北野天満宮
京都市上京区にある神社 ウィキペディアから
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北野天満宮(きたのてんまんぐう、英: Kitano-Tenmangu Shrine[1])は、京都市上京区にある神社(天満宮)。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は北野神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。全国の天満宮、天神社、菅原社など約1万2000社であり、福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生から信仰されている。
そもそもこの北野の地には、天神地祇を祀る現・摂社の地主社と、火雷神を祀る現・摂社の火之御子社の二つの社があった。
昌泰4年(901年)1月に右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって大宰権帥に降格されて大宰府に左遷されるという昌泰の変が起き、延喜3年(903年)に道真は大宰府で無念の死を遂げた。その後、藤原時平が延喜9年(909年)4月に亡くなったり、落雷などの災害が相次ぐと、これが道真の怨霊による祟りだとする噂が広まった。こうして朝廷は、没後20年目となる延喜23年(923年)4月20日に道真の左遷を撤回して右大臣に官位を復し、正二位を贈った。
そんな中、延長8年(930年)6月26日に清涼殿に落雷が直撃し、大納言の藤原清貫と右中弁兼内蔵頭の平希世が死亡するという清涼殿落雷事件が発生した。その上、3ヶ月後に醍醐天皇が崩御してしまうと道真の怨霊によるものとの噂はもはや噂ではなくなってしまい、朝廷は恐れおののいた。また、道真の怨霊は天満大自在天神となったともされ、それが北野の火之御子社の火雷神と結びつき、道真は雷神である火雷天神であるともされた。
天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に道真から、北野に自分を祀る社を立てるようにとの託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)に北野にあった朝日寺(現・東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。そして、曼殊院門跡の是算国師が菅原家の出であったことから是算が初代北野別当職に任じられた。これ以降、曼殊院門跡が北野別当職を歴任することとなった。この後、藤原師輔(藤原時平の甥)によって壮大な社殿に作り直されたという。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。正暦4年(993年)5月20日には正一位・左大臣を、次いで10月20日には太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。以来、北野天満宮は幕末の神仏分離令まで松梅院、徳勝院、妙蔵院の祠官三家の社僧が、代々神官を務めた。
中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。足利義満は明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者と氏清を悼んで応永8年(1401年)、当社境内に北野経王堂願成就寺を建立している。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に幕府軍の攻撃を受けて北野社は焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側には史跡「御土居」がある。
慶長10年(1605年)には豊臣秀頼が片桐且元を奉行として北野経王堂を再建し、慶長12年(1607年)には現在の壮麗な社殿を造営している。
寛文2年(1662年)の地震で社殿に被害が出て修理することになった。しかし、末社は元の通りには修理されず、寛文9年(1669年)に江戸幕府の命令でそれまで一社ずつ単独で建てられていたたくさんの末社は長屋形式で一纏めにする形で再建された。
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
新たな時代となって神仏分離令が出されると、1868年(明治元年)3月に北野別当職を廃止し、曼殊院門跡と距離を置いた。そして、松梅院、徳勝院、妙蔵院の祠官三家も廃仏毀釈により廃寺とされた。北野天満宮にあるたくさんの仏堂は解体されていき、経王堂は大報恩寺(千本釈迦堂)に規模を縮小して移築された。鐘楼は大雲院に移築され、多宝塔は扉の一部のみ地蔵院(椿寺)に移された。
1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理(国家神道)を脱したあとである。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
初代宮司に奈良華族の男爵で興福寺養賢院住職の粟田口定孝(1837年 - 1918年)が、八坂神社宮司と兼任で就任した(定孝はその後、貴船神社、住吉大社の宮司を務めた)。
1998年(平成10年)に宝物殿の屋根が補修された。これにより柔らかい緑青の荘厳な屋根となったが、チタン製屋根が採用されており、最新技術を伝統建築に採用された代表例となっている(新日鐵住金TranTixxii)。
平安時代の987年に疫病や災害をもたらすとされる祭神の怨霊を鎮めるための祭礼として、天皇の使者が派遣される勅祭「北野祭」の一環で天台宗延暦寺と合同で行っていたが、応仁の乱で途絶えていた。明治維新直前に「北野臨時祭」として再興が試みられた事もあったが、明治初期の神仏分離で境内での仏事は途絶えていた。2020年(令和2年)9月4日に約550年ぶりに北野天満宮が祭神菅原道真の1125年半萬燈祭を7年後に迎えることと天台宗総本山延暦寺が天台宗開祖の最澄の1200年大遠忌を翌年に控え、互いの節目につながりを見直すことを計画し神仏習合として再興され、神職と僧侶により新型コロナウイルス感染症の世界的流行の早期終息や国の安寧が祈られた[5][6]。
典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな — 菅原道真、拾遺和歌集
道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられている。
牛は北野天満宮において神使(神の使い)とされている[16]。菅原道真(菅公)と牛の因縁譚は多くあり、中世以来、神仏習合を繰り返してきた天神信仰が背景にあるとされる[17]。具体的には、道真の誕生が丑年の乙丑の日だったこと[17]、亡くなった日も丑の日であること[17]、道真が牛の鳴き声で刺客から逃れたという逸話[17]、轜車は人に引かせず牛の行くところにとどめよとの道真の遺言に従ったところ轜車が都府楼の北東(丑寅)の方角に停まったという逸話などである[17]。
境内には座った姿勢の臥牛像(がぎゅうぞう)が多く奉納されているが、これは先述の道真の遺言に従ってその遺骸を運んでいた牛車が座り込んで動かなくなり、そこを墓所として埋葬されたという『北野天神縁起絵巻』にある故事にちなむ[16][18]。なお、本殿正面には境内で唯一とされる立ち姿の牛の像があり「唯一の立ち牛」と呼ばれている[18]。
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