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1069年(延久元年)後三条天皇の発布した延久の荘園整理令の実施に伴い設置された。反摂関家的な源経長、学者の大江匡房らが起用された。主な業務は不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収などを行った。後三条の死後には消滅し、1111年(天永2年)、1156年(保元元年)にも設置されたが、後白河法皇によって院庁に吸収される。
1187年(文治3年)、訴訟や儀式の遂行に関する業務も含めた形で復興される。この時の記録所は内覧九条兼実の管轄下に置かれて公卿の陣定に匹敵する発言力が与えられた。だが、これも後鳥羽上皇の院政開始とともにその院庁に吸収されていくことになる。
後に後嵯峨天皇の時代に再置されてからは常設化され、1293年(正応6年・永仁元年)には伏見天皇が徳政推進の機関として充実化させた。これによってその権限が拡大され、記録所の職員を6班に分けて、寺社・公務・所領争いなど、分野ごとに担当する日付や班が定められた(後の建武の新政における雑訴決断所の分離・設置にも影響を与えた)。
鎌倉時代の1321年(元亨元年)に後宇多法皇に代わり親政を開始した後醍醐天皇は記録所を再興する。1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐は建武の新政を開始して8省の外に記録所を設置して建武政権における最高政務機関とし、重要審議を処理させた。
『建武記』によれば、建武政権下、国家の最高政務機関として再興された記録所の、建武2年(1335年)3月17日時点での構成員は以下の21人[1]。
内訳としては、
以上のように、家格を問わずに官僚17人、有識者2人、経済人2人で構成されている。建武政権下では、何よりも実務能力が最重視されていた証であり、21世紀初頭現在の中世法制史研究では、この点を好評価する傾向にある[2]。
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