唐津市
佐賀県の市 ウィキペディアから
佐賀県の市 ウィキペディアから
唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する市。北部地域の中心都市として栄え、佐賀県内では、佐賀市に次いで第二位の市域人口を有する。
からつし 唐津市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
![]() | |||||
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 九州地方 | ||||
都道府県 | 佐賀県 | ||||
市町村コード | 41202-3 | ||||
法人番号 | 3000020412023 | ||||
面積 |
487.58km2 | ||||
総人口 |
111,172人 [編集] (推計人口、2025年1月1日) | ||||
人口密度 | 228人/km2 | ||||
隣接自治体 |
佐賀市、伊万里市、多久市、武雄市 東松浦郡玄海町 福岡県糸島市 長崎県:壱岐市、松浦市 | ||||
市の木 | 松 | ||||
市の花 | 藤 | ||||
唐津市役所 | |||||
市長 | 峰達郎 | ||||
所在地 |
〒847-8511 佐賀県唐津市西城内1番1号 北緯33度27分00秒 東経129度58分06秒 ![]() | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
特記事項 | 市外局番0955 | ||||
ウィキプロジェクト |
旧肥前国 東松浦郡。中心市街地は唐津藩の城下町が前身。唐津神社の秋季例大祭である唐津くんちや特別名勝の虹の松原、呼子朝市などで有名で、広大な面積に多数の観光資源を有する。また、伝統工芸品である唐津焼の産地でもある[1]。
2005年(平成17年)に平成の大合併で、唐津市(旧)と、周辺の東松浦郡の呼子町・鎮西町・肥前町・相知町・厳木町・浜玉町の6つの町と、北波多村の1ヵ村が新設合併して新たに唐津市となった。また、2006年(平成18年)に七山村を編入した。
経済圏である唐津都市圏は唐津市及び玄海町で約13万人強の人口を擁しており大部分を唐津市が占めるが、近隣の福岡都市圏、佐賀都市圏方面に通勤・通学する市民も多い(旧浜玉町域は福岡都市圏の5 %通勤通学圏、旧厳木町域は佐賀都市圏の10 %通勤通学圏である)。
市域は松浦川・玉島川による平野部(唐津平野)と、上場(うわば)と呼ばれる丘陵性の玄武岩台地からなり、東は背振山地、西は伊万里湾、南は杵島山地、北は玄界灘(唐津湾)に面し、唐津湾には松浦川が注ぐ。また北西部の海岸はリアス式で出入りに富み、その地理的特徴からこの地域は古代から大陸方面の海上交通の拠点となった。
地球上における唐津市の位置として特筆すべきことは、東経130度経線が、唐津市の区域のほぼ中心を貫いていることである。このため、西九州自動車道の唐津ICの本線上に、東経130度が通過していることを示す標識が建てられている。
西は松浦川河口部付近から東の浜崎駅付近まで広がるクロマツの林は虹の松原と呼ばれ、景勝地ならびに唐津の象徴のひとつとして親しまれている。鏡山の展望台からは虹の松原および唐津市街が一望できる。東松浦半島から松浦川河口付近一帯は玄海国定公園に指定されている。
平野部では江戸時代初期に大規模な治水事業が行われ、ほぼ現在の地形となった。
唐津市枝去木(2010年2月までの観測所設置位置) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
太平洋側気候であるが、冬季に日照時間が少なくなる九州型気候区である。沿岸部においては一年を通して昼夜の寒暖の差が少なく、猛暑日・真冬日は滅多にない。台風の直撃が少なく、年間の最大風速は8 m - 12m程度で、多くは冬の玄界灘の強風や春一番によるものである。年平均気温15℃、年間降水量1992 mm、年間日照時間1783.9、平均風速2.1 m/s(平年値、1979年 - 2000年の統計)。
かつて、唐津市内のアメダス観測所としては枝去木と和多田があった。うち枝去木では、降水量・気温・風向・風速・日照時間の観測を行っていたが、観測所は標高110 m地点にあり、観測データが唐津平野部の気象状態を表していたとは必ずしも言えなかったことに注意されたい。また、和多田は降水量のみの観測であった(標高5 m)。2010年(平成22年)2月より枝去木と和多田の両観測所は、平野部の唐津市二タ子(標高23 m)に移設され、新たに唐津観測所として観測を開始した。
唐津(2010年 - 2020年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 19.5 (67.1) |
22.8 (73) |
24.9 (76.8) |
27.8 (82) |
32.2 (90) |
34.0 (93.2) |
37.3 (99.1) |
37.0 (98.6) |
35.3 (95.5) |
31.6 (88.9) |
28.2 (82.8) |
24.8 (76.6) |
37.3 (99.1) |
平均最高気温 °C (°F) | 10.0 (50) |
11.2 (52.2) |
14.8 (58.6) |
19.1 (66.4) |
24.0 (75.2) |
26.0 (78.8) |
30.2 (86.4) |
31.7 (89.1) |
27.4 (81.3) |
22.8 (73) |
17.8 (64) |
12.0 (53.6) |
20.6 (69.1) |
日平均気温 °C (°F) | 6.3 (43.3) |
7.2 (45) |
10.4 (50.7) |
14.5 (58.1) |
19.1 (66.4) |
22.2 (72) |
26.4 (79.5) |
27.6 (81.7) |
23.7 (74.7) |
19.0 (66.2) |
13.6 (56.5) |
8.1 (46.6) |
16.5 (61.7) |
平均最低気温 °C (°F) | 2.7 (36.9) |
3.3 (37.9) |
6.3 (43.3) |
10.2 (50.4) |
14.7 (58.5) |
19.3 (66.7) |
23.6 (74.5) |
24.4 (75.9) |
20.7 (69.3) |
15.5 (59.9) |
9.5 (49.1) |
4.5 (40.1) |
12.9 (55.2) |
最低気温記録 °C (°F) | −4.6 (23.7) |
−4.3 (24.3) |
−1.1 (30) |
3.2 (37.8) |
6.9 (44.4) |
13.2 (55.8) |
17.4 (63.3) |
17.7 (63.9) |
12.6 (54.7) |
7.8 (46) |
1.9 (35.4) |
−1.0 (30.2) |
−4.6 (23.7) |
降水量 mm (inch) | 75.4 (2.969) |
85.4 (3.362) |
117.0 (4.606) |
146.3 (5.76) |
125.5 (4.941) |
280.0 (11.024) |
349.0 (13.74) |
314.1 (12.366) |
191.3 (7.531) |
126.7 (4.988) |
85.7 (3.374) |
94.6 (3.724) |
1,979.3 (77.925) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 7.8 | 9.4 | 9.7 | 9.3 | 7.4 | 11.9 | 12.5 | 8.9 | 11.2 | 7.4 | 8.6 | 9.2 | 113.3 |
平均月間日照時間 | 111.2 | 118.0 | 172.0 | 186.8 | 213.4 | 124.2 | 175.2 | 219.7 | 151.4 | 166.7 | 141.3 | 101.5 | 1,890.3 |
出典1:Japan Meteorological Agency | |||||||||||||
出典2:気象庁[2] |
町・大字は唐津市の地名を参照のこと。
![]() | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
唐津市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 唐津市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 唐津市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
唐津市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
約12.8万人で佐賀県内の市町村で2番目に人口が多い(第1位は佐賀市、第3位は鳥栖市)。ピーク時の人口は唐津炭田最盛期だった1955年(昭和30年)の183,676人。
現在の市域全体を範囲に曖昧さはあるにせよ包括的に指す地名は、松浦潟や松浦川に見られるごとく、もともと松浦(まつら)が一般的であった。唐津の名はもともと17世紀初頭に松浦川河口付近に造成された城下町を指す限定的な名称に過ぎなかったが、1889年(明治22年)町村制施行によって成立した東松浦郡唐津町を母体として周辺の町村の編入と対等合併を繰り返し現在の唐津市となったことで、現在では城下町部分のみならず市域全体をもって唐津と呼ぶことが一般的となっている。
唐津神社社務所に現存する史料によると、1449年(文安6年)の寄進状に唐津大明神との記述があり、これが唐津の名が顕れる現存する最古の史料である。
縄文時代晩期には水田稲作が行われていたことが確認されている(菜畑遺跡)。魏志倭人伝に記述のある末盧国(まつろこく、まつらこく)は唐津市近辺に存在したと比定する研究者が多い。古墳時代に松浦地方を支配した豪族らによって多数の墳墓が築造された。この代表が国内最古級の前方後円墳・久里双水古墳であり、市内には多数の古墳が残されている。
律令制では肥前国松浦郡に含まれ、『肥前国風土記』によると「松浦郡、郷一拾一所、里廿六、馬伍(うまや)所、烽捌所」とある。また、現在の鏡山に当たる山は「襟振峰は郡の東にあり」と記されているから、郡衙は、鏡地区にあったと推定される。松浦の語の由来は明らかでないが、神功皇后紀(『日本書紀』巻第九 気長足姫尊)摂政前記夏四月の条に「松浦県に至り、願い事をしてから釣り糸をたれると鮎が釣れた。珍しきものと言ったことを、その所の人が名付けて梅図邏(めづら)国という。今松浦というは訛りなりと」(大意)と説明している。また、末盧国の「まつら」がそのまま地名となったともいわれる。万葉集には鏡山、玉島川、松浦川の情景が詠まれている。
平安時代からは肥前国府による統治となったが、国司政治が緩みだした平安期中頃には松浦地方各地の豪族が連合体としてこの地を支配し、松浦党と呼ばれた。現在の唐津市を含む東松浦郡・西松浦郡の地域は上松浦郡と呼ばれ、波多地区(唐津市北波多・伊万里市南波多)を拠点とする波多氏が最大の勢力だった。一族はそれぞれの所領の地名を名乗り、ほかに相知氏、佐志氏、呼子氏などがいた。また、拠点として波多氏の岸岳城(鬼子岳城)や獅子城などの城が築かれた。
戦国時代には龍造寺氏の侵略を防ぐなどしていたが、豊臣秀吉が九州征伐を開始するとこれを出迎え従った。豊臣秀吉は1591年(天正19年)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として名護屋地区に名護屋城を築城した。1593年(文禄2年)には寺沢広高が唐津藩を与えられ、上松浦地方の統治を始めた。またこの年には秀吉の怒りをかった波多氏が滅ぼされたが、地元民の同情から岸岳末孫の祟りの話がいわれるようになった。
寺沢広高は波多氏の滅亡後、岸岳城の麓に仮城を造営し仮の居城とした。広高は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。1602年(慶長7年)より唐津城の本格的な築城を行い、1608年(慶長8年)に城下町共々完成した。このとき東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、波多川(現代における松浦川)がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。広高は松浦川の流路変更(治水事業)に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。またこの頃は現在に至る唐津焼の技法が確立された時期でもあり、1615年(元和元年)には中里太郎右衛門陶房などが唐津藩の御用窯に指定されている。
広高の子の堅高は唐津藩二代藩主となったが、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は1647年(正保4年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となり、寺沢氏が改易となると唐津藩領は一時天領となった。次に慶安元年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が唐津藩主となった。1678年(延宝6年)には大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。1691年(元禄4年)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。1762年(宝暦12年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。1817年(文化14年)に、後に天保の改革を行った四代目の水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後は小笠原氏が統治した。譜代大名6家が入れ替わり、長期間による藩主家の一大支配時代が一度も到来しないまま、明治維新により唐津藩は姿を消した。
1819年(文政2年)、伊勢神宮を参拝後の帰途に京都で見た祇園祭に感動した刀町の石崎嘉兵衛が帰郷後、仲間たちと獅子の頭を製作し、唐津神社に奉納した。この後、唐津神社秋季例大祭である唐津神祭が現在のような曳山を曳く祭に変化していくきっかけとなった。後に一時期は唐津山笠とも呼称したが、その後唐津くんちと呼ぶようになった。
廃藩置県にともない唐津藩は唐津県となり、同時に唐津城は本丸が舞鶴公園となり、他の区画は民間払い下げとなり建物も破却された。その後伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県と変遷し1883年(明治16年)に佐賀県が長崎県から分離独立し佐賀県の一部となった。また1889年(明治22年)の町村制施行で東松浦郡唐津町などが発足。昭和初期までに満島村と唐津村を編入し1932年(昭和7年)に市制施行、唐津市となった。
古くから海上交通の拠点であった唐津は、この後貿易の拠点として急速に発展していった。1882年(明治15年)に当時満島にあった唐津港で唐津炭田の石炭輸出を開始。1889年(明治22年)には特別輸出港に指定され、同時に長崎税関唐津出張所が設置された(3年後に税関支署に昇格、戦後降格し門司税関に移管)。さらに後述する鉄道の開通により、以後満島の貿易機能は順次西唐津・大島へ移転し現在に至る港湾地帯を形成した。貿易額は日を追う毎に増大していったが、第一次世界大戦の影響で外資関係が先細りとなり、1920年頃をピークに貿易額は減退し、昭和初期には石炭不況や第二次大戦の影響でさらに衰退していった。
明治末期から大正・昭和初期にかけて唐津の交通は大きく発達した。1898年(明治31年)に唐津興業鉄道(後の唐津鉄道、現JR唐津線)が開通したがこれに収まらず、翌々年の1900年(明治33年)に満島馬車鉄道による馬車軌道が満島松原口(現東唐津駅) - 浜崎松原口(現浜崎駅)間に開通しその後松浦橋を経由して中心部の大手口を越え西唐津果ては佐志まで延伸された(その後石油発動機による運行となるが自動車への転換にともない廃止)。福岡方面への鉄道は1926年(大正15年)に東唐津から博多まで全通、伊万里方面は1935年(昭和10年)にようやく全通したが(ともに北九州鉄道による)、まもなく国有化された。北九州鉄道のバス事業は現在に至る昭和自動車に譲渡された。
奇しくも唐津は太平洋戦争で空襲を受けなかった。 1949年(昭和24年)5月24日、市内に昭和天皇の戦後巡幸があった。厳木中学校、舞鶴公園、唐津高校などに行幸した[3]。
唐津市における戦後復興の象徴として1953年(昭和28年)の舞鶴橋の完成が挙げられる。これをきっかけに東西臨海地域を接続する佐賀県道279号妙見満島線(産業道路)が整備された。また同年には唐津競艇が初開催した。1954年(昭和29年)には鏡村・久里村・鬼塚村・湊村を編入(人口約7万)。戦後のベビーブームと石炭積み出し港としての需要の高揚により、東松浦郡と唐津市を合わせた人口はこの頃最盛を迎え、1955年(昭和30年)の国勢調査人口は約19万人弱であった。
1955年(昭和30年)、地元財界の有力者であった昭和自動車社長の金子道雄が市長に就任。財政再建のため、翌年には財政再建団体の指定を受けた。この指定は1965年(昭和40年)に解除された。翌年、金子の計画により唐津城に模擬天守が完成。
また電力需要の増大にともない、1967年(昭和42年)唐津港妙見埠頭附近の埋立地に九州電力唐津発電所(火力発電所)1号機(15.6万kW)が運転を開始。1971年(昭和46年)には2号機(37.5万kW)が、その2年後には3号機(50万kW)が運転を開始した。さらに、1975年(昭和50年)には九州電力玄海原子力発電所1号機(55.9万kW)が運転を開始。その他既設の水力発電所なども含め唐津もとい東松浦地域は県内のみならず北部九州の電力供給の要となった。
1970年(昭和45年)には唐津競艇場が広大な土地を有する原地区(鏡)に移転。また同年には唐津市文化会館(現唐津市民会館[注釈 1])が旧唐津神社境内に開館。1980年(昭和55年)には唐津大手口バスセンターが市内大手口に開業。その翌年には複合スポーツ施設である体育の森公園が和多田大土井に開設された。
1982年(昭和57年)には国鉄唐津線の連続立体交差化事業が完成。翌年には筑肥線の電化開業および唐津線との短絡、福岡市地下鉄空港線との直通運転が一挙に行われた。
2022年(令和4年)7月から新庁舎への移転が開始され、8月15日に移転が完了した[4]。
2023年(令和5年)7月10日、梅雨前線の集中豪雨により浜玉町で土石流が発生。住宅2棟が巻き込まれて3人が死亡した[5]。
2009年唐津市長選挙 ※当日有権者数:105,221人 最終投票率:71.94%(前回比:-5.1pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
坂井俊之 | 47 | 無所属 | 現 | 43,425票 | % | |
麻生 茂幸 | 59 | 無所属 | 新 | 25,622票 | % | |
田中 路子 | 61 | 無所属 | 新 | 5,330票 | % |
唐津市・東松浦郡選挙区から選出される佐賀県議会議員の定数は6議席である。
出先機関
出先機関
果樹・米・野菜・肉用牛などの生産が主である。鏡や久里などの平野部には初代唐津藩主寺沢広高による河川改修事業の付随事業として開発された広大な水田が広がっており、現在も米の生産が主流だが、減反政策の影響で大豆などの豆類や大麦・小麦などの麦類の生産へシフトしてきている。浜玉地区には大規模な果樹園が広がり、ハウスみかんが特産である。
林業については、輸入材の影響や後継者不足により厳しい状況にあり、また水産業についても、唐津港水産基地の老朽化や人材不足により、唐津湾周辺での水揚げ量は年々減少しており、衰退の一途にある。
主な工業集積地として、唐津鉄工団地(中原地区)、唐津石志工業団地(石志地区)、岸山工業団地(北波多岸山地区)が挙げられる。旧唐津町時代は栄町・船宮町のある外町埋立地が唐津の代表的な工業地帯であった。
商業及び観光業が中心であるが、商業は近年西九州自動車道・二丈浜玉道路の整備や筑肥線の電化による福岡都市圏へのアクセス向上が原因となって、県外へのショッピング依存度が高まっており、市内商業の衰退を招いている。また、観光業についても同様の理由で日帰り観光の割合が主という傾向を示し、2010年初頭には大規模な旅館であった城内閣が営業を停止した。
1990年代から郊外にまいづる999やジャスコ唐津SC(現・イオン唐津SC)といった大型商業施設が進出し、この影響で唐津中央商店街をはじめとする市内各地の商店街では店舗の閉鎖や撤退が続き、空洞化が問題となった。中心部の大名小路地区では長年にわたり地元資本のまいづる百貨店があったが、運営会社が先述のまいづる999を開店したのち2000年に閉鎖。同社はその後まいづる百貨店の跡地付近に大型スーパーマーケット「まいづる本店ショッピングプラザ」を新設した。なおまいづる999は2021年9月30日に閉店し2023年春に新店舗を開店する予定である。
全域が0955である。
唐津・東松浦地区のケーブルテレビ普及率は全世帯に対し92.4 %となっている(調査時期は不明)[10]。ケーブルテレビに準ずる組織は以下の3局のほか、かつて、浜玉町の「ひれふりチャンネル」(1990年 - )や、相知町の「あいあいテレビ 」(1993年 - )などが存在していたが、地上デジタル放送への完全移行に伴う公共事業によりすべての共同受信組合が廃止され、唐津市有線テレビジョンに統合された。
なお、唐津市有線テレビジョンに加入した住民は、唐津ケーブルテレビジョンかネットフォーの独立チャンネルを受信することができる(地域によって受信可能なチャンネルは異なる)ほか、3局すべてにおいて唐津市の行政放送を視聴することができる。
市内の総合病院は、千代田町にある唐津地域総合保健医療センターを中心に各地に点在する。中核となる病院は唐津赤十字病院である。2005年(平成17年)4月には市が新たに唐津市民病院きたはたを開設した。
唐津市は佐賀県北部学区(唐津市・玄海町学区)に属している。北部学区は県内他学区と比して学力が低いといわれ、2007年(平成19年)度の全国学力・学習状況調査では佐賀県の順位が37位だったうえ、唐津市は県内の市町で最下位という結果だったことから、翌年度から唐津市独自の学力テストを実施している(唐津地区基礎学力テスト)[11]。また、児童生徒の学力向上を図るため、主体的・対話的で深い学びを目指した授業改善に2013年(平成25年)より9か年計画で全市的に取り組み、学力差はほぼ解消されている。
2006年(平成18年)に佐賀県立唐津東高等学校の併設中学校として佐賀県立唐津東中学校(併設型中高一貫校)が開校したほか、2010年(平成22年)には早稲田大学の系属校として早稲田佐賀中学校・高等学校が開校するなど、近年になって中高一貫校の開校が相次いでいる。
市教委は市立学校の統廃合を進めており、2009年の時点で42校ある小学校を34校に、23校ある中学校を18校にそれぞれ減らす方針を明らかにしている[12]。
2013年(平成25年)には、呼子中学校・名護屋中学校・打上中学校の3校を海青中学校(校地は旧唐津北高跡地)として統合し、第四中学校・大良中学校・切木中学校を高峰中学校(校地は現第四中学校)として統合する。
そのほか、東唐津小学校の外町小学校への統合が市議会で検討されている[13]。
上記2校はいずれも中高一貫教育を行う中学校である。
市立中学校の名称は当初ナンバリングで統一され、第一から第五まで5校存在していたが、2020年(令和2年)時点で残るのは唐津市立第一中学校と唐津市立第五中学校の2校のみである。
一部を除く市内全体で児童の減少が進んでおり、分校の廃校が順次進められている。
最寄り空港は佐賀空港および福岡空港。市内からの距離は両空港とも大差はない。しかし、JR筑肥線が福岡市地下鉄空港線へ直通運転を行っていることや、福岡市方面へ向かう西九州自動車道が市内を通っていること[注釈 3]から利便性が高く、またそもそも発着便数がかなり多いという要因も重なり、福岡空港を利用する市民の方が多い。
2011年現在、唐津市内を通過する鉄道路線の速達列車は筑肥線に快速列車が平日4往復、土休日5往復あるのみで、各都市への移動は普通列車が主体となる。周辺各都市への所要時間は、唐津駅から佐賀駅までが唐津線普通列車で最速約1時間10分、唐津駅から天神駅までが筑肥線快速列車で最速約1時間、普通列車で約1時間20分となっている。
1983年(昭和58年)まで、博多駅と長崎駅を筑肥線・松浦線・佐世保線・大村線経由で結ぶ急行列車『平戸』が設定されていたが、筑肥線の部分廃止により運行区間が唐津駅 - 長崎駅間に短縮され、1988年(昭和63年)には松浦線が第三セクターの松浦鉄道に転換されたことにより当該列車は廃止され、唐津市内の線区から優等列車が消滅した。
かつて筑肥線は、松浦川の広い河口への架橋が建設当時に技術的に不可能であったため、虹ノ松原駅から現在の線路より北側(海側)の松浦橋近くに存在した旧・東唐津駅でスイッチバックをして、松浦川の右岸を遡りながら松浦川を渡り山本駅で唐津線と接続し伊万里方面へと向かっていた。
当時から、唐津市の中心駅は中心街にある唐津駅とされていたが、当時の唐津駅は唐津線の中間駅に過ぎず、ターミナル駅の役割は列車本数・利用客とも最も多い筑肥線の旧・東唐津駅が担っていた。しかし、旧・東唐津駅は唐津市役所などのある中心街(松浦側左岸地区)から向かうには松浦川の橋を渡らねばならず、バスを利用するなどの手段が必要であったため、博多駅方面への鉄道利用は不便な状況が続いた。また、筑肥線と唐津線の接続は市街地から南に離れた山本駅に限られていたため、唐津市では中心駅の機能が唐津駅、旧・東唐津駅、山本駅の3駅に分散されていた。
これらの問題を解消し中心駅を唐津駅に一本化するため、1983年(昭和58年)の筑肥線の電化とあわせて呼子線の一部区間(虹ノ松原駅-唐津駅間)を先行して新規開業するとともに虹ノ松原駅-旧・東唐津駅-山本駅間が廃止され、唐津駅-山本駅間を唐津線と筑肥線の重複区間とした。これにより旧・東唐津駅の代替として新線上に現在の東唐津駅が設置された。なお、廃止された旧・東唐津駅の跡地は大和ハウス工業に売却され、後にアコー系のメルキュール佐賀唐津リゾートとなっている。
呼子線の残事業区間(西唐津駅以西区間)は工事が中断され、再開されることなく未成線となっている。また、唐津駅-山本駅間は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化と同時に再び唐津線のみの路線に戻り、筑肥線は分断された格好になった。
市内には玄界灘や唐津湾に小さな島が点在し、それぞれの島民の生活の足として、多数の航路が運航されている。
市内で一般路線バスを運行している業者は昭和自動車(昭和バス)のみである。市内の唐津大手口バスセンターを中心に、唐津市中心部と東松浦半島および周辺市町村への路線網が形成されている。一部の路線や便は昭和自動車タクシー事業部により乗合タクシーとして運行される。
以下の各路線が運行されている。かつては佐賀市との間を高速道路経由で結ぶ路線や、長崎市との間を結ぶ路線、京阪神方面への夜行高速バスなども運行されていたが、いずれも休止・廃止となり、現在は福岡市内を起終点とする路線のみとなっている。
※太字は唐津市内の発着地
高速自動車国道は市内には通っていない。
福岡市と唐津市などを結ぶ高速道路として西九州自動車道の整備が進められている。唐津IC以東は唐津道路として、唐津IC以西は唐津伊万里道路として供用されている。唐津道路に接続する二丈浜玉道路はかつての有料道路を無料化した区間であり、最高速度60 km/hの一般道路ではあるが区間内に交差点や信号機が一切ない構造となっている。西九州自動車道は唐津ICが市街地から離れているうえ、現状暫定2車線(最高速度 60-70 km/h)のため、福岡市と唐津市中心部の間を往来する場合は二丈鹿家ICで西九州自動車道に入らず国道202号唐津バイパスと二丈浜玉道路を通るルートのほうが短距離となる。
また、佐賀市と唐津市を結ぶ佐賀唐津道路の整備も進められている。相知長部田IC以南が供用開始されており、相知長部田IC - 牧瀬IC間は厳木バイパス(無料、交差点・信号機なし)、牧瀬IC以南は有料の厳木多久道路として供用されている。唐津IC - 相知長部田IC間は基本計画区間(未開業)となっている。
なお、唐津市内の道路で現在通行料金が発生するのは厳木多久道路のみであり、それ以外の区間はすべて無料で通行できる。
北部を日本海を望み、唐津港の湾奥には虹ノ松原と呼ばれる砂浜海岸があり、古代より大陸の唐(カラ:韓・唐)などへの玄関口(ツ:津・港)として唐の津と呼ばれ国際港として栄えた。古くから大陸との交易拠点であった松浦地方では、多くの歴史的な出来事が起こり、多彩な文化が発達した。特に16世紀終盤に松浦川河口付近に成立した城下町・唐津では商業が発達し、唐津くんちに代表される豪著で活気溢れる豊かな町人文化が育まれた。
唐津市は広大な面積を背景に多数の景勝地を有しているほか、古代から大陸の交易点であったことから、日本で初めて水耕稲作が行われた遺跡とされる菜畑遺跡をはじめ、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に拠点として東松浦半島先端部に築いた名護屋城など、多くの史跡も有している。
唐津市中心部
鏡・久里
東松浦半島
相知
厳木
浜玉・七山
夏には祇園祭、秋には浮立やくんちが市内各地で行われる。祇園祭やくんちには山笠が出る地区が多い。囃子に竹紙を貼る笛を使うのは全国的には珍しいが、唐津市内では多くの地区が竹紙を貼る笛を使っている。
唐津くんちは唐津市中心部で行われる、期間中50万人以上の観光客が訪れる唐津市内最大の祭りであるが、近年になって服装や山車に乗って采配を振るのをまねた地域があるぐらいで、行事の様式などの周囲への伝播は少ない。
かつては市内に東宝大劇や中央大劇といった映画館が複数存在したが1997年までにすべて閉館した。その後、2019年に唐津駅前の商店街内にミニシアターの「THEATER ENYA」が開館し、唐津市内に22年ぶりに映画館が開設された。
なお、これ以外の映画館を利用したい場合、福岡市内や佐賀市内にある映画館へ足を伸ばすこととなる。
方言としては唐津弁があり、唐津城下町に伝わる代表的民話『勘右衛話』(かんねばなし)にその特徴を見出すことができる。
★は故人
(山田康二と上野真之介は同期)
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.