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武蔵国司(むさしこくし)は、武蔵国の国司。武蔵は延喜式の定める大国(たいごく)であるため、守(1名)・介(1名)・掾(大・少、各1名)・目(大・少、各1名)の他に司生(3名)など9名前後を置いた。但し、宝亀6年(775年)には少目2員と増員している。[1]。養老律令の官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、大介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。10世紀末には武蔵国府が衰亡し、令制における国司の実質は廃れたと推定される。
大宝元年(701年)の大宝律令にて天平宝字元年(757年)国司を置くことを定める。武蔵国においては大宝3年(703年)7月に引田祖父が武蔵守に任じられたとする(『続日本紀』)。天平宝字元年(757年)の官位令にて、国司の官位相当が定められる(武蔵国は前述の通り)。9世紀に入ると、国司を在庁官人として支える郡司層や私出挙等で肥大化した富豪層等の在地有力層の台頭が国衙支配を左右し始め、また庸・調等の納税の質の低下や未進が相次ぐなど、律令体制に次第に弛緩と乱れが生じた。とりわけ武蔵国においてもその傾向は顕著に現れた。たとえば 貞観年間に武蔵国司の蔵宗が反乱を起こしたため、当時の朝廷はその鎮圧のために天台宗の僧侶「恵亮」を武蔵国に派遣[2]。貞観3年(861年)には国別に設置される検非違使が武蔵国はとくに各郡別に置かれるほどに乱れていた[3]。
10世紀に入ると、延喜5年(905年) - 延長5年(927年)の延喜式にて国司の細目が規定(康保4年(967年)施行)され更に制度上の整備が進められた[4]。しかし、台頭した地元富豪層は在地の郡司層や土着した前任国司と糾合してさらに国衙支配を動揺させていた。武蔵国では延喜19年(919年)、前権介の源仕(みなもとの つこう)が官物の横領・国府の襲撃を働き、武蔵守・高向利春(たかむこの としはる)を攻めようとした(『扶桑略記』)。このような流れのなかでその後、武蔵国では暫く国守が着任せず、中央から興世王が権守に、源経基が武蔵介にそれぞれ着任していた。彼らは在地の足立郡司で有能かつ有力な国府在庁官人であった武蔵武芝と対立し、下総国で一族と紛争中であった平将門を調停に招く[5]。承平元年(931年) - 天慶元年(938年)、興世王と武芝の和解は成るが、経基は朝廷に非儀を訴えて国衙から逃亡。更に、ようやく国守に着任した百済王貞連と興世王の対立となり、いわゆる平将門の乱に発展し武蔵国府は平将門の配下に置かれ、国司の除目は新皇と自称した将門によって執行された(興世王が引き続き権守)。天慶2年(939年)6月には経基の訴えが朝廷に認められ、武蔵権介となった小野諸興らが押領使に任ぜられ、将門追捕の官符が発せられた。翌940年(天慶3年)に将門は討ち取られて乱は鎮圧された。功賞として下野国押領使・藤原秀郷が従四位下・武蔵守および下野守に任ぜられた(「扶桑略記」)。
この天慶の乱の影響として武蔵など板東諸国は、将門鎮圧に参加した押領使の小野諸興・藤原秀郷・平貞盛等にみられる圧倒的な軍事力を各国衙機構の内に取り込んで国衙支配力が強化されることになった。ついで10世紀後半には国衙支配の強化の一環として国司のうち国守への権限の集中化が進められた。すなわち、徴税権・軍事権を含む一国の権限を一括支配する「受領国司制」が成立した[6]。
11世紀に入ると、受領国司は現地に着任せずに「受領国司制」も形骸化し国衙は目代が置かれ留守所と呼ばれるようになり、目代以下の在庁官人に支配権は委ねられるようになった(「在庁官人制」)。その一方、開発田が増加・成長し国衙の公領以外にも私領である荘園が発展し、一元支配的「公地公民制」から複層的支配関係の「荘園公領制」へと変わっていったが、在庁官人制を支えた在庁官人も多くはこの様な開発領主である。武蔵国でも同様に在庁官人制が進展し、前掲の平氏一門出身の秩父氏や小野氏および日奉氏等の在地の有力領主は在庁官人を担う一方で次第に武士化して武士団を生み出した。
12世紀には在庁官人制の進展と共に中央では着任することのなくなった受領国司は名目的な地位と知行得分の権利者を意味する知行国主となり近親者や股肱の配下に国守を任せることも行われ、いわゆる「知行国制」が広まった。康和5年(1103年)には白河上皇の尊勝寺造営費用を寄進の功で藤原行実や源顕俊が武蔵守に任じられたのは、白河院の近臣の源雅俊がこの頃の武蔵国の知行国主であったためと考えられている[7]。
平氏政権では政権確立にこの知行国制を積極的に利用した。その中心人物である平清盛も武蔵国の知行国主であったと推定されている。
また在地では上記のごとく、武蔵国の在庁官人から中世武士団が輩出した。武蔵権守・平将常を祖とする秩父氏は将常の孫・重綱が留守所の総検校職に任ぜられて以来、同職を相伝し武蔵国内の武士団を統率した[8]。また武蔵国多磨郡小野郷(現在の東京都府中市または同多摩市と推定される地域)の小野牧別当出身の小野氏は小野諸興が先述の武蔵権介兼押領使として着任、以後在庁官人として活躍したが、小野義孝は横山氏を称して武蔵七党横山党の祖となった。日野宮神社の社家出身と目される日奉氏は宗守が武蔵権守となり、11世紀以降に在庁官人職を一族で分け持ったが、これも武蔵七党の一つ西党(小川氏・由井氏・細山氏など)の祖となっている。これらの武士団はのちに鎌倉幕府を支える主要な御家人を輩出した。
源頼朝による鎌倉幕府の成立以後、征夷大将軍・頼朝の関東御分国における知行国主権によって配下の御家人に国守補任への推挙が行われるようになった。
北条氏による支配が確立してからは、相模守となった執権に対して、副執権である連署が武蔵守に任じられるようになり、執権・連署は「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた[9]。
※日付=旧暦 ※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
*印『大日本史』「国郡司表」による(以下同じ)。
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