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江戸時代の藩 ウィキペディアから
小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄上郡足柄下郡、駿河国駿東郡の一部などを治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。
1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原の後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が関東に入部し、東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主とした。領国は足柄上郡、下郡147か村4万石であった。1594年(文禄3年)、忠世が没すると、嫡子忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石を加増された。忠隣はさらに老中として幕閣に入ったが、1614年(慶長19年)に改易となり、小田原城は破却され、以後5年間は番城となった。
1619年(元和5年)、上総大多喜城主・阿部正次が5万石で小田原へ入封したが、4年後には岩槻藩に転封となった。小田原城は再び番城となる。
1632年(寛永9年)、下野真岡藩から稲葉正勝が8万5千石で入封した。正勝は第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の子で、正勝ののちは正則、正往と続いた。いずれも幕府の老中に就任している。この稲葉家の時代に藩の治世が確立した。稲葉氏は1685年(貞享2年)に越後高田藩へ転封する。
1686年(貞享3年)に、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で入封した。忠朝は小田原藩最初の藩主・大久保忠世から5代目にあたり、当時は幕府の老中であった。以後は幕末・明治初頭まで大久保家の支配が10代続いた。なお、大久保家の歴代藩主の多くが幕閣として活躍したが、そのために出費も重なり、財政難にあっている。
1707年(宝永4年)に富士山の宝永噴火で領内の広い範囲で農業が困難になる。翌年、藩領のうち被害が甚大な駿河国駿東郡や相模国足柄上郡、足柄下郡、淘綾郡、高座郡の約5万6384石・197か村が幕府直轄領となり、村々は復興するにしたがって小田原藩に戻された。小田原藩はその間、別の地域を領地として与えられた[1]。
譜代 - 4万5千石→6万5千石
譜代 - 5万石
譜代 - 8万5千石→10万2千石
譜代 - 10万3千石→11万3千石→7万5000石
代 | 氏名 | よみ | 官位・官職 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 忠朝 | ただとも | 従四位下 加賀守・侍従 |
1686年 - 1698年 (貞享3年 - 元禄11年) |
大久保教隆の2男 大久保忠職(忠隣の孫)の養子 |
2 | 忠増 | ただます | 従四位下 加賀守・侍従 |
1698年 - 1713年 (元禄11年 - 正徳3年) |
先代の長男 |
3 | 忠方 | ただまさ | 従四位下 加賀守 |
1713年 - 1732年 (正徳3年 - 享保17年) |
先代の長男 |
4 | 忠興 | ただおき | 従四位下 大蔵大輔 |
1732年 - 1763年 (享保17年 - 宝暦13年) |
先代の長男 |
5 | 忠由 | ただよし | 従五位下 加賀守 |
1763年 - 1769年 (宝暦13年 - 明和6年) |
先代の長男 |
6 | 忠顕 | ただあき | 従五位下 加賀守 |
1769年 - 1796年 (明和6年 - 寛政8年) |
先代の長男 |
7 | 忠真 | ただざね | 従四位下 加賀守・侍従 |
1796年 - 1837年 (寛政8年 - 天保8年) |
先代の長男 |
8 | 忠愨 | ただなお | 従四位下 加賀守 |
1837年 - 1859年 (天保8年 - 安政6年) |
先代の孫 大久保忠脩の長男 |
9 | 忠礼 | ただのり | 従五位下 加賀守 |
1859年 - 1868年 (安政6年 - 明治元年) |
讃岐高松藩主松平頼恕の7男 |
10 | 忠良 | ただよし | 従五位下 加賀守 |
1868年 - 1871年 (明治元年 - 明治4年) |
相模荻野山中藩主大久保教義の長男 |
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