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620年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した歴史書 ウィキペディアから
『天皇記』(てんのうき、すめらみことのふみ)は、推古28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書である。
『日本書紀』推古28年の是歳条に次のようにある。
皇太子・嶋大臣共に
— 『日本書紀』推古28年是歳条議 ()りて、天皇記 ()及び国記 ()、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
事実とすれば、『帝皇日継』・『帝紀』とほぼ同様の内容で、皇室の系譜を記したものだと推定される。また、未完であった可能性が高い。『国記』とともに編纂された。
また、この年が推古天皇の実父(聖徳太子には祖父)にあたる欽明天皇の50年忌にあたることから、同天皇の顕彰とその正統性を示すことを目的に皇統譜の整理を意図して行われたとする説もある[1]。
皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変の際に、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき『国記』とともに焼かれたとされる。あるいは国記のみが焼ける前に取り出されて残ったともいわれるが、国記も現存していない。
『日本書紀』皇極天皇4年6月条に次のようにある。
蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、
— 『日本書紀』皇極天皇4年6月条船恵尺 ()、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る
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