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1640-1701, 江戸時代中期の真言宗の僧、国学者 ウィキペディアから
契沖(けいちゅう、寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日(1701年1月25日))は、江戸時代中期の真言宗の僧、国学者、歌人。
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた[1]。釈契沖とも。俗姓は下川氏、字は空心。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・善兵衛
第3子である契沖は、幼くして11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る[2]。
ついで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となり、その間に下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を遍歴して、大和国の長谷寺にいたり17日間も絶食念誦し、室生寺では37日間、命を捨てようとしたほどの激しい煉行をした[3]。
高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け[2]、その後、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となった。
元禄3年(1690年)に当寺で母が亡くなったのを機として、摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)に円珠庵を建立して住持となった。元禄14年(1701年)1月、円珠庵にて62歳で入寂。最後の一日まで、弟子に教授し続けていたという[4]。墓所は円珠庵にある。
なお、1891年(明治24年)に正四位を追贈されている[5]。
和歌の浦に至らぬ迄もきの國や心なくさのやまと言の葉[6]
契沖が古典研究に勤しむようになるのは、妙法寺の住持となった延宝7年(1679年)以後である。著書は『厚顔抄』『古今余材抄』『勢語臆断』『源註拾遺』『百人一首改観抄』など数多いが、とりわけ『万葉代匠記』と『和字正濫鈔』は、実証的学問法を確立して国学の発展に寄与するなど、古典研究史上において時代を画するものであった[4]。
徳川光圀から委嘱を受けた『万葉代匠記』は、文献資料に根拠を求めて実証することを尊重した『万葉集』の注釈書である[7]。その結果、語法に規則性があることを見出すなど、現在の日本語学の基礎となる現象を多く指摘した[7]。そうした『万葉集』の正しい解釈を求める内に、契沖は当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』のみならず、『日本書紀』『古事記』『源氏物語』などの古典から採集して分類した[4]。こうして成立したのが『和字正濫鈔』である。これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えている[8]。
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