筥崎宮
福岡市東区にある神社 ウィキペディアから
筥崎宮(はこざきぐう)は福岡県福岡市東区箱崎に在る神社。式内社(名神大社)、筑前国一宮[注釈 1]。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。大分県宇佐市の宇佐神宮、京都府八幡市の石清水八幡宮とあわせて三大八幡宮と呼ばれる[注釈 2]。
社名
「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であり「箱」ではない。ただし筥崎宮の所在地・駅名など地名「はこざき」は筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して畏れ多いとして「箱崎」と表記する。[要出典]
- 筥崎宮の神紋(左三つ巴)
祭神
歴史

創建に関しては複数の説がある[5][6] が、公式サイトでは延喜21年に建立された説が紹介されている[5]。延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神として筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる[5]。延長元年(923年)に現在地に遷座[5]。『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。
元寇の際に亀山上皇が敵国降伏を祈願し、このときの御宸筆は安土桃山時代に模写されて神門に「敵國降伏」の扁額として掲げられた[5]。以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。
近代社格制度のもと明治4年(1871年)に県社に列格した。明治18年(1885年)に官幣中社に、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した[5]。
年月日 | 参拝者 | 備考 |
---|---|---|
1900年(明治33年)10月28日[7] | 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)、有栖川宮威仁親王 | 松を手植え。威仁親王は東宮補導としての供奉。 |
1902年(明治35年)11月16日[8] | 久邇宮邦彦王 | 時の歩兵第24連隊長である仙波太郎が随行。 |
1903年(明治36年)10月15日[8] | 有栖川宮威仁親王 | |
1906年(明治39年)11月15日[8] | 小松宮頼子妃 | |
1910年(明治43年)4月18日[8] | 閑院宮載仁親王、智恵子妃 | 侯爵鍋島直大同夫人、福岡県知事寺原長輝などが随行。 |
1917年(大正6年)5月16日[8] | 朝香宮鳩彦王 | |
1918年(大正7年)3月22日[8] | 北白川宮成久王 | |
1920年(大正9年)4月7日[9] | 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇) | 濱尾新東宮大夫、伯爵東郷平八郎などが随行。松を手植え。 |
1921年(大正10年)4月10日[9] | 朝融王 | |
1922年(大正11年)3月21日[9] | 貞明皇后 | 大森鍾一皇后宮大夫、千種任子などが随行。 |
1923年(大正12年)5月15日[10] | 久邇宮邦彦王、俔子妃、良子女王(後の香淳皇后)、信子女王 | |
1924年(大正13年)5月3日[11] | 北白川宮大妃富子 | |
1924年(大正13年)5月8日[11] | 高松宮宣仁親王 | |
1925年(大正14年)2月20日[11] | 秩父宮雍仁親王 | |
1925年(大正14年)4月18日[12] | 博信王 | |
1925年(大正14年)12月16日[12] | 萩麿王 | |
1926年(大正15年)11月6日[12] | 賀陽宮恒憲王 | |
境内
要約
視点
境内の主要な建築物等の施設は次のとおりである。
また、博多湾に面する一之鳥居から本殿まで約850メートルの長大な参道が続く。参道の手前の箱崎浜一帯は、以前は白砂青松とうたわれた美しい海岸線を誇っていたが、博多港修築により1936年には護岸整備され、現在では北側に箱崎ふ頭、南側に東浜(東浜ふ頭)と博多港の倉庫などの施設が並び姿を一変させている。参道の先の海岸は清めの
- 境内の主要な施設の写真
- 大鳥居(2018年4月撤去)と石灯籠
- 鳥居とお潮井浜
- 筥崎宮の二之鳥居
- 神苑花庭園
- 高燈籠
- 浜宮(はまみや)
主な祭事
- 1月3日:玉せせり(玉取祭)[19]
- 締め込み姿の男たちが(幸運を授けると言われる)木製の宝珠を奪い合いながら本殿に納める。
- 1月11日:承天寺一山報賽式[20]
- 春分に近い戊の日:春の社日祭(お汐井とり)[21]
- 清めの真砂を箱崎浜で貰い受ける。家や田畑にまいて家内安全や豊作を祈願する。
- 6月末:池島殿大祭[22]
- 7月1日、9日:お汐井とり
- 博多祇園山笠の舁き手が身の清めのための真砂を箱崎浜で取る。
- 7月7日:七夕祭[23]
- 7月末:夏越祭[24]
- 9月12日 - 18日:
放生会 ()[25] - 秋分に近い戊の日:秋の社日祭(お汐井とり)[26]
- 12月31日:御胞衣祭(大祓式・なまこ餅つき)[27]
文化財
重要文化財(国指定)
- 本殿 - 室町時代後期(1545年)の建立。九間社流造、檜皮葺。1907年(明治40年)5月27日指定。
- 拝殿 - 室町時代後期(1545年)頃の建立。桁行四間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺。1907年(明治40年)5月27日指定。
- 楼門 - 安土桃山時代(1573年 - 1614年)の建立。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺。1902年(明治35年)4月17日指定。
- 一の鳥居 - 安土桃山時代(1609年)の建立。石造明神鳥居。柱に慶長第十四太歳舎己酉季秋中旬の刻銘がある。1955年(昭和30年)6月22日指定。
- 石燈篭 - 南北朝時代(1350年)の建立。1962年(昭和37年)2月2日指定。
- 楼門正面
- 石造一ノ鳥居
- 楼門の扁額
- 筥松
福岡県指定文化財
- 筥崎宮の禁断碑
- 筥崎宮秋祭遷幸之図
- 亀山上皇御尊像(木彫像) - 銅像は東公園に建立。
福岡市指定文化財
- 御油座文書写
- 建徳銘梵字板碑
- 筥崎宮出土瓦経
- 南懐仁の大砲
- 筥崎宮神幸行事
- 南懐仁の大砲
筥崎宮の勅額切手
→詳細は「敵国降伏切手」を参照
前述のように元寇の際に亀山上皇が「敵國降伏」を祈願し、その時の勅額が楼門に掛けられている。大東亜戦争(第二次世界大戦)末期の1945年(昭和20年)、逓信院(現・日本郵便)は戦意発揚と戦勝祈願のため、この勅額をデザインした普通切手を発行した。物資不足に伴い、印刷は黒一色で、目打が省略されたものも製造された。しかし、全国の郵便局に行き届く前に終戦を迎え、1947年(昭和22年)、「意匠が軍国主義、神道等の象徴に関係ある郵便切手及び郵便葉書使用禁止に関する省令」(昭和22年逓信省令第24号[28]。別名追放切手に関する省令)によって郵便に使うことが禁止となった。なおこの切手は2021年(令和3年)現在でも、東京都千代田区の東京中央郵便局で現行の切手や葉書と交換することが出来る。
→「日本の普通切手 § 日本の切手の有効性」、および「日本切手 § 概要」も参照
登場作品
- 謡曲『唐船』
- 謡曲『箱崎』
交通手段
所在地
交通機関等
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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