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无邪志国造(むざしのくにのみやつこ、むざしこくぞう)は、のちに武蔵国東部となる地域(无邪志国)を支配した国造である。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」において无邪志国造条の次に胸刺国造条があるが、この2国造は同一のものであるとする説と別であるとする説がある[注釈 1]。
无邪志氏(むさしうじ、姓は直)で、出雲臣と同系であり、同族に相武国造、上海上国造、下海上国造、新治国造等がいる。『日本後紀』弘仁二年九月条に出羽国人の无邪志直膳大伴部廣勝の名が見える。
以下に記載する氏族などが一族である。
无邪志国造の支配領域は当時无邪志国と呼ばれていた地域である。无邪志国はのちの令制国の武蔵国にあたる[5]。ただし、秩父(知々夫国造の支配する知々夫国だった)を除いた範囲をさすとする説もある。現在の埼玉県と東京都の境界周辺、荒川流域にある[6]北足立郡・入間郡・旧大宮市[5]に当たる。
地名の起源については、武蔵国#「武蔵」の国名を参照。
无邪志国は知々夫国造の支配した知々夫国と合わさって7世紀に令制国の武蔵国となった。当初武蔵国は東山道に所属していたが、771年に東海道に移管された。
『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、无邪志国造の祖は兄多毛比命であるが、彼が実在するのか本貫地は何処なのかは不明である。しかし、大型古墳の動態から見れば、南武蔵か比企が有力な候補地となる。
その後、无邪志国造が葬られていると考えられる埼玉古墳群の先代に当たる本貫地について、増田一郎は比企に(雷電山古墳を乎獲居臣の祖父・半弖比の墓に)比定しており、金井塚良一も野本将軍塚古墳が埼玉古墳群の故地であると推察している。それに対して中村倉司は、荒川の左岸地域にある、熊谷市の女塚古墳、横塚山古墳、鎧塚古墳、行田市のとやま古墳、大日塚古墳、大稲荷1号墳、鴻巣市の新屋敷60号墳や大里郡・児玉郡などを埼玉古墳群の故地であるとしている[20]。
稲荷山古墳主の国造就任の経緯は不明であるが、その後は埼玉古墳群の盟主墳が国造職を世襲したことが定説化している。そのため、稲荷山古墳出土鉄剣製作の約60年後の丸墓山古墳当時の国造は笠原直であったと考えられる。笠原直家の初代武蔵国造は稲荷山古墳の主(乎獲居臣の父である加差披余か)であり、2代は二子山古墳の主であると考えられる。そして、3代目をめぐる時期には、稲荷山古墳の主の近親者も財力を蓄え勢力を有するようになった。こうして笠原使主と小杵の争乱(武蔵国造の乱)が勃発した。この時期、埼玉古墳群では盟主墳が継続して築造されている。つまり、この争乱に勝利した使主の墓は、本家を継承した人物であり、それは丸墓山古墳ということになる。その後、古墳の建物時期から、盟主墳である将軍山古墳の主と鉄砲山古墳の主が国造職を歴任したと考えられる[20]。
中村倉司は、6世紀末には、傍系家の埼玉古墳群周辺の真名板高山古墳(栢山天王山塚古墳)、小見真観寺古墳、八幡山古墳の各古墳の主などに国造職が継がれていったとしている。『聖徳太子伝暦』によれば、聖徳太子の舎人となって功を上げたことで、633年に物部兄麻呂が武蔵国造に就任しており、兄麻呂の墓は八幡山古墳の被葬者とする説がある。事実だとすれば、争乱後100年を経ても埼玉古墳群の家系は国造職を世襲していることが想像される[20]。
奈良時代後期の武蔵国造の末裔であり、足立郡の人物である丈部不破麻呂に至る時点でも武蔵国造家は同族が世襲している[20]。
埼玉古墳群は笠原使主一族の古墳群であるのに対して、小杵の墓については、丸墓山古墳(この場合笠原使主の一族と同じ場所に古墳を建造したことになる)、南武蔵、比企郡、児玉郡、大里郡など様々な説がある[20]。
笠原直氏と同族である小杵は、埼玉古墳群成立(稲荷山古墳)以降に分家した可能性があり、もし稲荷山古墳→二子山古墳→丸墓山古墳の系譜がそれぞれ親子関係にあるとすれば、小杵は稲荷山古墳の主の2代後、二子山古墳主の次代の人物となる。丸墓山古墳の主と考えられる使主と同世代の小杵にとって、稲荷山古墳の主は祖父、二子山古墳の主は親か伯父ということになり、使主とは従兄弟か再従兄弟の関係になる[20]。
小杵が本宗家から分家した先は、笠原直氏と同族であることから埼玉古墳群周辺であると考えられる。磐井の乱の結末と同様に、誅殺された小杵の一族が没落していないとすれば、それに見合う盟主墳を有するのは、大里甲山古墳のみとなる。ここは「横渟屯倉」の比定地にも近接している。大里甲山古墳の付近には、小杵の死後もとうかん山古墳が築造されるなどしており、一族が没落していないと見ることができる。しかし、若松良一は、甲山古墳を小杵の墳墓に補する説を否定している[20]。
なお、小杵の分家を1代前(二子山古墳の段階)と考えると、甲山古墳に先行する古墳が存在す る可能性がある。その候補は、当古墳と近い位置にあり、前方後円墳であったと思われる楓山古墳と東山古墳である。但し両古墳とも今は消滅しており、その真偽を検証することはできない。前者は、『埼玉縣史』に「楓山古墳よりは銅鏡・石製鏡・勾玉・石小刀・鈴環・須恵壺・土製鈴・埴輪馬等を出し」と紹介されている。塩野博は、出土遺物(鏡・石製模造品・環鈴)から5世紀末から6世紀前半代、金井塚良一は6世紀前半に比定している。東山古墳については全く不明である[20]。
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