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愛知県の城 ウィキペディアから
岡崎城(おかざきじょう)は、三河国岡崎藩(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった日本の城。徳川家康の生地である。別名、龍城。
戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている[2]。
三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより)は永享年間(1429年~1441年)に、菅生川(乙川)南岸の明大寺付近に居館を構えた[5][注 1]。この居館は「平岩城」と呼ばれた。位置は、岡崎市上明大寺町2丁目のペデストリアンデッキの徳川家康像が置かれた広場辺りであることが判明している[3][注 2]。
1452年(享徳元年)から1455年(康正元年)にかけて、西郷稠頼は、菅生川北岸の龍頭山(標高約24メートル)と呼ばれる半島状段丘の先端に、北方に対する砦を築いた。築城当時は、菅生川南に東海道が通り、明大寺が「岡崎」と呼ばれた。つまり、西郷氏の居館が旧岡崎城に当たることとなる[5]。
3代目当主の西郷信貞(松平昌安)は明大寺の平岩城を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配した[注 3]。
1524年(大永4年)、松平清康の命を受けた、家臣大久保忠茂等は奇襲により一夜にして、信貞の持城である山中城を落城。清康は信貞に岡崎城を明け渡させ、本拠を安城から岡崎へ移した[10]。
1530年~1531年(享禄3~4年)頃、清康は明大寺より龍頭山の砦へと本拠を移し、本格的な岡崎城を構えた。これが現在の岡崎城である。清康は、明大寺の地から岡崎松平家菩提寺の大林寺を城北に、安城からは甲山寺を城の北東にそれぞれ移し、菅生川の南に龍海院を建て周辺を整備した[11][5][10]。
龍頭山の岡崎城は、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年(正保2年))にわたる改修によって平城となっている[12]。この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。
本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、それに、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていた。
存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模であったが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となった。城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみである。敷地は龍城神社、岡崎公園として整備された[13]。
2010年(平成22年)3月、東隅櫓が再建された。望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建で、入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦葺き。壁は白漆喰塗り。高さ約9.4メートルで、かつて東曲輪だった岡崎公園駐車場の南東角に位置する。1781年(天明元年)の「岡崎城絵図」を基本資料としているが、東隅櫓の図面は現存しなかったため、愛媛県松山市に現存する同時代の松山城の野原櫓などの形式を参考にして、江戸時代の工法を忠実に再現し建設した。城内で発掘された石材を使い、空積みの石垣も築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの城壁と合わせ、総工費は約1億円であった。
2022年(令和4年)5月24日、市は、翌年の大河ドラマ『どうする家康』の放送にあわせ、岡崎城の展示リニューアルを行うと発表した。1〜4階の展示と5階展望台の刷新と外壁塗装、トイレの増設、照明設備のLED化などを行う。同年6月16日から改装工事に入った。改装費は1億7,777万円[14][15]。
2023年(令和5年)1月21日、リニューアルオープンした。大河ドラマの放送にあわせて同様に整備された三河武士のやかた家康館も「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」としてリニューアルオープンした。「観光みやげ店 おかざき屋」は花時計の北側に移転新築された[16][17]。 2023年現在岡崎市は、本丸、持仏堂曲輪、清海堀、風呂谷曲輪、坂谷曲輪の一部、二の丸の一部、三の丸の一部、東曲輪、隠居曲輪、管生曲輪の一部、龍城堀、総構えの一部、管生川端石垣、大林寺郭堀、総堀、管生川の復元計画や籠田総門、松葉総門、御馳走屋敷の木造復元計画もある。
北曲輪門が額田郡額田町の民家に、北門(二の門)が西尾市西浅井町の宿縁寺に、念沸堂赤門が市内東阿知和町の謁播神社に、それぞれ移築され現存する。また、市内下青野町の慈光寺に、太鼓楼を移築したものと伝わる建造物が残る。
2007年(平成19年)、材木町で発掘調査によって石垣が発見された[21]。
現地を視察した広島大学大学院教授の三浦正幸は、大林寺郭堀跡のこの石垣は、豊臣秀吉の命令で、1590年(天正18年)に岡崎城主となった田中吉政が築いたと推定している。野面の乱積みによる犬走りの構造は、1608年(慶長13年)以前の形式のためであるという。現在は住宅開発によって埋め立てられた事もあって、本丸の一部の堀が現存するだけである。
2015年(平成27年)、中心市街地再開発「乙川リバーフロント地区整備計画」の工事で河川敷を掘り起こしたところ石垣の一部が発見された[20]。この石垣は岡崎城の絵図にも描かれた江戸時代前期の石垣「菅生川端石垣(すごうがわばたいしがき)」であり、発掘調査により総延長は400mにわたり現存する城壁としては国内最長となる[20]。
石垣は地下3mにまで及び地上部分を含めると最大5mで、敵の侵入を防ぐための射撃用の突出部「横矢枡形(よこやますがた)」が3か所あり、80m間隔で続いている[20]。
岡崎城の復興天守は1959年(昭和34年)3月30日に完工式が行われ[23]、4月5日に一般公開された。以下の記述は主に『中部日本新聞』三河版連載の「岡崎城物語」(全10回)に依った[24][25]。
設計者 | 城戸久 |
施行 | 清水建設株式会社[26] (清水建設が請け負った主体工事の落札価格は3,160万円) |
構造 | 鉄筋コンクリート3層5階[27] |
高さ | 28メートル[28] |
延べ面積 | 873m2 |
総工費 | 5,700万円 (市費:3,700万円、県補助金:1,000万円、国債:1,000万円) |
城のある岡崎公園は日本さくら名所100選に選ばれた桜の名所。公園には、名物の八丁味噌を使った田楽料理を食べられる店「八千代本店」がある。
東名高速道路に岡崎城の看板が設置されているが、道路上からは見ることはできない。
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