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日本の第14代皇后、および初の摂政 ウィキペディアから
神功皇后(じんぐうこうごう、旧字体:神󠄀功皇后、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。夫の仲哀天皇の崩御から息子の応神天皇即位まで初めての摂政として、三韓征伐の実施など約70年間統治したとされる(在任:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。
『日本書紀』編者が比定したとされる「魏志倭人伝」にあらわれる卑弥呼(248年没)の生涯と時代が重なる部分がある。したがって神功皇后が卑弥呼であるか、卑弥呼に近い人物である可能性は否定されていない[注釈 1]。
後述の広開土王碑文、三国史記や七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などから総合しても実在の可能性が高いが、神功皇后は卑弥呼とは約120年の差がある4世紀後半ごろの人物であるという説もある[1]。
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王、母は葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫[2]がいる。母方先祖に、新羅王子として播磨国に入った天日槍、また但馬国の清彦。
193年(仲哀天皇2年)1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。200年(仲哀天皇9年)2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。『古事記』分注の没年干支では仲哀天皇の崩御は西暦362年に比定される。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。
翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である麛坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。
明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたが[3]、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された[4]。摂政69年目に崩御。
漢風諡号である「神功皇后」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。3月、天皇が紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。
仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、事代主神、住吉三神などであることを確認した。しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。3月17日、皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、20日に層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲という者を討った。そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安(夜須)という。
3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。
仲哀天皇9年4月、松浦郡で誓約(うけい)を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には(筑紫夜須)にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。
10月、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。その勢いは船が山に登らんばかりだったという。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ[5]、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。
帰国した後の12月14日、皇后は筑紫で誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。
新羅を討った翌年(摂政元年)2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。
忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。
彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は
皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰は逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。逃げ場のなくなった忍熊王は五十狭茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。
いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な
忍熊王と五十狭茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。
摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。
摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。
摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。
摂政46年3月、斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。
摂政47年4月、新羅と百済が朝貢してきた。百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。
摂政49年、新羅を再征伐。将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、百済から宝物をもたらした。
摂政62年、新羅が朝貢してこないので葛城襲津彦に征伐させる。
摂政69年、4月に崩御。
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[7]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では磐余若桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市谷に若桜神社がある)。後の履中天皇の宮と同名であるため『古語拾遺』や『先代旧事本紀』では後者を「後磐余稚桜宮」(のちのいわれのわかざくらのみや)として区別している。
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ、北緯34度42分22.38秒 東経135度47分7.22秒)に治定されている[8][9]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「五社神古墳」で、墳丘長275メートルの前方後円墳である。
神功皇后の陵について、『古事記』では「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、『日本書紀』では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。
承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が五社神古墳とされ、文久3年(1863年)に五社神古墳が神功皇后陵に治定され、現在に踏襲されている。
2008年、宮内庁は日本考古学協会などの要請に応じ、五社神古墳の立ち入り調査を許可した。これは、考古学者の要請に応えて古墳の調査が許可された初めての例となった。ただし調査は古墳外周の表層だけとされたため、調査ではさしたる成果は上がっておらず、宮内庁調査の確認と円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。この古墳は4世紀中から末5世紀初めの築造とされていたが、円筒埴輪列によってやや新しく(5世紀)なるのではないかと推測される。
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[7]。
熊襲征伐に向かった天皇と合流するため角鹿から出発し、渟田門に着いたときのことである。皇后が船の上で食事をしていると鯛が船の傍に集まってきた。そこで酒を注いでみると鯛は酔うように浮かんだ。海人はたくさんの鯛を採って「聖王から頂いた魚だ」と喜んだ。以後、毎年同じ時期になるとに魚が酔っ払ったかのごとく浮かんでくるようになったという。伝承はともかくとして、瀬戸内海では時期によって魚が海面に浮かんでくること自体は事実である。海水の流れが急激になると浮袋が十分に機能しなくなることが原因である。この神秘的な現象について広島県三原市幸崎町にある浮鯛神社や幸崎神社では今でも祭りがおこなわれている[10]。
熊襲を征した後のことである。皇后は火前国で誓約(うけい)を行い「西の財(たから)の国を得られるならば魚はこの釣針を飲むだろう」と宣言して釣りをした。すると細鱗魚(鮎[11])が釣れた。なかなか「めずらしい」ということで、この土地は「めずら」と名付けられ、後に訛って松浦(まつら)と呼ばれるようになった。松浦の女性は『日本書紀』が書かれたころになっても4月上旬に釣針を河中に投げて魚を捕る風習を残していた。しかし男が釣ろうとしても魚は取れなかったと伝えられる。
渡海の際は、月延石や鎮懐石と呼ばれる石を陰部に挿入して塞いで腹部にさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
忍熊王を菟道に追い詰めていたときのことである。昼なのに夜のような暗さが続き、これを「常夜行く」といった。原因を占ってみたところ二人の神官を共葬したためでないかと出た。そこで聞きまわってみると怪しげな話が見つかった。この土地の神官である小竹と天野は親友だったが、小竹が病気になって死ぬと天野は血の涙を流して嘆き悲しみ殉死して共葬を望んだという。すぐに墓を暴いてみると事実だったので棺を新しく作って別々の場所に埋めた。するとすぐに日光が降り注ぎ、再び昼と夜が分かれたということである。
住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰されるようになる。武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い[注釈 2]。
大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮、京都市伏見区の御香宮神社など、いくつかの神社の祭神となっている。所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮、壱岐市の聖母宮でも祀られている。
そのほか、以下のものがある。
明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、現在では実在説と非実在説が並存している。津田左右吉は、倭国が一時新羅を圧服したのは事実だが、神功皇后は物語であって史実ではなく、6世紀前半から中葉の継体から欽明朝にかけての成立と推定した。[12]直木孝次郎は、斉明天皇と持統天皇が神功皇后のモデルではないか?の説を唱えている。井上光貞は神功皇后の物語が完成したのは、斉明天皇が660年に筑紫に遷幸し唐・新羅との戦いに備えた7世紀以降の事だと述べている(『日本国家の起源』)。大津透は神功皇后説話の成立時期は7世紀という説を載せている[13]。実在すると仮定しても皇后となるには仲哀天皇と血縁が離れすぎており、一方で香坂王、忍熊王の母である大中姫は皇后より下位の妃(みめ)と記述されているものの天皇の従姉妹なので血縁の近さを重視する古代においてはより皇后にふさわしい。大中姫が真の皇后だった場合、神功皇后と後に呼ばれた気長足姫は仲哀天皇とともに行った九州遠征で成果を出して、武内宿禰や武振熊命の協力を得てクーデターを起こしたことになる。また上記のように仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされるが、その間は天皇不在の空位である。神功皇后は摂政のまま崩御するまで息子を皇位につかせなかったことになるが、仮に女帝として即位していたのならこの不自然さは和らぐ。[要出典]
『新唐書』列伝第145 東夷 日本[14]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[15]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『宋史』には10世紀に日本から渡った僧・奝然が伝えた『王年代紀』の内容を掲載したと明記されている。『新唐書』が編纂されたのも11世紀であり、やはり『王年代紀』を参照したと考えられる。明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書もあったが、1926年(大正15年)10月の皇統譜令に基づき、皇統譜の歴代天皇から外された。
『日本書紀』には『魏志』と現存しない『晋起居注』から「倭の女王」についての記述が引用されている。『魏志』での倭の女王とは邪馬台国の卑弥呼のことであり、江戸時代までは神功皇后が卑弥呼だと考えられていた。ただし倭の女王の記述はあくまでも引用されているだけであり神功皇后と卑弥呼、台与を同一視する記述はなく、卑弥呼、台与、邪馬台国といった魏国が書き記した名称も『日本書紀』には書かれていない。神功皇后と卑弥呼を同一視させようと意図的な作意があると見る研究者もいる。『魏志』からの引用は現存する『魏志』と相違があり、特に人名・役名に相違が多いため、以下の訳文では現存の『魏志』に基づく人名・役名を示す。
以上が引用された全文である。現存の『魏志』では最初の遣使は景初2年(238年)であり、明帝(曹叡)は景初3年1月に死去している。『晋起居注』の引用では泰始を泰初とした元号の誤りがあるが、『注』が現存しないため引用の誤りとは断定できない。また泰始2年に卑弥呼は既に死去しており、この年の倭の女王は台与の可能性が高いとされている。現存する『晋書』武帝紀では泰始2年(266年)11月に倭人が朝貢したこと、四夷伝では泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したことは書かれているが、いずれも女王という記述は無い。
紀年について『日本書紀』は百済三書を参照または編入している[16]。百済王に関しては薨御年と即位年も記されている。
ちなみに『古事記』では照古王が応神天皇の時に貢物を捧げる逸話が書かれている。
肖古王、貴須王、枕流王、辰斯王は同じくそれぞれ朝鮮半島の正史である『三国史記』百済本紀の近肖古王(在位:346年 - 375年)、近仇首王(在位:375年 - 384年)、枕流王(在位:384年 - 385年)、辰斯王(在位:385年 - 392年)と考えられている。紀年が120年ずれているが、各王の在位期間がほぼ一致する。井上光貞も『日本書紀』の編者が神功皇后を卑弥呼に比定したため干支を二運繰り上げたという説を支持している。[17]ただし井上秀雄は、百済記の年紀は干支だけの簡単なものでありそれだけでは絶対年代が確定せず、『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、とみている。いずれにせよ年代がずれているだけなので、少なくとも神功皇后摂政紀においていわゆる二倍暦説は当てはまらない可能性が高い。
神功皇后55年に百済の肖古王(214年死亡)又は近肖古王(375年死亡)が死亡したことが日本書紀には書かれている。近肖古王の死亡時期を元にした年表だと神功皇后元年は321年になる。一方魏志を引用した明帝の景初三年、六月、倭女王が遣使の記述を元にした神功皇后元年は201年になる。肖古王と近肖古王の名前は似ていて干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。
ちなみに日本書紀の紀年をそのまま当てはめた戦前の説では肖古王、貴須王は肖古王(在位:166年 - 214年)、責稽王(在位:286年 - 298年)とされた。「貴須王」と「責稽王」には文字の差が大きいが、これもただの誤写だと片付けられていた。枕流王、辰斯王についてはどう考察しても時代が120年下る人物であるが、これは後代になっても百済が毎年貢物を奉じている旨を神功皇后の記事に挿入しただけであり、肖古王・責稽王の時期とは分ける必要がある。この部分については実は近肖古王を肖古王と勘違した事により書き込まれただけの可能性が大いにある。そのせいか丁度120年だけ時代がずれてしまっている。干支では同じ年代の表記になってしまう。
一方、新羅については『三国史記』新羅本紀の婆娑尼師今と、奈勿尼師今の子で倭国に人質として赴いた後に逃げ帰った未斯欣がそれぞれ『日本書紀』の波沙寐綿と微叱己知に該当すると思われるが、婆娑尼師今と奈勿尼師今では大きく時代が異なる。『三国史記』では新羅の未斯欣と百済の腆支(『日本書紀』では「直支(とき)」)はほぼ同時期に倭国の人質になっているが、『日本書紀』では微叱己知と直支の日本滞在は重ならず、80年もの差がある。
神功皇后52年9月に肖古王から神功皇后に献上された七枝刀、通説ではこの七枝刀とは石上神宮につたわる七支刀と考えられているが、その銘文にある「泰■四年」の部分の解釈にも干支の二運くりあげに関係する諸説がある。
西晋の泰始4年の西暦268年と考える。『日本書紀』における神功皇后52年は西暦252年なのでの誤差は16年と大きい。また七支刀を奉じたとされる肖古王(在位:166年 - 214年)は『日本書紀』で三韓征伐があったとされる西暦200年に在位していたと『三国史記』が伝える王ではあるが、七支刀が奉じられたと仮定される西暦252年に在位していた百済王は肖古王ではなく古尓王(在位:234年 - 286年)である。これは日本側で百済王の代替わりが認識されていなかったためと解釈されていた。
銘文にある「泰■四年」は東晋太和4年の西暦369年と考える。『日本書紀』における神功皇后52年を120年くりさげると西暦372年となり誤差は3年とかなり小さくなる。七支刀を奉じた百済王は肖古王ではなく近肖古王とする。『三国史記』ではどちらも単に肖古王と記載されているため王名に関する矛盾はない。
明治時代の改造紙幣(10円・5円・1円)にその肖像が用いられ、これが日本における最初の女性肖像紙幣となった。その原版はイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネが作成したため、西洋風の美人に描かれている。なお、中央銀行たる日本銀行発足以前の事であるためこの紙幣は日本銀行券ではなく、不換紙幣の「政府紙幣」であった。
逓信省は1908年に5円と10円の高額切手を発行したが、皇后の肖像が使われた。この肖像は紙幣のそれを参考にしたものであったが、当時5円と10円は高額であり郵便料金よりも電信電話料金の納付用に使われることが多かった。また1923年に関東大震災で印刷所が被災し印刷原版が破損したため1924年から日本人風の肖像に図案が変更された。そのため切手収集家から前者を旧高額切手、後者を新高額切手と呼ばれている。
それに先立つ明治6年(1873年)に発行された旧十円券の裏面には「神功皇后御征韓」の絵(神功皇后が海岸で、従う臣下の先頭に立って騎馬している様子)が描かれている。
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