちを意識させることになったであろう[22]。推古朝に入り、日本は唐に先立つ隋への遣使(遣隋使)を始め、中華王朝との外交関係の構築に手をつけている。唐の場合と同じく、隋代の外交の場でもこのようなやり取りが必要であり、対外交渉を通じて日本は「自国史」を意識するようになっていった。こうして推古朝において修史が開始されたと考えられる[22]。
『日本書紀』の記録によれば、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)において中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによって蘇我本宗家が滅ぼされた際、蘇我蝦夷は私邸に火を放って自害した。この時、蝦夷の私邸に保管されていた 『天皇記』『国記』も珍宝と共に焼かれたが、『国記』は船史恵尺によって火の中から取り出され中大兄皇子に献上されたとされる(皇極天皇4年6月13日条)。 これに関連する情報は『新撰姓氏録』の序文にもあり、『国記』が焼かれたために各氏の出自が失われ偽る者も現れたが、船史恵尺が焼かれようとする『国記』を奉ったとある[30]。しかし、これらの伝承が事実であったとしても、『国記』は『天皇記』と同じくに現代には伝わっていない。
『古事記』が序文において編纂の経緯について説明するのに対し、『日本書紀』には序文・上表文が無く編纂の経緯に関する記述は存在しないため、いつ成立したのか『日本書紀』それ自体からはわからない[31]。『日本書紀』の成立について伝えるのは8世紀末に完成した歴史書『続日本紀』であり、養老4年(720年)5月癸酉条に次のようにある。
先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷
以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した[注 5]。
ここから、『日本書紀』の成立は養老4年(720年)とするのが一般的である。しかし『続日本紀』の記述は簡潔であるため、いつから編纂が始まり、どのような経緯を経て完成に至ったのか確認することはできない[32]。このため現代の学者は『日本書紀』の内容に基づいてその具体的な経緯を推定している。
歴史学者坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に天皇が川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという『日本書紀』の記述を書紀編纂の直接の出発点と見た[33]。21世紀初頭現在でもこの見解が一般的である[24][34][35]。 なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり[注 6]、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原資料の1つであったとする説を出している[36]。
高寛敏は、『日本書紀』編纂の出発点は天武記定本にあるが、それを具体化したのは、701年の大宝律令の完成と704年の国名表記の改定からであり、これによって初めて、『日本書紀』編纂の基本理念と歴史叙述に不可欠な地理的表現が確定したと考察した[37]。また、天武年間から704年までの間は、史料の蒐集期間であり、まず天皇は皇帝=周辺の藩屏国から朝貢される存在とされ、それを事実化するために朝鮮関係資料が必要となり、旧伝や天武賜姓に絡む異伝、それに民間伝承なども参照されなければならず、それらの個別的で断片的な史料は、律令の理念に沿うように手を加えられ、固有名詞もできるだけ統一されたが、それが分注などに引用された一書であると考えられる[37]。
また、645年の乙巳の変が『日本書紀』にも藤原氏の『藤氏家伝』にも伝えられているが、この2つは藤原不比等が父の中臣鎌足を顕彰するために、また『日本書紀』の史料として8世紀初めまでに書いた「原家伝」に基づいて書かれたと考えられるとした[37]。
加えて、高寛敏は、『日本書紀』、『藤氏家伝』はともに「三韓進調」「三韓表文」の語を用いているが、「三韓」とは「原家伝」にあった言葉であり、逆に「原家伝」以外の原本にはこの語は見えず、「三韓」の語は、隋唐時代に朝鮮三国を指して用いられ、7世紀後半には新羅でも用いられていることから、不比等は新羅使と積極的に接触しており、三韓一統の功臣である金庾信についてよく知っていたため、不比等は、金庾信と武烈王の逸話を用いて、鎌足と中大兄皇子間の話に換骨奪胎し、「三韓」の語を借りて乙巳の変の舞台を作ったとした[37]。
そして、以上の点から、不比等は『日本書紀』編纂の全般に関わったと考えられ、『日本書紀』編纂のリーダーは舎人親王であるが、実際の責任者は不比等であり、不比等は自ら携わった大宝律令の理念を『日本書紀』で歴史化したと主張した[37]。
なお、『続日本紀』和銅7年(714年)2月戊戌条に記された詔によって紀清人と三宅藤麻呂が「国史」の撰に加わったとする記事が存在しているが、『続日本紀』文中に登場するもう一つの「国史」登場記事である延暦9年(790年)7月辛巳条に記された「国史」が『日本書紀』を指し、かつ『続日本紀』前半部分の編纂の中心人物であった菅野真道本人に関する内容であることから、菅野真道が「国史」=『日本書紀』という認識で『続日本紀』を編纂していたと捉え、紀・三宅の両名が舎人親王の下で『日本書紀』の編纂に参加したことを示す記事であると考えられている[38]。加えて、『続日本紀』は、元々は全30巻で編纂されていたものが途中で全20巻に圧縮された結果、原稿から相当の記述が削除もしくは省略された後の姿が現在の『続日本紀』になったと考えられている。このため、本来ならば記述されるべき舎人親王が『日本書紀』の編纂責任者となった経緯を示す記事や完成時に天皇に出された筈の上表文、完成後に行われた筈の編纂関係者への褒賞に関する記事も圧縮のために省略されて簡略な記述になってしまったとみられている(これは、『続日本紀』に『古事記』に関する記述が全くない一因になったと考えられている)[39]。
『日本書紀』の書名については古くから議論が重ねられている。これは元々の書名についての議論で、主として『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説が存在する。このような議論が生じた理由は近代以前の史料において『日本書紀』がしばしば『日本紀』と呼ばれていること、そして『続日本紀』を始めとした後の六国史が「日本紀」を書名に取っていることにある[40]。さらに、『日本書紀』の書名に違和感を覚える者は承平年間(931年-938年)には既に存在していたと見られ、『釈日本紀』に引用された私記には書名を巡る問答が記録されている[41]。『釈日本紀』においては、『後漢書』が帝王の事績を「書紀」、臣下の事績を「書列伝」という名でまとめているので、『日本書紀』はそれに倣ったのであるとされている[41]。しかし、坂本太郎の指摘によれば現存する『後漢書』には上記のような区分を採用している事実はない[41]。近世以降の学説について、以下に坂本太郎のまとめに拠って各説の概要を示す。
『日本書紀』は元々『日本紀』だったという見解は江戸時代に伴信友が唱え、その後20世紀に入るまで通説として扱われた説である。その論拠は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に「書」の文字がなく日本紀と記載があること、以後の日本の国史が『続日本紀』『日本後紀』のように「日本紀」の名を取っていることにある[42][43]。しかし、元々の名前が『日本紀』ならば、なぜ後世に「書」字が加えられて『日本書紀』となり、さらにはこの新しい名前の方が正式な名前として扱われるに至ったのかが説明し難いこと、『万葉集』注釈などの奈良時代の書籍や『日本後紀』のような平安時代初期の書物にも「日本書紀」の用例が見えることなどから、近代以降見直しが進められた[40]。「書」字の追加について、国文学者折口信夫は日本では中国の『漢書』『後漢書』に倣い、『日本書』が構想されたという見解を出した[41]。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。従って折口は、『日本書』の一部として「紀」が作られるはずであったが、それが実現せず部分として構想された「帝王本紀」だけが完成を見たために『日本紀』と名付けられたとした[44]。
当初から『日本書紀』という名称だったという説は、『日本紀』説の検証と発展の中から出た[44]。『日本書紀』という書名の用例は非常に古く、奈良時代・平安時代初期の成立時期に近い時代の史料と古写本とに『日本書紀』と記しているものは数多く見られる。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされ天平10年(738年)の成立といわれる。上で触れた折口信夫の見解は『日本書』の一部として「紀」が作られたものの、完成した部分は『日本紀』と名付けられたというものであったが[44]、神田喜一郎は書名は本来『日本書』であり、『日本書』という題名の下に小字で「紀」としるしてこれが『日本書』の「紀」であることを表示したが、伝写を経る間に『日本書紀』となってしまったとする[44][45]。
なお、平安時代初期には『続日本紀』と対比させる意味で、『前日本紀』と称している事例もある(『日本後紀』延暦16年2月乙巳条所引同日付詔)[46]。
かつて通説であった『日本紀』説は20世紀の検証を経て発展し、日本史学会の権威であった坂本太郎が神田喜一郎の説を支持したことなどを経て[47]、2018年現在では『日本書紀』を原名とする説を支持する学者が多い[43]。さらに、『日本書紀』の書名の研究では、2011年に塚口義信が「『日本書紀』と『日本紀』の関係について-同一史書説の再検討-」(『続日本紀研究』392号)において、これまでになかった第三の説を発表して注目を集めている[43]。塚口は『続日本紀』の養老4年5月癸酉条の従前の解釈において「紀卅卷系圖一卷」に登場する系圖一卷は紀卅卷に附属されていたものとしているが、実はこの解釈以外に紀に系圖が附属されていたとする根拠はないとした上で、『弘仁私記』序や『本朝書籍目録』にも「日本書紀三十巻」「帝王系図一巻」と分けて記載されており、舎人親王が献上したのは『日本書紀』三十巻と別の書物であった系圖(『帝王系図』)の2種類の書物で、親王が修したとされる『日本紀』とはこの両書を合わせた総称であるとした。塚口説は総称である『日本紀』とその一部を構成する『日本書紀』の名前が類似しているという問題点はあるものの、残存する史料に基づいて『日本紀』と『日本書紀』が同じ書物を指すことを否定した見解と言え、もしこの見解が正しいとすれば『日本紀』と『日本書紀』を同一のものという前提に立ってきた既存の説は再考を迫られるものとなる[48]。
荊木美行は塚口説を検証し、系圖の問題に関しては塚口説に同意する一方で、名称の問題に関しては『日本書紀』三十巻をもって「日本紀」と称する事例が国史にも見いだされるために成立には無理があるとしている(日本紀講筵において系圖の講義が行われないのは、書紀三十巻で「日本紀」と呼ばれることがあったのを示すのと同時に系圖が書紀の一部ではなかったことを示すとしている)。荊木は最初から「日本書の本紀」である『日本書紀』が正式名称であったが、書の実態を伴わないことから生まれた別称が「日本紀」であったとする。平安時代に入る(『続日本紀』が編纂される)頃には「日本紀」は国史を指す一般名詞化したことで、『日本書紀』を『前日本紀』と呼称したり、日本書紀とは別の書物である系圖に対しても国史としての意味合いで「日本紀」と呼ばれたりもした、と推測している[49]。
書名は上記に挙げる説を述べたが、読みについても、「にほんしょき」なのか「にっぽんしょき」なのか、証拠となる史料が発見されていないため今でも答えは出されていない。当時、「やまと」と訓読されることもあった「日本」という語を、どのように音読していたかは不明であり、また、奈良・平安時代の文献に「日ほん」という記述があっても、濁音も半濁音もなかった当時の仮名遣いからは推測ができないからである。主な例として、岩橋小弥太は著書『日本の国号』(吉川弘文館、ISBN 4642077413)のなかで「にっぽんしょき」の説を主張している。現在では出版社における編集部の判断で「にほんしょき」として記述および出版されているが、前述したように答えが出ていない以上、これが結論となっているわけではない。
なお、一部には『日本紀』と『日本書紀』を全く別の書と考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されているのがその根拠である。
『日本書紀』の編纂にあたって多種多様な資料が参照されており、これらの原資料を坂本太郎は以下のように分類している[50]。なお、ここに挙げる原資料は漢籍を除いて多くの場合現存しない。このため、その内容・性質については後世の研究者による推測であり、様々な見解があることに注意されたい。
漢籍については、それを元に『日本書紀』の本文を潤色した部位が概ね特定されており、巻毎に典拠として利用された漢籍の名前が既に整理されている[61]。具体的には以下のようなものが利用された[62]。
『日本書紀』の大半の巻に「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」という形式で分註が多数記されている。これらの中には典拠となった書名をしている場合があり、以下のような出典となった資料を知ることができる[13]。ただしこれらはいずれも現存しておらず、その内容は原則的に『日本書紀』内の引用文からしか知ることができない。
『日本書紀』は内容・語句・音韻など様々な観点から各巻をいくつかのグループに分類できることがわかっており、多くの学者が区分論を展開している。以下、主として坂本太郎と森博達の著作を参考にまとめる。
『日本書紀』の編纂は恐らくは長い期間と複数の撰修者の手によったと見られ、巻によって分担して編集されたものと考えられる[63][64]。この結果として、担当した人間の漢文能力、筆癖、使用語句の特徴などが各巻に反映されることとなった。現代の学者は様々な着眼点によってこれらの特徴を洗い出し、いくつかのグループに分類する区分論を発達させてきた。区分において特に重要な指標となるのは同じような語句の使用傾向や用いられている万葉仮名の日本語と漢字音の対応(音韻の対応)、そして漢文の文法的誤りや日本語独特の発想による文章(和習)の分布などである[65][66]。
当初の区分論は使用語句・仮名字種・分註件数の偏在などに着目して行われ、『日本書紀』が巻1系と巻14系に二分できることが明らかにされていった[67]。森博達は、区分論の鏑矢となったのは岡田正之であり、岡田の遺稿『近江奈良朝の漢文学』(1929年)を『日本書紀』区分論の幕開けと評価している[64]。1934年には福田良輔が分註の「之」字の用法に着目した語法分析による区分論を開拓した[67]。藤井信夫は歴代の即位定都(神武天皇の場合の「辛酉年、春正月、庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」のように、即位に伴って宮について記されている記事)の書き方によって『日本書紀』を10のグループに分類し[63]、鴻巣隼雄は「祖先」を意味する語として「始祖・皇祖」が用いられる巻(巻3-13、巻22-27)と、「先」が用いられる巻(巻14-21)に分類した[68]。これらの区分論は細分化の程度に差はあっても、異なる着眼点によって分類されたもの同士の間で概ね一致した結果が得られている[63]。区分論のいくつかの例を以下に示す。
この表で神代を扱う巻1、巻2が区分を割り振られていない例が多いのは、この2巻は分註を通じて別書から多数の引用文を載せているために他巻と異なり巻内の文章の性格が一定しないことによる[73]。
区分論において近年とりわけ注目されたのは森博達による分析である。森は歌謡などを表記する万葉仮名に用いられている漢字音の音韻の分析によって『日本書紀』を2つのグループ(α群とβ群)に大別することができることを論証した(30巻には歌謡がなく、区分していない)。森の学説は近年の区分論における大きな進展であり、区分論に触れる際にはそれをどのように評価する場合でも大抵の場合言及される[注 7]。
森による分析でα群に使用されている万葉仮名の漢字音は唐代北方音(漢音)に依拠しており、β群のそれは倭音・複数の字音体系が混在していることが明らかになっている。そして森はさらにそれを発展させ、β群に和習が集中すること、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが頻出することなどから、β群は非中国語話者が主筆担当したと推定している[74]。逆にα群では漢文の誤りが少ない事、和歌の採録時日本語の清音と濁音を区別できていないこと[75]、日本の習俗に精通していないことがわかることなどから、中国系の渡来1世が主たる述作にあたったと結論している[75]。さらにα群・β群内の混在(α群の中に和習の強い文章が混入している)や、特定の表現が頻出する筆癖などから、本文完成後の加筆や潤色等の編纂過程の手掛かりが得られるとしている[76]。
過程があったとされる。そして、α群には
という特徴があり、β郡は
という特徴があるとした[77]。
他にも、仏典などによる影響は以下の通り多数見られる[77]。
『日本書紀』において、ヲ格(動作の対象(目的語)や、移動の経路や起点などを表す)に 「於」の字を当てる用例は多くある。仏典では四字句を作るために不要な助字を加えることがあり、後に四字句以外でも用いられることになった。その一例が助詞の「於」の字である。この特別な用法は魏晋六朝時代の訳経において初めて現れた。西晋・竺法護訳『仏説海龍王経』の「護於法音」「見於要」、後秦・鳩摩羅什訳『法華経』の「撃於大法鼓」「供養於諸佛」、同じく羅什訳『童受喩鬘経』の「得於聖道」などである。『書紀』にもヲ格に「於」および「乎」「于」を用いる例が複数あるが、これは仏教漢文である。その用例は以下の通りである。
β群の巻5「出雲振根主于神宝。」、巻22「或病或使、有闕於事。」、巻29「大津皇子謀反於皇太子。」、巻30「諫争天皇欲幸伊勢、妨於農事。」を除いた18例はすべてα群である。α群の18例のうち、巻14「超攄絶於埃塵」と巻18「元元蒼生、楽於稼穡」は『文選』と『漢書』による後人の潤色であり、その際に原文が改変され、筆癖が現われたものである。巻15「天皇即遣使、嘖譲於上道臣等、而奪其所領山部。」の記事は前後と文脈が合わないため、後人による不注意な加筆と考えられる。巻18「毎念於玆、憂慮何已。」と巻18「以示於後、式観乎昔。」は安閑天皇が大伴金村の進言によって皇后と妃に屯倉を賜る記事。この中間には「亦臣所憂也。」という一句がある。「亦」は普通副詞なので、正格漢文では主語の後に置かれ「臣亦所憂也」となるが、この誤用はβ群に偏在し、仏教漢文にも常見されることから、この挿話も後人の加筆と考えられる。巻25「毎念於斯」、巻25「惟此天地、生乎万物。」、巻25「必先於近。」、巻25「天皇恨欲捨於国位」は孝徳天皇紀であり、前者3つは改新の詔である。「孝徳紀」の詔勅は倭人の慣用語や漢籍による潤色時の誤用も含まれている。また大宝2年(702年)の大宝律令発布後に用いられる「御宇」という表記も3例現われているため、後人が詔勅を中心として加筆したことがわかる。巻19「遣□□伐于高麗。」は王辰爾が「烏羽之表」を解読した記事であり、同記事では「又高麗上表疏、書于烏羽。(累加を表す接続詞は「又」ではなく「且」が相応しい)」、「字随羽黒,既無識者。(「既」は奇用で、倭訓の「すでに」や「まったく」から生じた)」など倭人の影響を受けている。巻21「助衛於我使獲利益」、巻21「恐嫌於己」、巻21「馬子宿禰詐於群臣」、巻21「乃使東漢直駒殺于天皇。」の4例は崇峻天皇紀で、後者3つは崇峻暗殺の記事である。この巻には「所」字の誤用もあり、崇峻4年4月条に「葬訳田天皇於磯長陵。是其妣皇后所葬之陵也」とあるが、妣皇后は葬られる対象なので正格漢文では「所」字に前置できず、「妣皇后の葬られたまひし」と受身に訓む仏教漢文である。また同5年11月条の分注に「於是馬子宿祢聴而驚之。」とあり、終結辞「之」を用いている[77]。
仏教漢文の語法の特徴は主に5つある。1つ目は「疑問句例」である。口語化した「正反並列法」と書面語的な「否定詞のみで反項を表す方法」の2種類が存在する。仏典での前者の用例は後漢から東晋の訳経で、後漢・安世高訳『大安般守意経』の「問:坐與行為同不同?」や東晋・法顕訳『摩訶僧祇律』の「聞者生疑:為爾不爾?」などが挙げられる。ただし、『書紀』には類句は存在しない。後者の用例については、後漢・支讖訳『般若道 行品経』の「是男子為黠不?」が挙げられる。ただし、この用法は仏教漢文のみでなく、通常の漢籍でも前漢の司馬遷による『史記』「袁盎晁錯列伝」の「呉楚罷不?」や劉宋の『世説新語』「方正篇」の「尊君在不?」のように会話文で用いていることから、仏教漢文とは断言できない。この用法は、『書紀』においてはα・β両群に18例が存在する。β群は7例ある。巻2に「當須避不。」「国在耶以不。」「奉天神耶以不。」「奉天神耶以不。」の4例、巻7に「易及人民順不。」、巻9の分注に「天皇怒解不。」、巻10に「未知 其成不。」がある。α群には11例ある。巻19に「徵召新羅、問聽與不」「願居一處、倶論可不」「西蕃獻佛,相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」「来不也、又軍数幾何。」という4例、巻25に「不言題不、諫朕癈忘。」「國司至任、奉所誨不。」「猶如古代、而置以不。」の3例、巻26分注は「伊吉連博徳書」の文章に「平安以不。」「好在以不。」「國內平不。」という3例、巻27に「福信之罪、既如此焉、可斬以不。」 があり,これらは崇仏論争や朝鮮関係の記事である。α群の用例は四字句が顕著であり、後生の加筆と考えられる[77]。
仏教漢文の語法の特徴の2つめは「排除式例」が挙げられる。これは介詞「除」の二種の用法のことであり、「特殊を排除する」ものと「その他を補充する」ものであり、「〜の他はすべて」と「〜の他にさらに」の二種であり、以下のものが挙げられる。
これらの用法は比較的遅く生じた口語表現である という。漢籍でも唐代まで殆ど現れない。『書紀』では11例あり、すべてβ群に偏在する。このうち「〜の他にさらに」は「亦問之、除是神復有神乎。」のみで、他の10例は「〜の他はすべて」という用法である。
この排除式例が11例すべてβ群に偏在するのは、β群を述作した山田史御方の筆癖であると考えられる。御方は若くして新羅に留学して仏教を学び、帰国後還俗して大学で教えた[77]。
仏教漢文の語法の特徴の3つ目は「被動句例」 である。仏教漢文に特徴的な被動句(受身文)に「為〜所見〜」「為〜之所〜」「為〜而見〜」「所見〜」の4種が挙げられる。また、「動作主+所+動詞」の句式として、西晋・竺法護訳『生経』の「飛鳥所食。」が挙げられる。ただし、『書紀』には以上の被動句は見られない。なお、仏典には動作主が提示されない被動句もある。「所+動詞」の動詞が原典の被動記号の漢訳として用いられたものである。唐・玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』には「餘契經中諸蘊處界。隨應攝在前所説中。如此論中所説蘊等。」とある。これと同様の被動句は『書紀』にも6例見え、すべてα群に偏在する。
この6例のうち最初の2つは眉輪王による安康天皇暗殺関係の記事で、四字句が頻出する。3つ目は朝鮮関係記事で、4つ目はα群で後人による加筆と考えられる。5つ目は常世の虫を祭る邪教を秦河勝が鎮圧する記事であり、短い挿話の中に四字句が頻出する。同じ挿話には、「都無(まったく〜無い、都無所益)」という仏典に見られる白話が用いられている。6つ目は蘇我蝦夷が焼こうとした「国記」を船史恵尺が救い中大兄皇子に奉ったことを讃える記事である。これらは仏典に馴染んだ者による加筆と考えられる[77]。
仏教漢文の語法の特徴の4つ目は「完成態を表す已」である。仏典には隋・闍那崛多訳『仏本行集経』の「時諸大臣聞已歓喜、往至彼林迎二王子、将還入宮。」がある。『書紀』には以下の4例が見える。
こららはすべてα群である。1つ目の「驚惶失所、悲淚盈目」は『金光明最勝王経』による潤色である。2つ目と3つ目は朝鮮関係記事で、3つ目は『金光明最勝王経』巻6の「爾時四天王聞是頌已、歡喜踊 躍」による潤色である。4つ目は丁未の乱の記事で、倭人の慣用句が集中する。また、『金光明最勝王経』巻6の「時王見已。即嚴四兵、發向彼國、欲爲討伐。」による潤色である。2.3.4つ目は編修の最終段階での加筆であると考えられる[77]。
仏教漢文の語法の特徴の5つ目は「主語+名詞+是(也)式判断句」である。β群が16例、α群が3例である。以下に例を挙げる。
α群の3例のうち、巻14「吉備上道蚊嶋田邑家人部是也。」は天皇が紀小弓宿祢を讃える記事であり、その勅に「龍驤虎視旁眺八維,掩討逆節折衝四海。」とあるが、これは『魏志』「武帝紀」による潤色である。巻21「天皇爲之悲慟。今南淵坂田寺木丈六佛像・挾侍菩薩、是也。」は用明天皇臨終の記事。「天皇爲之悲慟。」とあるが,前述の如く「為之〜」という四字句は仏典に多用される。巻25「尊佛法、輕神道【斮生國魂社樹之類、是也】。爲人柔仁好儒。」は孝徳天皇紀冒頭の記事で、「柔仁好儒」は『漢書』を載録した『芸文類聚』「儲宮部」による潤色である。α群の3例はいずれも編修の最終段階での潤色・加筆と考えられる[77]。
仏教漢文の語法の特徴の5つ目は「分句末に用いられて原因を表す故」である。『書紀』には6例ある。「故」が4例、「由〜故」が2例ある[77]。
他にも、漢籍には稀だが仏典に見られる語句として、接続詞の「因以」、使役の「遣〜令〜」・「有〜之情」・「動詞+之日」、語気助詞「爰」が挙げられる。 「因以」の用例は
「遣〜令〜」の用例は
「有〜之情」の用例は
「動詞+之日」の用法は
「爰」の用法は
がある。接続詞「因以」は106例あり、すべてβ群のみに偏在する。使役「遣〜令〜」は30例あり、すべてβ群に偏在する。「有〜之情」も11例がすべてβ群のみに現れる。「動詞+之日」は28例あり、β群に25例、α群に2例、巻30に1例が分 布する。α群の2例中、巻24「三韓進調之日必將使卿讀唱其表。」は乙巳の変の記事に見え、巻25「事了還鄕之日、忽然得疾臥死路頭」は改新の詔である。α群では巻24の上宮家滅亡記事と乙巳の変、巻25の改新の詔に顕著に倭人の慣用語が見られる。これらは『書紀』編修の最終段階で加筆されたものと推測される。巻30「告喪之日、翳飡金春秋奉勅。」は新羅の弔使への詔勅である。巻30は一般に倭人の慣用語の少ない漢文で綴られているが、この詔勅には、「以清白心仕奉」「不可絶之」などが頻出しており、原資料を転載した可能性が高い。語気助詞の「爰」は、上古漢語に常見され、中古以降は次第に用いられなくなる。しかし『書紀』には112例もある。正格漢文としては時代錯誤の奇用であるが、中古の仏教漢文に頻出していることから、『書紀』の「爰」も仏典に由来すると考えられる。『書紀』ではβ群に89例、α群に23例が分布する[77]。
『日本書紀』は紀年・暦日を有する史書であり、日本書紀上の紀年は原則として天皇の即位年を太歳の干支によって示す[78]。太歳とは天球上で木星の線対称点に存在するとされた架空の天体である。木星は約12年で軌道を一周するため、1年に天球を12分の1だけ移動する。このため、十二次に分割された天球上の木星の位置によって年次を示すことが可能であった。さらに木星を基準とした場合、方角が十二辰と逆になるため、これを合致させるために架空の天体、太歳が考案された(詳細は太歳、十二辰を参照)。さらに十二辰を表すのに使われる十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)と十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、中国では殷代より、10日ごとに日を区切って旬としていた)を組み合わせて六十干支を作り、これによって年を表した。例えば応神天皇の即位の年は「太歳庚寅」といった具合である。ただし神武天皇の太歳は即位年の辛酉には記されず、東征開始の年である甲寅に記されるなど若干の異例がある[注 8]。この書法は『日本書紀』独特であるが、継体天皇25年(531年)に引用される『百済本記』に「太歳辛亥」とあることから、これに倣ったことが考えられる。
歴史について語る際に年月日を付して時間的認識、「いつ」のことであるのかを明らかにするのは現代的感覚では普通のことであるが、古代においては必ずしもそうではなかった。『日本書紀』と同じく天皇の即位に関わる情報を記録する『古事記』には同様の天皇の即位記事において年代を提示しない[79]。そのため、年次を明確化する意図を持って書かれていることは『日本書紀』を『古事記』と比べた場合の大きな特徴である[78]。
一定の法則によって時間を区切り年月日を数え(暦法)、それによって構築されたカレンダー(暦表)、またその方法論を暦という。『日本書紀』が紀年・暦日を有し、時間を明示していることは即ち、ある暦法によって計算された年次・日が記された資料に基づいて書かれたか、あるいは編纂時に暦の計算が行われたことを意味する。暦法は天体運動を基準に作成されるのが基本であり、太陽暦、太陰太陽暦、太陰暦の3種に大別されるが(詳細は暦を参照)、『日本書紀』の暦法は中国に起源を持つ太陰太陽暦に依っている。
『日本書紀』には約900個の月朔(その月の1日の干支)が記載されている[80]。これもまた十干と十二支の組み合わせによって表現される。例えば、『日本書紀』2番目の暦日である神武天皇が東征に出発した日は「太歳甲寅」の年の「冬十月丁巳朔辛酉[注 9]」の日であり、即位の日は「辛酉」の年の「春正月庚辰朔[注 10]」と表記される。
この六十干支による日付表記は、実際の天体運動が完全な等速運動でないことや、基準になる月や太陽の運動周期が厳密には整数でないこと、地球の自転・公転周期と同期しないことから様々な調整を要する。具体的には、朔望月(月の満ち欠け)の周期[注 11]が約29.53日であることから、一か月の日数を30日とする大の月と29日とする小の月を設定し、月の周期と暦を同期させる調整が必要になる。さらに、朔望月による12か月(約354.36日)と地球の公転周期(約365.24日)が同期しないため、適時13カ月目(閏月)を挿入する年を作る必要がある(詳細は閏月を参照)。この調整の仕方、暦法によって、同じ日の干支や閏月が異なる場合がある。
日本では江戸時代以来、『日本書紀』が用いている暦法を復元する試みが行われており、初期の頃は日本独自の暦、あるいは百済の暦などの説が出されていたが[81][82]、20世紀半ばに東京天文台(現:国立天文台)の職員・天文学者であった小川清彦によって中国からもたらされた元嘉暦と儀鳳暦(麟徳暦)が使用されていることが明らかにされた[80]。
即ち、『日本書紀』は神武天皇の時代から儀鳳暦によって暦日を記述しており、5世紀以降は元嘉暦に切り替わっている[80]。しかし、儀鳳暦は7世紀に唐で作られた新しい暦であり、日本にもたらされたのは持統天皇代であるのに対し、元嘉暦は5世紀に作られた古い暦であり、時代の新旧が逆転している。このことから、『日本書紀』の暦日は古い時代、5世紀前半以前の時代のものは『日本書紀』編纂時に最新の暦であった儀鳳暦を使って推算したものであることが明らかとなっている[81]。
『日本書紀』に記載されている暦日に基づいて当時の日本の暦法を再構築しようという試みが具体的に始まるのは江戸時代のことである。渋川春海(1639年生-1715年死)は『日本書紀』の暦についての推算を行い、日本初となる長暦(日本長暦)を作成した[82]。春海は『日本書紀』の暦法について「日本固有のものであり、神武天皇以降推算されたもので、途中2回改暦があったもの」と想定した[82]。18世紀後半には本居宣長(1730年生-1801年死)が「唐暦による推算であろう」と述べ、伴信友(1775年生-1848年死)は「百済の暦日を用いたものである」とした[82]。
明治・大正期には暦日の研究は目立った進展を見せなかった。画期となったのは昭和初期の東京天文台の天文学者であった小川清彦による研究である。彼は第二次世界大戦前から戦時中にかけて、『日本書紀』に記載されている月朔について、中国から伝わった各種の暦法による推算値との比較を行い、『日本書紀』の暦法が元嘉暦、儀鳳暦であること、その暦日は当時のものではなく後世(8世紀)の偽作であることを明らかにした[83]。小川の分析結果は当初ごく限られた人物の間に少数のコピーで配布されたのみであった。これは近代に入ると『日本書紀』は日本の国家史・国民史の根幹としての地位が与えられるようになり、昭和期に入った頃にはその内容、特に誤りについての批判を行うことには政治的危険を伴ったためである[84]。戦後、小川の業績は広く知られるようになり、現在では定説となっている[85]。
小川が作表した『日本書紀』の暦日と、元嘉暦、儀鳳暦の暦日を示す表を元に、暦法の切り替わりを示す箇所を抽出したものを以下に示す。
年 | 西暦換算 | 日本書紀記載の月朔 | 儀鳳暦の月朔 | 元嘉暦の月朔 |
---|---|---|---|---|
太歳甲寅 | -666[注 12] | 11月丙戌 | 丙戌 | 丁亥 |
戊午 | -662 | 6月乙未 | 乙未 | 丙申 |
神武元年 | -659 | 正月庚辰 | 庚辰 | 辛巳 |
垂仁15年 | -14 | 2月乙卯 | 乙卯 | 丙辰 |
垂仁23年 | -6 | 10月乙丑 | 閏10月乙丑 | 閏10月乙丑 |
景行12年 | 82 | 9月甲子 | 甲子 | 乙丑 |
成務2年 | 132 | 11月癸酉 | 癸酉 | 甲戊 |
仲哀元年 | 192 | 閏11月乙卯 | 閏11月乙卯 | 閏12月甲申 |
仲哀9年 | 200 | 3月壬申 | 壬申 | 癸酉 |
仁徳87年 | 399 | 10月癸未 | 癸未 | 甲申 |
履中5年 | 404 | 9月乙酉 | 閏9月乙酉 | 閏9月乙酉 |
安康3年 | 456 | 8月甲申 | 癸未 | 甲申 |
雄略4年 | 460 | 8月辛卯 | 庚寅 | 辛卯 |
清寧4年 | 483 | 閏5月 - | 閏6月戊申 | 閏5月戊寅 |
欽明31年 | 570 | 4月甲申 | 閏4月甲申 | 閏4月甲申 |
舒明2年 | 630 | 正月丁卯 | 閏正月丁卯 | 正月丁卯 |
皇極2年 | 643 | (閏7月戊寅)8月戊申 | 8月戊寅、閏8月戊申 | 閏7月戊寅、8月戊申 |
天智6年 | 667 | 閏11月丁亥 | 12月丁亥 | 閏11月丁亥 |
この表に示される通り、垂仁23年、履中5年、欽明31年4月の「閏」字が筆写時に脱落したものと仮定した場合、4世紀頃以前の月朔の干支は儀鳳暦に、5世紀頃以降のそれは元嘉暦に一致する[80]。
当時既に『日本書紀』が指し示す紀年が古い時代において信用に足らないことは理解されていたが、儀鳳暦・元嘉暦を用いた小川の推算値と『日本書紀』記載の暦日は比較的高い一致を示した。年代が疑わしいものであるにもかかわらず、暦日の月朔がその疑わしい年代と良く合致することは、『日本書紀』の月朔が同時代史料の記載にあったものを写したのではなく、後世に設定された紀年に合わせて計算されたものであることを意味する[86][注 13]。
なお、『古事記』は年次を持たないが分注の形で15人の天皇について崩御年干支と崩御月が記され、第10代崇神天皇と第18代反正天皇を除く13人は崩御日も記されている。崇神天皇、第13代成務天皇~第19代允恭天皇、第21代雄略天皇、第26代継体天皇、第30代敏達天皇の11人は『日本書紀』の崩御年の干支と一致しないが、
は一致する。
『日本書紀』の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論である。神代について語る『日本書紀』の巻1, 2は年数の経過や一日の概念を示す記事は有るが[注 14]紀年は無く、巻3の神武天皇の東征開始から初めて紀年が記され絶対年代が明示され始める[87]。『日本書紀』の紀年はその古い時代について江戸時代以来疑問が持たれてきた[88][89]。倉西裕子のまとめによれば、『日本書紀』の紀年を巡る具体的な論点は次の3つである[90]。
歴代天皇の在位期間の問題は、初期の天皇の不自然な長寿についてである(神武天皇は崩御時127歳、崇神天皇は120歳、応神天皇は110歳)。そして彼らに関わる紀年を西暦に置き換えると到底史実とはみなし難い年代が得られる。例えば神武天皇即位前記の東征開始の年、「太歳甲寅」は西暦に換算すると紀元前667年となり、これは天孫降臨から179万2470年後のことであったという[91]。現代ではこのような『日本書紀』の年代設定は架空のもので、推古朝の頃に中国の讖緯説(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づいて、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年に設定したと考えられている[92][93]。神武天皇の即位年が讖緯説によって設定された作為によるものであるという見解は早くも江戸時代に伴信友などによって指摘され[88][94]、明治時代に那珂通世によって現代の通説が打ち立てられた。
讖緯説は干支が一周する60年を一元、二十一元(1260年)を一蔀として特別な意味を持たせるもので、後漢代の学者鄭玄が『易緯』の注の中で述べているものである[93][94]。那珂通世の結論は、推古天皇9年(601年)、辛酉の年を起点として、一蔀遡った前660年、辛酉の年が神武天皇元年として設定されたというものである[93][94][注 15]。
また、初期の天皇の不自然に長い寿命を説明する説として春秋二倍暦説がある。これは古い時代には春夏を1年、秋冬を1年と数えていたが、『日本書紀』編纂時にはこれが忘れ去られていたため天皇の年齢が2倍になったという仮説である[97]。この説は明治時代にデンマーク人ウィリアム・ブラムセンが初めて唱えたもので、戦後には幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した[98]。これとは別に、『日本書紀』には記事がない空白の年が多数あることから、記事がある年のみが実際の紀年であり、記事の空白期間を省くことで実際の年代を復元できるという説(復元紀年説)も存在する[99]。これらの説は、その後の「倭の五王」の時代の編年との接続に問題を抱えており[100]、広く受け入れられてはいない。その他、当時の日本には四倍年暦が存在していたとする説[101]がある。
『日本書紀』は神功紀・応神紀にはいると飛躍的に外国の記述、特に朝鮮半島での出来事や倭国と朝鮮との関わりについての記述が増える。この時期の記述には朝鮮の史書である『三国史記』と対応する記述があり、また倭国から中国への遣使記録が中国各王朝の正史にあることから、『日本書紀』の年次と外国史書の年次を比較することができる。
巻9(神功紀)は39年条に「魏志倭人伝」に登場する倭の女王卑弥呼の遣使記事を載せ、神功皇后と卑弥呼を同一人物として描いている。この卑弥呼の遣使は魏の景初3年(239年)のことであるため、『日本書紀』は神功皇后39年を239年に設定していることがわかる[102]。そして神功紀には同じく百済の王の崩御・即位記事があり、神功皇后55年に百済の肖古王(近肖古王(375年死亡)が死亡したこと、神功皇后56年に王子貴須(近仇首王、375年即位)が即位したこと、神功皇后64年に枕流王が即位したことなどが記されている[103]。『三国史記』や『東国通鑑』の近肖古王の記述に基づくならば近肖古王の死は西暦375年ということになりこれが神功皇后55年に対応する。ここから逆算した場合、神功皇后39年は359年となり『三国志』から導き出せる紀年とはちょうど120年の差分が存在する[103]。百済の出来事との他の年次の対応も同様である[103]。干支による年次表記では60年ごとに同一の干支の年が現れるため、『日本書紀』巻9は神功皇后を卑弥呼と同一人物とする過程で干支二運(120年)年代を繰り上げていることが知られ、さらにこの120年の紀年の歪みは神功紀の中で調整されることがないため、外国史書と巻9の間で出来事を対照させていくと神功皇后元年は西暦201年であるのに対し、神功皇后69年(崩御時)は西暦389年という年代が得られる[104]。
日本書紀紀年 | 三国志を基準にした年次 | 三国史記の近肖古王を基準にした年次 | 日本書紀の記述 | 外国史書の記述 |
---|---|---|---|---|
神功元年 | 201年 | 321年 | 摂政元年 | - |
神功39年 | 239年 | 359年 | 明帝の景初三年、六月、倭女王が遣使(日本書紀引用、魏志) | 明帝の景初二年[注 16]六月、倭女王が遣使(三国志、魏志) |
神功55年 | 255年 | 375年 | 五十五年、百済の肖古王が死去。 | 近肖古王三十年、冬十一月、王が死去(三国史記) |
神功56年 | 256年 | 376年 | 五十六年、百済の王子貴須が即位。 | 近仇首王が即位。(三国史記)[注 17] |
神功64年 | 264年 | 384年 | 六十四年、百済国の貴須王が死去。枕流王が即位。 | 近仇首王十年、夏四月、王が死去。枕流王即位。(三国史記) |
神功65年 | 265年 | 385年 | 六十五年、百済の枕流王が死去。 | 二年、冬十一月、枕流王が死去。(三国史記) |
神功69年 | 269年 | 389年 | 六十九年夏四月十七日(夏四月辛酉朔丁丑)、神功皇后死去。 | - |
この干支二運繰り上げ説は本居宣長が江戸時代に『東国通鑑』との比較から導き出し、明治以来の議論を経て那珂通世によって概ね完成された[105]。ただし、現在でも『日本書紀』の編年を重視して神功皇后を3世紀代に位置付ける説も存在する[106]。また、神功皇后の実在性を巡っても議論が続いていることや、単純に神功紀の紀年を干支二運を繰り上げただけでは、神功皇后に続く応神紀の紀年と整合性を持たないことから、神功紀の紀年はまだ未解決の問題を抱えている[106]。
応神紀以降の紀年においては、『三国史記』との対照と並んで中国史書に登場するいわゆる「倭の五王」の遣使記事との年代比較が重要となる。倭の五王は5世紀と6世紀初頭に中国へ遣使したことが記録されている倭国の王である。
上に見られるように、神功皇后と卑弥呼を同一視する『日本書紀』の編年に基づいて紀年を組み立てた場合、倭の五王の記録と『日本書紀』の歴代天皇の記録は全く合致しない[107]。また、仁徳天皇が長大な在位期間を持つため、神功紀の紀年を120年繰り上げてもやはり全く整合しない。これらの問題についても江戸時代から新井白石によって指摘されていた[107]。
倭の五王の紀年について注目されるのが古事記の崩御年干支である[108]。上に述べた通り、『古事記』は年次を持たないが、現存最古の写本に分注の形で15人の天皇の崩御年干支と崩御月が記されている。この古事記の干支から那珂通世によって西暦換算の年代が割り出されているが、これは5世紀代において『日本書紀』とは合致しないものの、倭の五王の記録とは比較的無理のない整合性を示す[109]。
しかし、この古事記の崩御年干支に基づく年代も『日本書紀』記事中の記録から修正して導き出せる年代とは合致しない。『日本書紀』の応神天皇3年条に百済の阿花王の即位記事があり、これは『三国史記』から392年のことであることがわかるため、阿花王即位を基準に応神天皇元年は390年と導き出せる[110]。しかし、分註崩御年干支に基づく推計では応神41年が394年になる[111]。
雄略天皇については雄略5年が西暦461年にあたることが研究者の間で一致を見ている。これは雄略5年条に百済の武寧王の誕生記事があり、その干支(辛丑)が武寧王陵出土の墓誌の崩御年である癸卯(523年)および年齢(62歳で死亡、辛丑の年から癸卯の年まで還暦を挟んで62年)と整合することによる[112]。
このような問題のため、5世紀頃と推定される歴代天皇の在位期間および絶対年代は現在も完全には確定していない[注 21]。
『日本書紀』の編纂は当時の天皇によって作成を命じられた国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原資料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。
『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明・崇峻紀までである。残る巻第二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている箇所が多く見られる。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては東アジアにおいて画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。ただし、『釈日本紀』の開題部分には「一書一説」の引用を「裴松之三国志注の例なり」と記されており、晋の陳寿が著した『三国志』に対して宋(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けた形式のものが日本に伝来され、『日本書紀』のモデルになった可能性はある[114]。 なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。
『日本書紀』には訓読や書名をあげての文献引用など、本文とは別に分注(分註)と呼ばれる割注記事がみられる。かつては分注は後世の創作とする説も存在したが、今日では『日本書紀』成立当初から存在していたと考えられている。また、前述の「一書に曰く」も平安期の写本の断簡の中には分注と同じ体裁で書かれており、原本では分注の一部であった可能性がある。成立当初からの分注の存在は『日本書紀』独自の形式であるが、前述の『三国志』の裴松之による注のように中国の歴史書において後世の人物が本文に注を付けてさらに後々に伝えられる例は存在しており、『日本書紀』の編者がこうした注の付いた中国の歴史書の影響を受けた可能性がある[114]。
続日本紀にある日本書紀の完成記事には「紀卅卷系圖一卷」とあり、成立時の日本書紀には現在伝えられている三十巻の他に系図一巻が存在したと考えられている。日本書紀の「紀卅卷」が現在までほぼ完全に伝わっているのに対して系図は全く伝わっていない。弘仁私記にはこの系図について、「図書寮にも民間にも見えない」としてすでに失われたかのような記述があるが、鎌倉時代に存在する書物を集めた記録では「舎人親王撰 帝王系図一巻」とあり、このころまでは存在したとも考えられる。
「新撰姓氏録」には「日本紀合」という記述が散見されるが、現存の「日本書紀」に該当する記述が存在しない。これは失われた系図部分と照合したものであると考えられている。この「系図一巻」の内容については様々に推測されている。例えば日本書紀では初出の人物の系譜を記すのが通例なのに、系譜の記されない人物が若干存在するが、これらについては系図に記載があるために省略されたと考えられている。また、記紀ともに現存の本文には見えない応神天皇から継体天皇に至る系譜についてもこの失われた「系図1巻」は書かれていた可能性を指摘する説がある[115]。
また、前述のように系図を『日本書紀』とは別の書物とし、両書を合わせて『日本紀』と呼んだとする塚口義信の見解、塚口説を否定しつつも系図に関する考察については肯定した荊木美行の見解もある(書名を参照)。
天皇の名には、天皇在世中の実名である諱(いみな)、在世中に奉られる尊号、没後に奉られる諡(おくりな)がある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762年)〜同8年(764年)、淡海三船により神武天皇から持統天皇までの41代(弘文天皇を除き神功皇后を含む)へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は漢風諡号の前に書かれた本来の名のみであらわされていたと考えられる。この名は漢風諡号との対比から「和風諡号」と呼ばれることが多いが、諡号であるという根拠はなく、どのような名前なのかは不明である。天皇ではないが壬申の乱の功臣・三輪子首が「大三輪真上田迎君」と諡されたのが『日本書紀』に明記された唯一の諡(謚)である。
15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の実名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、サザキなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。また、確実性が増してからの『書紀』の記述による限り、和風諡号の制度ができたのは6世紀半ばごろであり、それ以前で和風諡号風の名前を持つ天皇は、後世架上された天皇であると考える説がある。
『日本書紀』は成立以来、現代に至るまで継続的に写本が作られ、読み継がれてきた。この受容・読書史においては、『古事記』よりも『日本書紀』の方が遥かに長い蓄積を持つ[116]。『日本書紀』が「どのように研究されてきたか、そして改変や註釈がどのように施されてきたのか、さらにはそれが各時代の政治・社会・思想・宗教とどのように関係してきたのか」といった『日本書紀』の受容・読書史もまた、現代の研究の対象となっている。いわば『日本書紀』にまつわる思想史でもあり、そこに反映された各時代の読者の思想を読み解く営みは、『日本書紀』を「過去の事実の記録」ではなく「編纂者が作成した物語」として読み解こうとする視角に通底する[117]。
奈良・平安時代における『日本書紀』の受容状況について注目されるのは、『日本書紀』が完成した翌年の養老5年(721年)から開催されている朝廷主催の『日本書紀』の講義(日本紀講筵、書紀講筵)である[118]。
講筵の内容については、甲乙丙丁の四種が残る講書の筆記記録の不完全な伝本(『日本書紀私記』)によって伝わる[119]。そのうち甲乙丙の三種の内容は本文中の語句の訓読法に終始しており、丁は語句の疑義に対する問と博士の解答が集積されたものである[119][120]。これらのことから、講筵では『日本書紀』の漢語の訓読が主要な論題であったことがわかり、『日本書紀』をいかに読む(訓む)かが学生と博士との間の問答を通じて聴衆に伝えられたものと見られる[119][120]。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられた[121]。
講筵はまた官人たちに日常において意識することのない大きな物語としての国史を想起させる儀式でもあり[122]、概ね体制が整った元慶2年(878年)以降の形式について10世紀の儀式書『西宮記』に記録が残されている[123]。その記録から、「天皇の命で開催が決定される公式な会であること」「博士以下学生に至る講読の実行主体の外側に監督者・見学者としての公卿層以下が配置される公開行事であること」「開催期間が複数年と長期間にわたること」が日本紀講筵の基本構造であったと考えられる[123][注 22]。
以下に過去の講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。
養老以降、100年近くにわたって開催されなかった日本紀講筵が9世紀に再開されたことは朝廷の修史事業と関係すると考えられる[125]。『日本書紀』は日本初の正史として権威を持ち、その記述に基づいた「歴史」「記憶」が諸官人・氏族に徐々に定着していくと共に[126]、また各氏族の起源を語る根本台帳としての機能を持つものとして受容されていった[127]。そして8世紀後半に新たな正史『続日本紀』が『日本書紀』に代わる新たな歴史を示すものとしてではなく、『日本書紀』に続くものとして編纂されたことで建国神話を持つ『日本書紀』が正典化し、新たな受容形態が求められた[122]。こうして9世紀に日本紀講筵が行われるようになり、六国史の編纂が継続した間、ほぼ定期的に儀式として繰り返されるようになったと見られる[122]。11世紀に入り、官選の正史の編纂が実施されなくなると共に日本紀講筵の開催も途絶えた。このことは、正史の編纂と日本紀講筵が一体のものであったことを示唆する[125]。
中世は『日本書紀』の読書史の中で1つのピークを成す。この時期は『日本書紀』への「注釈」・「研究」を通じて原典から離れた解釈が成され、神話・神々の姿が改変され新たな創り出され、多種多様な新たな神話が創り出されていった[128][129]。こうした動向はただ『日本書紀』の神話への注釈のみならず、自社縁起・本地物・歌学書・説話文学・唱導文芸など様々な場面に見受けられる[129]。中世神道説において『日本書紀』は、『古事記』『先代旧事本紀』と並んで「神書三大部」とまでされるようになっていった[129]。
このような中世の『日本書紀』にまつわる文芸活動・注釈への近現代の評価は伝統的に極めて低く、(『釈日本紀』という重大な例外はあるが)古伝を無視した空理空論を論じたものと認識され、中世の「日本紀注」は検討する価値のないものとして本格的な学術的研究対象として扱われていなかった[130][131][132]。しかし、1972年に伊藤正義が中世に登場した神話言説を相対化・再評価する「中世日本紀」という研究概念を提唱し端緒を付けて以降、近代学問における注釈概念とは異なる中世独特の学問のあり方、原典の『日本書紀』から離れて注釈の形を取って展開される独自の「中世神話」の創造が研究の対象として盛んに論じられるようになった[129][130][131][132]。
近世に入ると、儒学の立場から理解しようとする動向が見られるようになる。それまでも卜部兼方『釈日本紀』に始まり、一条兼良『日本書紀纂疏』や吉田兼倶『神書聞塵』『日本書紀神代巻抄』へと続き、さらにその周辺において忌部正通 『神代巻口訣』、劔阿『日本紀私鈔』、良遍『日本書紀巻第一聞書』『神代巻私見聞』、慈遍『旧事本紀玄義』など、仏教の要素がある注釈書は少なからずあるが[132]、儒学が幕府の庇護を受けるようになってからは、朱子学を中心に解釈が成されていった。
中でも関係の深いのが、山崎闇斎に始まる垂加神道である。闇斎が経典としたのは、『日本書紀』神代巻と『中臣祓』で、これに関する講義録のほか、『神代巻風葉集』という注釈の草稿が残っている[133]。垂加神道の『日本書紀』研究は、闇斎の没後も、弟子たちによって受け継がれた。例えば谷秦山『神代巻鹽土傳』は、語彙の正確な解釈を通じて神代巻を正しく読もうとする考証学的な姿勢を貫いている[133]。
この系統において注目すべきは、谷川士清『日本書紀通証』である。同書の神代巻では、先学の諸説を簡潔かつ的確に引用しており、その意味では「垂加派の神道説の集大成」であるが、「『釈日本紀』以来500年近くもなかった『日本書紀』全巻の本格的な注釈書」という点においても画期的で[135]、神代巻が示す神々への崇敬から少し距離を置いた世俗化の一端と見ることもできる[136]。これと並んで特筆されるのが、河村秀根の『書紀集解』で、それまでの中世的な神秘的解釈を打破した点に特色があるが、『日本書紀』の文意を正しく理解することを目的に出典の詮索に徹底している[135][137][138]。このような訓詁注釈の徹底と出典論の充実は、中世期には見られなかった客観的かつ実証的な研究を展開させ、体系的な形を整えるに至った[139]。
こうした儒家の研究に対して、18世紀頃から隆盛を極めたのが、国学の流れを汲む研究である。例えば実証主義的な文献学的方法で後々の国学者に大きな影響を与えた契沖は、『厚顔抄』という記紀歌謡の注釈書を著しているが、全3巻のうち上・中が『日本書紀』で下が『古事記』という排列から、『日本書紀』を重んじる精神が見られる[140]。また、荷田春満は神代巻の注釈書や講義録を残しており[注 24]、後世の解釈に拠らないで研究すべきことを説いている[140]。やがて賀茂真淵の頃から、国学者は『古事記』を高く評価するようになっていった。とりわけ本居宣長による漢意の排斥と『古事記伝』の完成以降、こうした風潮は一気に高まった[139]。尤も宣長は『古事記伝』の中で『日本書紀』を漢意に惑わされず読むことの必要性を述べていることから、宣長以前にあった『日本書紀』研究の蓄積なくして『古事記伝』はなかったともいえる[141]。また、橘守部などは宣長の考えに対して『日本書紀』の優越性を主張しているほか、平田篤胤なども『古事記』偏重の傾向を批判している[142]。いずれにせよ、国学者が研究の対象とする古代文献は漢字で書かれているが、その中にあって純粋な漢文で書かれている『日本書紀』は、海外の表記法で日本を記した文献であるため、国学者は『日本書紀』の訓読作業に取り組み、和語に改めることで古語を知ろうとしたのであり、いわば『日本書紀』以前の古語を求める取り組みは、『日本書紀』を和文として理解することでもあった[143]。
幕末には鈴木重胤が『日本書紀伝』を著した。同書は、まず原文を挙げた後にその注釈を掲示する形態であるが、その注釈は登場する地名・氏族・人名の考証から、訓読・語義・語源など多方面にわたり、関連する資料を紹介しながらも独自解釈を示している[144]。重胤が暗殺されたことにより、神代巻の途中で中絶したが、残された部分を見ても、短時間で執筆したにもかかわらず、その内容は精緻で充実している[144]。この他には岡熊臣が『古事記伝』に倣って『日本書紀私伝』を著している。
『日本書紀』は『古事記』に比して大部なことに加え、中世以降に神代の部分が尊重されるようになっていたことや、近世期における国学の勃興もあり、明治維新の頃は腰を据えた研究がなされる状況にはなかった[146]。そうした中で欧米の方法論を取り入れた研究も少なからず現れたが、例えば久米邦武筆禍事件などに代表されるように、国学的な伝統に抗することは難しい情勢でもあった[147]。やがて明治30年(1897年)を過ぎた頃に出現したのが、飯田武郷『日本書紀通釈』である。同書は『日本書紀』全巻の注釈書で、全70巻を通して諸説を見ることができたほか、刊行当時は『日本書紀』全巻の訓読文を伴う活字本としてほぼ唯一であることなどから[145]、『日本書紀』の基本文献として昭和の末年まで版元を変更しつつ重版された[148]。
やがて皇国史観が隆盛する中で、注目すべきは津田左右吉の存在である。津田は周辺諸学の必要性に言及しつつ、厳密な文献批判に立脚した独自の学説を次々と発表したが、戦争が激化した昭和10年代に蓑田胸喜らの攻撃を受け、遂には政府から『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊が発禁処分とされた[150]。程なくして終戦を迎えると、そうした迫害から一転して津田は文化勲章を授与されるなどの栄誉を与えられ、いわゆる「津田史学」は戦後の史学研究の基礎の一つとなった[151]。とりわけ唯物史観に立脚した論者には、精緻かつ機械的な処置で利用しやすいこともあって多く引用されたが[151]、そこには津田の意図を離れて方法論のみを事実探求へ過度に利用してきた面があることは否めない[152]。
『日本書紀』は史料批判上の見地から信憑性に疑問符がつく記述をいくつか含んでいる、以下はその例を示す。
1967年12月に藤原京の北面外濠から発見された「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡により、『日本書紀』の大化の改新の詔の文書が奈良時代に書き替えられたものであることが判明している[153]。
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。
発見された金錯銘鉄剣の銘文からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)」を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命は武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。
聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した[注 25]。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀ごろの成立と考えられている。
『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという記述がある。
現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。
百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた[154]。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く[注 26]、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。
また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある[注 27]。山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている[155]。
現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている[156]。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして[157]、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている[注 28]。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある[159][160][161][162][163][164]。
現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本巻第十ならびにその僚巻に相当する巻第一の断簡)。
写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される[注 29]。神代巻(巻第一・巻第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている[166]。
以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。
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