後三年の役
平安後期の東北を舞台とした戦役 ウィキペディアから
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後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。
11世紀、東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていた。しかし陸奥国の安倍氏は陸奥国府と対立し、康平5年(1062年)に前九年の役で滅亡した。この時、戦役の最終局面で参戦して国府側戦勝の原動力となったのが、清原氏の清原武則である。
永保3年(1083年)に後三年の役が始まるまでの東北地方の政治状況ははっきりしないが、清原氏の当主の座は前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、武則を経て武則の息子・武貞、さらにその嫡子・真衡へと継承されていた。
武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻(有加一乃末陪)を自らの妻としていた。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた息子がいた。この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞と彼女の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。
武貞の死後、清原氏の惣領の地位を嗣いだ真衡であったが、真衡には嫡男が生まれなかったので、真衡は海道小太郎[注釈 1]なる人物を養子に迎えた。これが成衡である。これで清原氏は桓武平氏との縁戚関係が出来たことになる。
更に真衡は源氏との縁戚関係の構築を目論み、永保年間(1081年〜1083年)に常陸国から源頼義の娘とされる女性を迎え、成衡の嫁とした。この女性の詳細は不明だが、『奥州後三年記』によると、頼義が陸奥国に向かう途中、平国香流の平宗基という人物の娘と一夜を共にし、その時に生まれた娘であるとされる。これが事実であれば、清原氏には常陸平氏、河内源氏の惣領家に近い系統の血が一気に入る一方で、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引く家衡は清原氏の嫡流から外れるということになる[注釈 2]。
成衡の婚礼の際、陸奥の真衡の館に出羽から真衡の叔父に当たる吉彦秀武が祝いに訪れた。秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、真衡の前にやってきたが、真衡は碁に夢中になっており、秀武を無視し続けた。面目を潰された秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。
真衡は秀武の行為を聞いて直ちに秀武討伐の軍を起こした。一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった家衡と清衡に密使を送って蜂起を促した。2人は秀武に呼応して兵を進め、白鳥村を焼き払った後に真衡の館に迫った。これを知った真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとした為、2人は決戦を避けて本拠地へ後退した。
家衡と清衡を戦わずして退けた真衡は、再び秀武を討とうと出撃の準備を始めた。永保3年(1083年)の秋、源頼義の嫡男で成衡の妻の兄である源義家が陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、真衡は義家を三日間に渡って多賀城(国府)で歓待し、その後に出羽に出撃した。家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、すでに備えをしていた真衡方が奮戦した上、国府も真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗を喫して国府に降伏した。ところが出羽に向かっていた真衡は行軍の途中で病のために急死してしまった。
真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を3郡ずつ清衡と家衡に分与した。この時、清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡、家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡が与えられたのではないかとする説もあるが確証は無い。
ところが今度は清衡と家衡が対立し、応徳3年(1086年)に家衡は清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗。義家は自らの裁定による奥六郡の秩序を破壊した家衡に激怒し、清衡を支援する。9月に朝廷は義家の次弟義綱の陸奥国への派遣を協議したが、事情聴取は行われたものの義綱の派遣は実現しなかった。清衡と義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃したが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は敗れた。武貞の弟である清原武衡は家衡勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めた。
寛治元年(1087年)7月、朝廷では「奥州合戦停止」の官使の派遣が決定。8月には義家の三弟義光が無断で義家のもとに下向し、9月に朝廷は義光が勝手に陸奥国に下向したとして官職を剥奪した。同月、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めた。この時に義家の発案で剛の座・臆の座(剛臆の座)が設けられ、義光の郎党藤原季方が活躍する。だがなかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武は兵糧攻めを提案した。
包囲したまま秋から冬になり、飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。義家はいったんはこれを助命しようとしたが、食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。これに恐怖したため柵内から降伏するものはなくなり、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した[3]。武衡は近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられ斬首された。家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。戦いが終わったのは11月14日(1087年12月11日)であった。
朝廷は、上記戦役を義家の私戦とし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。更に義家は陸奥守を解任された(後任は藤原基家。着任の翌年に死去)。また義家が役の間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、その間の官物未納が咎められ、義家はなかなか受領功過定を通過出来なかった。そのため義家は新たな官職に就くことも出来なかった。ちなみに10年後の承徳2年(1098年)、白河法皇の意向で受領功過定が下りるまでその未納を請求され続けた。
結果として義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。
戦役後、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復し(奥州藤原氏)、清原氏の歴史は幕を閉じた。
源氏軍が家衡・武衡軍の籠もる金沢柵へ行軍中、西沼(横手市金沢中野)の付近を通りかかった。義家が馬を止め上空を見ると、通常は整然と列をなして飛ぶ雁が乱れ飛んでいた。それを見た義家はかつて大江匡房から教わった孫子の兵法を思い出し、清原軍の伏兵ありと察知し、これを殲滅した。義家は「江師(ごうのそつ)[注釈 3]の一言なからましかばあぶなからまし」と語ったという。
かつて前九年の役の後、京の藤原頼通邸で源義家の戦功話を評していた際、「器量は賢き武者なれども、なお軍(いくさ)の道を知らず」と匡房がつぶやいたということが、義家の家人を通じて義家本人に伝わり、怒り出すどころか辞を低くして匡房の弟子となったと伝えられている。また、匡房は義家の弟の義光に笙の笛の秘伝を教えたともいう。後に匡房の曾孫大江広元は鎌倉幕府創建に功をなした。なお、『後三年合戦絵詞』のなかでは知識の多い老人である匡房から兵法を教わったとあるが、実際は大江匡房の方が義家よりも若い(匡房が2歳ほど年下)。
義家が馬を止めた丘は後に「立馬郊(りつばこう)」と呼ばれた。立馬郊は近代に入って大正天皇即位記念園として整備されている。また、現在西沼には後三年の役をテーマにした公園「平安の風わたる公園」がある。『後三年合戦絵詞』(東京国立博物館所蔵。戎谷南山模写は金澤八幡宮所蔵)でもこの雁行の乱れのシーンが一番有名である。これに因み、西沼の横手市側の対岸にある美郷町飯詰付近では雁の里と名乗っている。
源義家方の先鋒軍に、鎌倉景政(権五郎)という16歳の若武者がいた。清原軍の放った矢が右目に刺さるも、その敵を逆に射殺し、自陣に帰った。苦しむ景政に対し仲間の三浦平太郎為次が駈け寄り、矢を抜こうと景政の顔に足をかけた。景政は怒り為次に斬りかかった。驚いた為次に対し、景政は「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言ったという。為次は謝り丁重に矢を抜いたと伝えられている。景政の子孫には鎌倉幕府創建の功臣梶原景時がいる。
景政が目を洗った川である厨川には片目の鰍が住むようになったという伝説がある。また、戦の後に景政が敵の屍を集めて葬り杉を植えた塚は現在「景正功名塚」と呼ばれている。塚の周辺は、大正期に伊藤直純らにより金沢公園として整備された。塚の杉は大木となっていたが、二次大戦後、火災に遭い現在は幹だけが残っている。
宮城県亘理町(経清の本拠地)にも同様の伝承があり、矢抜沢(亘理町逢隈田沢字柳沢)という地名があり、沢のほとりに「権五郎矢抜石」という石がある。矢を射掛け逆に首を取られたのは、鳥海弥三郎(安倍宗任とする伝承があるが時代が違う)という清原武衡の家人で阿武隈川河口鳥の海の住人であると、亘理町で以前作られた郷土史の資料の中にもあったが、鳥海弥三郎を亘理町荒浜の鳥の海の住人とする説は、亘理町立郷土資料館の学芸員に聞いたところ、その後の調査・研究の結果誤りであることが分かり、前九年の役の時安倍頼時の三男で「鳥海柵(とのみのさく)」を守っていた安倍宗任(むねとう)の事を「安倍鳥海三郎宗任」と呼ばれていたことから、やはり安倍宗任の事か、そこから作られた実在しない伝説の人と思われる。
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