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鎌倉幕府の職名。執権の補佐役 ウィキペディアから
連署(れんしょ)は、鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」である。幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの名がある。執権複数制とも称される。
嘉禄元年(1225年)、北条泰時が叔父の北条時房を任命したのが最初。貞応3年(1224年)、北条義時の死去の直後、北条政子の発案によって設置されたと『吾妻鏡』に記されており、長らく信じられてきたが、上横手雅敬によって連署の設置は政子の死後に行われたことが論証された[1]。『明月記』によると同年7月13日の時点で時房は再入京しており、翌嘉禄元年(1225年)6月15日まで六波羅探題として在京して活動している。その間の時期の関東下知状は泰時の単独署判で発給されており、時房が泰時と並んで連署を行うのは嘉禄元年に鎌倉に下向してからのことであるため、時房の連署就任は実際には嘉禄元年6月以降と考えられる[2][3]。発足当初は連署という職名は存在せず、初代連署であった時房もまた「執権」として扱われており、鎌倉幕府には「両執権体制」が敷かれていた。表面上、泰時と時房は同じ執権として対等な関係にあったが、実質的には泰時の権限の方が優越していたという。しかし、名目上とはいえ、複数の執権体制が置かれたことは、合議制を尊重する泰時の姿勢、信条の反映であった[4]。また、長又高夫は時房との執権二人制のみならず、執権の役職そのものが合議制の成立に伴って泰時によって創られたもので、軍営御後見(将軍の後見人)であった泰時に実権はあったものの、政所別当の筆頭に時房を据えて自らは次席の別当に就くなど、一族内の基盤が強いとは言えなかった泰時は時房に敬意を尽くすことで一族の求心力を維持したとしている[5]。一方で、石井清文は義時死後の時房の動向を検証し、上横手説には時房の鎌倉滞在時期についての誤りがあり(特に元仁2年(1225年)正月の時房による垸飯について説明できないとする)、やはり政子の発案であったと考えるべきであるとする見解を示すと共に、政子死去以前には泰時と時房の間で権力闘争が起きていた可能性を指摘している[6]。これに対して森幸夫は、市河文書の中に泰時が時房の家臣本間氏に対して鎌倉武士の人事について書き送った貞応3年11月13日付書状があることから、もし泰時と時房がともに鎌倉にいるならわざわざ書状を送る必要はないため、やはりこの時点でも時房は在京していたとして上横手説を支持している[7]。時房はこの時期、六波羅探題の職務を務めながら在京御家人のように京と鎌倉を往復していたとする推測もある。
7代執権を務めた後、連署に再任した北条政村が連署在任中に死去した際、肥後の菊池武房が、「連署が亡くなられたので鎌倉に参上したいのだが異国のことがあるため行けないので代理を派遣する」という趣旨の書状を鎌倉に送っており、連署が亡くなると地方の有力豪族が弔慰のために鎌倉に参上することが慣行となっていたようである。それは同時に、幕政における連署の強い影響力を示唆している。
通常、北条氏一門の中の有力者が就任した。連署は武蔵守に任官され、相模守となった執権と共に「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた[8]。
注:日付は旧暦
鎌倉幕府滅亡後、武家社会では連署という職名はほとんどみることができないが、本署をする責任者の隣りに連署する者を加判、加判衆などと呼んだ。
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