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日本の第13代天皇 ウィキペディアから
成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、日本の第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。『日本書紀』での名は稚足彦天皇。日本で初めて行政区画を定めたとされている。考古学上、実在したとすれば4世紀中ごろに在位した大王と推定されるが、定かではない[1](#実在性)。
大足彦天皇(景行天皇)の第四皇子、母は美濃出身の八坂入媛命(やさかいりひめのみこと。崇神天皇の皇孫)[1]。景行天皇46年に24歳で立太子[注 1]。父帝が崩御した翌年に即位。即位5年、諸国に国造と稲城を置き山河で国境を定めた。即位60年、崩御。
漢風諡号である「成務天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
『日本書紀』によれば景行天皇51年8月4日に立太子、成務天皇元年正月に即位。
即位5年9月、諸国に令して、行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがた むら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った[1]。ここにおいて人民は安住し、天下太平であったという。
これらは『古事記』にも大同小異で、「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とある。序文には御間城天皇(崇神天皇)の祭祀、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の善政、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の氏姓改革に並ぶ偉業として扱われている。『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。
即位48年、3月1日に兄・日本武尊の第二子である甥の足仲彦尊(後の仲哀天皇)を皇太子に立てた。
即位60年6月、崩御。
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『日本書紀』に后妃・皇子女の記載は無い。
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[2]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)。『日本書紀』には都の記載は無いが、先代の景行天皇の行宮がそのまま宮となったと推定される。『古事記』に「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。「若帯部」が美濃国にあったことが、大宝2年(702年)の戸籍にみえる。[3]。成務天皇を架空と見る立場からは、天智天皇の近江宮のモデルを過去に投影した創作とする。
陵(みささぎ)の名は狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある遺跡名「佐紀石塚山古墳」に治定されている(北緯34度42分0.74秒 東経135度47分14.89秒)[4][5][6]。墳丘長218メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
『日本書紀』には「狭城盾列陵」、『古事記』には「沙紀之多他那美(たたなみ)」、『扶桑略記』には「池後山陵」、『百練抄』には「盾列山陵」とある。『延喜式』諸陵寮には「兆域東西一町、南北三町、守戸五烟」と見える。成務天皇の古墳は畿内ではないという有力学説も過去にはあった。成務天皇の宮が畿内に無いためであり、非実在説も宮が畿内に無いことを根拠のひとつとしている。
『扶桑略記』によれば、康平6年(1063年)3月興福寺の僧静範らが山陵を発掘して宝器を領得し、5月山陵使が遣わされて宝器は返納され、事件に座した17人は伊豆国その他に配流された。他にも勾玉などが盗掘される被害を受けている。
平安初期の承和のころには、すでに神功皇后陵とされていた。これは陵号のうち後の文字をシリと読むことを忌み、カミといって、神功皇后陵陵号とまぎれたものかという(和田英松)。のちに陵の所在を失ったが、元禄以後、多くの説が成務陵に現在の地を推し、幕末の修陵のときおおいに修治が加えられ、竣工に際しては慶応元年、広橋右衛門督が遣わされ、奉幣が行なわれた。
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[2]
先帝の大足彦天皇(景行天皇)が1月7日に宴会を開いたとき、稚足彦尊(後の成務天皇)と武内宿禰の姿が見当たらなかった。後日、なぜ宴会に来なかったかを聞かれた稚足彦尊らは「皆が国のことを忘れて楽しむときだからこそ、反逆の機会を伺う輩に備えて門を守っていたのだ」と答えた。大いに納得した先帝は稚足彦尊を太子とした。
実在説、非実在説が分かれる天皇であり、通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる[7]。また、考古学的に見ても実在した証拠はない[8]。
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