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河越 直重(かわごえ ただしげ / なおしげ)は南北朝時代から室町時代初期の武蔵国の国人。武蔵平一揆の中心人物の一人。武蔵河越氏最後の当主。河越高重の子。河越館城主。
生誕年は不明だが、足利直義が相模守として成良親王を奉じて鎌倉にいた期間[2]に元服をし、「直」の字も直義から偏諱を受けたものとされている[3]。建武元年(1334年)の「関東廂番定書写」には鎌倉を守る関東廂番衆の一番に父・高重(河越次郎高重)の名がみられる[4]が、『園太暦』康永4年(1345年)8月17日条には「出羽守平直重天龍寺造営功」[5]とあり、この間に高重から直重への当主の交代があったとみられる[3]。
1352年の武蔵野合戦の小手指原の戦いで、武蔵平一揆を率いて足利方の先鋒を務め、足利直義派が加勢した新田勢を破る。その後、東国における代表的な足利尊氏派の一人として、武蔵国比企郡の笛吹峠の戦いでは新田義宗を越後国に、宗良親王を信濃国に敗走させ、その功で1353年には相模守護職に任じられる。 文和2年(1353年)8月、尊氏が京都へ戻る際には鎌倉の留守を任された。
延文4年(1359年)10月5日、関東管領畠山国清に従い関東勢20万余を率いて上洛した。『太平記』によると、直重は粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む「ばさら大名」の1人であり、濃紫・薄紅など様々な色に染めた30頭の馬を引き連れた入京で、京の人々の度肝を抜いた。しかし反発も買ったようで、その夜泥棒に入られている。翌年7月、畠山国清・細川清氏らとともに摂津国天王寺に出陣し仁木義長を破った。
康安元年(1361年)11月、畠山国清が足利基氏と対立して鎌倉を出奔し伊豆で挙兵すると、その翌年9月には基氏に従い討伐軍として参加、国清は斬殺となった。基氏の下で旧「直義派」の上杉憲顕が関東管領として復権すると、貞治2年(1363年)、相模守護職を解任される。
応安元年(1368年)2月、上杉憲顕の留守を狙い反乱を起こすが敗れ、伊勢国に敗走した。
こうして、平安時代から武蔵国の武士団の棟梁で、「武蔵国惣検校職」をつとめてきた名門河越氏は400年の歴史の幕を閉じた。
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