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平安時代後期の武将 ウィキペディアから
鎌倉 景正(かまくら かげまさ/平 景正(たいら の かげまさ))は、平安時代後期の武将。名は景政とも書く。通称は権五郎。
父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。
16歳の頃、後三年の役に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。
長治年間(1104年 - 1106年)、相模国高座郡に大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発した。永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。
子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(1182年)2月8日条には、その孫として長江義景の名が記されている。
なお、1895年(明治28年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内 暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められたが、実在の鎌倉景政からその名を借りただけである。
『尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。
景正の登場する系図は3種類あり、内2種類では香川氏や大庭氏、梶原氏などは景正の兄弟もしくは従兄弟に連なる家系としている。
高望王 | |||||||||||||||||||
平良茂 | |||||||||||||||||||
平良正 | |||||||||||||||||||
平致成 | |||||||||||||||||||
鎌倉景成 (鎌倉権守) | |||||||||||||||||||
景正 (鎌倉権五郎) | |||||||||||||||||||
景経 (権八郎) | |||||||||||||||||||
[大庭氏] 大庭景忠 (大庭太郎) | 景長 | ||||||||||||||||||
景義 (大庭権守) | 景親 (大庭三郎) | [梶原氏] 梶原景時 | |||||||||||||||||
○出典:『姓氏家系大辞典』[3]
平忠通 (村岡五郎) | |||||||||||||||||
[鎌倉氏] 鎌倉章名 | |||||||||||||||||
景通 (鎌倉権大夫) | 景村 (鎌倉四郎大夫) | 景成 | |||||||||||||||
[梶原氏] 梶原景久 (太郎) | 景明 (太郎) | 景政 (鎌倉権五郎) | |||||||||||||||
景長 (太郎) | [大庭氏] 大庭景宗 (大庭権守) | 景能 | |||||||||||||||
[長江氏] 長江義景 | |||||||||||||||||
横浜市内の旧鎌倉郡にあたる地域(現在の栄区・戸塚区・泉区・瀬谷区)に多く存在する御霊神社は概ね景政を祀っており、そのほか各地にも景正を祀る神社がある。
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