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遠国に属する令制国の一つ ウィキペディアから
「相模」の模という文字について、現存する律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、神奈川県のうち川崎市・横浜市を除いた地域が旧相模国に該当する。ただし、旧武蔵国を過半とする横浜市のうち一部の地域は旧相模国の鎌倉郡にあたる[1][2][3]。
境川の上流部は武相国境(武蔵国との境)だった(現在は神奈川県と東京都との都県境)。
町田市鶴間・大和市下鶴間・横浜市瀬谷区五貫目町の境界点からは国境は境川から離れ、町田市鶴間・横浜市瀬谷区卸本町・横浜市緑区長津田町の境界点で東京湾と相模湾の分水嶺へ移った。なおその尾根道(武相国境道)は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の辺りから(旭区と瀬谷区の境)金沢区と鎌倉市の境まで続いた[3][注 5]。
横浜・横須賀・逗子境界標識点からは分岐し、侍従川(横浜市金沢区六浦)と鷹取川(横須賀市湘南鷹取・追浜本町)との間の尾根を通り、横浜創学館高等学校を通り東京湾に達した。
相模国は古墳時代の成務朝に成立した相武国造(さがむ-)[注 6][6]の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。
なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯国(さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない[7]。
国名の語源は不明。前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている[7]。
12世紀末に源頼朝が鎌倉を本拠地とし、以来相模国は鎌倉幕府の本拠地となった。頼朝が知行国主であった時代には、政所が国役の賦課などを行っていた[8]。守護に関しては宝治合戦までは三浦氏が守護であったとする説(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)があるが、三浦氏は元々在庁官人として相模国内の雑事を行っていたことから、相模国は守護不設置で政所とその指示を受けた三浦氏を代表とする御家人化した在庁官人がその職務を行っていたとする説もある[8]。北条氏による鎌倉幕府の支配が確立して以降は、執権が相模守となり、副執権である連署が任官された武蔵守と共に「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた[9]。
1333年に鎌倉幕府は滅亡したが、その後も建武の新政の時期には鎌倉将軍府が、室町時代には鎌倉府が置かれ関東の政治の中心であった。1428年の永享の乱によって鎌倉府は下総国の古河へ移り、関東の政治の中心の座から外れたが、戦国時代になると小田原城を本拠地とした後北条氏が関東地方に勢力を広げ、1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原城が落城するまで、再び相模国が関東の政治の中心となった。
江戸時代には小田原藩を初めとする譜代の諸藩や幕府領・旗本領となった。
相模国府の所在地は、史料では『和名類聚抄』(931年~938年編纂)と『拾芥抄』では「大住郡」(平塚市)、『伊呂波字類抄』(平安時代末~鎌倉時代初期成立)では「餘綾郡」(中郡大磯町)にあったと見えることから、所在地に変遷があったとして長く論争が行われてきた[10]。いずれも国分寺の所在地である高座郡(海老名市)と異なるため、江戸末~明治時代に「高座郡(海老名)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「国府三遷説A」が提唱された[11][12]。また大正~昭和初期には「大住郡(平塚または伊勢原市)→余綾郡(大磯)」の「国府二遷説」も浮上した[11]。さらに1950年代以降、小田原市(足下郡)で発見された「千代寺院(千代廃寺)跡[13]」を初期の相模国分寺と見て、その付近に初期国府もあったとし、「足下郡(小田原)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「三遷説B」(足柄国府説)が提唱された[12][11]。
現代の考古学の発掘調査成果では、1989年(平成元年)に平塚市四之宮の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある墨書土器が出土したことや[15]、2004年(平成16年)の湘南新道建設事業に伴う調査で同市四之宮の六ノ域・坪ノ内遺跡から国府脇殿と見られる8世紀前葉の大型掘立柱建物が検出されたことで[16]、相模国府は成立当初から平塚(大住郡)にあり、後に余綾へ移転したとする「二遷説」が有力化してきている[10][11]。
なお、小田原市千代では古代寺院跡が見つかっており、これを初期国分寺と見る説がある。ただし近年では、その寺院跡は地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視される[18]。また、同寺院跡を国分寺跡とする説の根拠の1つは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されている[18]
寒川神社は古くから現代に至るまで一宮とされている。一方で鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)も全国一の宮会に加盟しており、一宮として扱われることがある。同宮は鎌倉時代の創建で、式内社ではないにもかかわらず一宮と同格の扱いを受けた。これは、当時の将軍である源氏の氏神を京都の石清水八幡宮から勧請した宮であり、鎌倉幕府が特別扱いしたためと考えられる。
また、一宮から四宮までの4社と共に国司巡拝の神社で「一国一社の八幡宮」として平塚八幡宮(平塚市浅間町)があるが、同宮は四宮以上の4社と違って式内社ではない。平塚八幡宮を「五宮」と呼ぶことはなく神社側も五宮とは名乗っていないが、5月5日の国府祭(こうのまち)では一宮から四宮と平塚八幡宮の五社が神揃山(かみそろいやま)に集まる神事があることから、五宮格と考えられている。一方、室町時代の兵火に合うまで権勢を誇った有鹿神社は五宮とされることもある(諸説あり)が、国府祭には参加していない。
中世、後北条氏は、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)とし、近世初頭まで用いられたようである。
※日付=旧暦※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
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