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遠国に属する令制国の一つ ウィキペディアから
大和朝廷は7世紀半ばから9世紀初めにかけて、蝦夷の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために蝦夷の地に城柵を設けた。先ずは木ノ芽峠が西端で弥彦山が北端だった越国を拡大して、柵を建てた。大化3年(647年)に渟足柵(ぬたりのき:新潟市)[1]、大化4年(648年)に磐舟柵(いわふねのき:村上市)[2]、斉明天皇4年(658年)に都岐沙羅柵(つきさらのき/ときさらのき:アイヌ語の地名の別称か、所在地不明)であり、これらのうち渟足柵と磐舟柵は現在の下越地方に当たる。
7世紀後半に越国から磐舟・渟足の2郡が分離されて越後国が設置された。その後は北方に勢力を拡大し、和銅元年9月28日[3](708年11月14日)に出羽郡を設置し、前後して出羽柵(庄内地方)を築造した。
和銅5年9月23日[4](712年10月27日)に出羽郡は出羽国に昇格し、同年10月1日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて国としての体制が整った[5]。その後、東国・北陸などの諸国から800戸以上の柵戸を移住させた。さらにその後も柵戸や公民[注釈 3]を中心とした郡制施行地を拡大していった。
出羽国成立当初のランクは不明であるが、律令制の下で上国[6]とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の陸奥国もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側に置かれた。例えば、両国を統括する按察使は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国と並び黄金を産した。
以後は、陸奥国と並ぶ辺境の国となり、天平5年(733年)頃には雄勝郡を設置し、また同年12月26日に出羽柵が秋田村高清水岡(秋田市)に移された。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、天平宝字3年(759年)には雄勝城の設置に合わせ、改めて雄勝郡・平鹿郡が置かれた。天平宝字4年(760年)頃、出羽柵は秋田城へと改変された。以後も俘囚の反乱が相次いだため、宝亀11年(780年)に秋田城の放棄が検討されたが、次官国司である出羽介が秋田城介として常置されることとなった。この頃、国府機能が城輪柵(きのわき:山形県酒田市)に移された(#国府)。陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降に秋田城介が空位になると、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。
延暦23年(804年)、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となった。ただし機能が完全に停止されることはなく、陸奥側の北部4郡が放棄されたのと異なり、俘囚の主とされる清原氏は在庁官人として力を蓄えたと見られている。8世紀に河辺郡が置かれ、山本郡(後の仙北郡)が平鹿郡から分離するなど、徐々に領域を北へ伸ばした。仁和2年(886年)には最上郡から村山郡が分離し、その後延喜年間までに出羽郡から飽海郡・田川郡が分離したと見られている。最終的に、出羽国が管理したのは11郡58郷であった[7]。なお、平安時代まで出羽は「いでは」と読んでいた。
天長7年(830年)、嘉祥3年(850年)には大地震に見舞われた。830年の天長地震は『日本後紀』に秋田城近くの大きな川の水が無くなったことが、850年の出羽地震は『日本三代実録』に津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったことが記されている[8]。
秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる紫波郡が出羽国管轄の「志波村」とされているなど、陸奥との境界は不明瞭であった。平安時代末期には奥州藤原氏の支配を通じて、出羽国府の直接管轄地よりも北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国比内郡(戦国時代以降は秋田郡北部)、鎌倉時代初期には河北郡(当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国檜山郡を経て江戸時代以降は山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。
清原氏が後三年の役で滅亡した後、これに代わって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては押領使や鎮守府将軍としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権[注釈 4]及び鳥羽天皇御願所としての中尊寺を介しての寺領支配[注釈 5]の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。
奥州藤原氏が奥州合戦で滅亡し、残党が出羽で起こした大河兼任の乱も鎮圧されると、頼朝は出羽国に橘氏(小鹿島氏:秋田県男鹿市)、平賀氏(平鹿郡)、小野寺氏(雄勝郡)、武藤氏(大宝寺氏:庄内地方)、大江氏(長井氏:置賜郡、寒河江氏:村山郡寒河江荘)、中条氏(村山郡小田島荘)、二階堂氏(最上郡成生荘)、安達氏(最上郡大曾根荘)等の御家人を地頭として配置した。しかしそれ以降も、由利地方以南はしばらく在地領主層(由利氏等)が在庁官人としての権益を保っていたことが『吾妻鏡』に見える。葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から陸奥国へ移り平泉の統治を任され、奥州惣奉行職に就任して以後は米代川流域も葛西氏の勢力範囲となった。
中世前半を通じて北部では公領制、南部では荘園公領制が貫徹され、基本的には鎌倉幕府の統制の元、国府留守所は維持されていたが、南北朝時代を境に領主間の争いが活発化した。津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山安東氏、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した戸沢氏(仙北郡)、小野寺氏(雄勝郡)、大宝寺氏(庄内)、寒河江大江氏(寒河江荘)、陸奥大崎氏の庶流である最上氏(最上郡)、最上氏の更に庶流である天童氏(最上郡・村山郡)、陸奥から進出した伊達氏(置賜郡)などが支配した。
出羽国南部では、伊達稙宗が最上義定との戦いに勝利すると妹を嫁がせ優位に和議を結び、義定が継嗣を残さず死去すると妹を介して影響力を強めた。最上の諸将が反発すると最上領に侵攻し、最上氏の傀儡化に成功するなど村山地方全域にまで影響力を広げた。大宝寺氏は庄内地方で勢力を広げ全盛期を築き、安東氏は秋田県北部、小野寺氏は仙北から最上地方への進出を果たした。しかし、伊達氏において天文の乱が発生すると最上氏が介入して独立を果たし、最上氏で天正最上の乱が起こると逆に伊達氏が介入し激しく争った。両氏の間で和議が成立すると、最上氏は村山地方・最上地方・庄内地方に順次勢力を拡大し、在地勢力を駆逐・懐柔していった。最上氏と大宝寺氏が争うと、大宝寺氏は越後の上杉氏を頼ったが、家臣の謀反により庄内地方は最上氏の支配下に入る。その後、大宝寺義勝を奉じた本庄繁長により奪取されることになる(十五里ヶ原の戦い)。この戦いは惣無事令違反であったが、上杉氏が豊臣政権内で有力な立場であったことから、奥州仕置で上杉氏の領地となった。この奥州仕置によって伊達氏は置賜地方を失い、代わりに蒲生氏が入った。蒲生氏郷が早世した後、上杉家臣の直江兼続が置賜地方を支配し、関ヶ原の戦いを迎えた。
一方、出羽北部では安東氏(戦国末期に秋田氏へ改姓)が下国家と湊家を統合して勢力を強めたが、安東愛季が死去すると後継者争いが発生し(第三次湊騒動)、これが惣無事令違反と見做され大幅に領地を減らされた。小野寺氏、戸沢氏は所領を安堵されたが、仙北・由利地方で仙北一揆が発生し小野寺氏は減封された。
会津征伐のため北上した徳川家康は下野小山で石田三成挙兵の報に接し、反転西上を開始する。山形に集結していた東軍に属する東北地方の領主らも、自領へ引き上げてしまう。孤立を恐れた最上氏は上杉氏との和議を模索するが、上杉領庄内への侵攻計画が露呈し、上杉氏は最上領への侵攻を開始する(慶長出羽合戦)。直江兼続率いる上杉軍は最上氏の拠点を多数落とすが、長谷堂城攻略中に関ヶ原での西軍敗北の報に接し退却を開始、最上義光自らによる追撃戦が展開される。上杉氏を置賜地方へ駆逐した最上氏は、村山地方・最上地方の拠点を取り戻し、翌年3月までに奥州仕置以降上杉領となっていた庄内地方の奪還に成功する。この結果、最上氏は出羽国に57万石ともされる領地を得る一方、最上氏の讒訴を受けた秋田氏は転封、西軍に付いた小野寺氏は改易された。
なお、陸奥国の伊達氏が徳川家康と「百万石のお墨付き」とされる約定を交わし、旧領である長井(置賜地方)他7郡の回復を望んだが、南部領内での扇動(和賀合戦)と合戦の直前に伊達氏と上杉氏が和議を結んだことが家康の疑念を生み、約定は果たされなかった。
出羽北部では鎌倉時代以降土着した小領主を常陸に転封し、代わりに佐竹氏(久保田藩)が入った。1622年に最上氏が改易された後には酒井氏(庄内藩)・鳥居氏(山形藩)・戸沢氏(新庄藩)・能見松平家(上山藩)・六郷氏(本荘藩)などが入ったが、山形藩は頻繁に藩主家が入れ替わった。山形藩の領地は次第に天領に組み込まれ、尾花沢・長瀞・寒河江・柴橋などに代官陣屋が置かれた。
国内には土崎、酒田という当時において東西回り航路の重要な港湾大都市が存在していたが庄内藩や久保田藩の財政はかなり悪かった。
戊辰戦争時、出羽諸藩は奥羽越列藩同盟に加わり明治政府と対抗したが、久保田藩を中心に北出羽諸藩が離反すると、庄内藩・盛岡藩が攻め込み秋田戦争を引き起こした。久保田城付近まで攻め込むが、米沢藩・上山藩・仙台藩が降伏したことで中心勢力である庄内藩・盛岡藩も撤退し、明治政府に降伏した。
羽前国
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羽後国
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明治元年12月7日(1869年1月19日)、戊辰戦争に敗れた奥羽越列藩同盟の諸藩に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に2分割された(山形県北西部の飽海郡は羽後国であることと、秋田県北東部の鹿角郡は陸中国であることが県域と異なる)。この時、陸奥国も5分割された。
国府は、『和名抄』(承平年間(931年 - 938年)編纂)では平鹿郡、『拾芥抄』(鎌倉時代から南北朝時代)では「平鹿郡、出羽郡、両方に府」と記載がある。
出羽国が成立当初の国府は出羽柵(庄内地方にあったとされる)に置かれたと考えられているが、所在は不明である。 出羽柵は、天平5年(733年)に秋田高清水岡(現在の秋田城跡)に移った。その際に国府機能も秋田に移転したかどうかについては諸説あるが、発掘調査によれば8世紀後半に秋田へ国府が移されていたと推測される。その後秋田城周辺の蝦夷の反乱等により国府は再移転を余儀なくされ、その移転先についても河辺郡説(『日本後紀』の河辺府を国府と見る説)、平鹿郡説(『和名抄』に「出羽国、国府在平鹿郡」とある等による説)、出羽郡(後に飽海郡)説(考古発掘の結果等による説)等の争いがあるが、最終的に庄内平野の城輪柵跡に移ったことにはほぼ異論はない。さらに『日本三代実録』仁和3年5月20日[9](887年6月15日)の条にも、国府は「出羽郡井口地」と表記されており、この井口国府とは酒田市東北部にある国の史跡城輪柵である、とする見解が有力である[10]。
蝦夷との境界付近には天平宝字3年(759年)に雄勝城も設置され、以後庄内平野の国府、秋田平野の秋田城、仙北平鹿平野の雄勝城の一府二城体制が続いた。
雄勝城の所在地は諸説ある。秋田城については発掘調査によると10世紀中頃までの遺跡しか確認されていないが、文献上からは秋田城は12世紀頃まで留守所があったことが分かっている。また、国府留守所も14世紀頃までは存在しているようであるが、雄勝城はいつの頃からか停廃したとみられる。
国分尼寺は現存しない。平安時代の国分寺は城輪柵の外郭東辺から1.2キロ真東にある堂の前遺跡を、国分尼寺は堂の前遺跡よりも4キロ南にある高阿弥陀遺跡を比定する説が有力である[11]。
安国寺は足利尊氏が全国に建立した寺院である。利生塔は現存しない。
●は分国前に廃止。
内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
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出羽は守護不設置の国だったため、南北朝時代以降鎮守府将軍(南朝)・奥州総大将(北朝)・奥州羽州管領・鎌倉公方(篠川御所、稲村御所)などが軍事権を行使した。南北朝時代初期に南朝側が在地領主に多くの権限を与えたため、京都扶持衆などを生む原因となった。
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