園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)。本尊は弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。
園城寺 | |
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![]() 金堂(国宝) | |
所在地 | 滋賀県大津市園城寺町246 |
位置 | 北緯35度0分48.09秒 東経135度51分10.26秒 |
山号 | 長等山(ながらさん) |
宗派 | 天台寺門宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 弥勒菩薩(秘仏) |
創建年 | 7世紀 |
開基 | 大友与多王 |
中興年 | 貞観元年(859年) |
中興 | 智証大師円珍 |
正式名 | 長等山 園城寺 |
別称 | 三井寺 |
札所等 |
西国三十三所第14番 西国薬師四十九霊場第48番(別所・水観寺) 近江西国三十三観音霊場第4番(別所・近松寺)・第5番 江州三十三観音第3番(別所・近松寺)・第4番 湖国十一面観音菩薩霊場第1番(別所・微妙寺) びわ湖百八霊場第5番(別所・近松寺)・第6番 神仏霊場巡拝の道第147番(滋賀第15番) |
文化財 |
金堂、新羅善神堂、絹本著色不動明王像(黄不動)ほか(国宝) 大門、食堂、梵鐘ほか(重要文化財) 光浄院庭園、善法院庭園(国の名勝・史跡) |
法人番号 | 9160005000624 |
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定される[1]。
札所本尊真言(如意輪観音):おん ばらだ はんどめい うん
ご詠歌:いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖
当寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。
当寺の起源については次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は自らの念持仏である弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。そして、その子である大友皇子(弘文天皇)もまた天武天皇元年(672年)に壬申の乱のため25歳の若さで没した。その後、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のために天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする当寺をようやく建立することができたという。それとは別に、当寺は天武天皇元年(672年)頃に大友村主家によって創建されたともされる[2]。
壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、朱鳥元年(686年)にはこの寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与えたという。「園城」という寺号は、大友与多王が自らの「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという[2]。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺といわれていたものが転じ、三井寺となったという[3]。現在の園城寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期や飛鳥時代に遡る古瓦や、崇福寺、穴太廃寺、南滋賀町廃寺と同じ形式の瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度の史実を反映したものと見ることができる。
当寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)に初めて園城寺長吏に就任し、その後の園城寺の発展の基礎を築いたのが智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)3月に讃岐国那珂郡(現・香川県善通寺市)に生まれた[2]。俗名は和気広雄。母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山延暦寺に登り天長6年(829年)に初代天台座主義真に入門している[2]。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って十二年籠山行(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから後に園城寺は修験道とも深い繋がりを持つようになる。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行[2]。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)に円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。
貞観元年(859年)に大友氏の氏寺であった当寺に入ると、清和天皇より仁寿殿を賜わって「唐坊」(とうぼう)、後に改めて「唐院」(とういん)とし、これを現在の護法善神堂がある場所に設置して寺を再興し、新羅社(新羅善神堂)を創建している[2]。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵し、貞観8年(866年)5月には当寺は延暦寺の別院とされた[2]。同年、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられている。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)6月に円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任、天皇は当寺を円珍個人に賜った[2]。以後、没するまでの24年間、円珍は天台座主の地位にあった。
円珍によって天台別院として中興された当寺は、以降は東大寺・興福寺・延暦寺とともに「本朝四箇大寺(ほんちょうしかたいじ)」の一つに数えられるようになった[3]。
寛平3年(891年)10月に円珍は比叡山山王院で亡くなった[2]。その後、延長5年(929年)12月には円珍に智証大師の諡号が朝廷から送られている[2]。
天元4年(981年)頃から比叡山は円珍の門流と慈覚大師円仁の門流との2派に分裂してしまい、両者は事あるごとに対立するようになった[2]。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)7月、円珍派が西坂本にある円仁派の赤山禅院を襲って堂舎を壊す事件が起こると、8月にはその報復として円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の中心となる僧堂であり、かつて円珍が住し、亡くなった千手院(山王院)などの堂舎を打ち壊す騒動が発生し、両派の対立は決定的となった。円珍派の僧約千人が追放処分を受けると円珍派は千手院に安置されていた円珍像を持って比叡山を下ると別院であった当寺に移り、円珍像を当寺の唐院に安置して延暦寺から独立した[2]。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し当寺は「寺門」と称されることから、両者の対立抗争は「山門寺門の抗争」などと呼ばれている。長暦2年(1038年)5月には当寺は朝廷に大乗戒壇の建立許可を願い出た。朝廷は当寺に戒壇を設立してもよいかの可否を諸宗に問うたところ延暦寺のみが反対し、長久2年(1041年)5月に結局不許可とされた[2]。当寺は以後も幾度となく大乗戒壇建立許可の申請を行うが、その都度延暦寺が朝廷に圧力をかけて失敗している。また、どちらが本地・末寺なのか、正当性があるのかでも争っている。延暦寺は「園城寺は延暦寺から独立した」といい、当寺は「園城寺の歴史は延暦寺よりも古い」「円珍は大乗戒壇で大乗戒を受けたが、円仁は東大寺で小乗戒しか受けていない」などと返している。
永保元年(1081年)4月、日吉社で祭りを行った際に山門派と寺門派の僧が揉めると、事態はエスカレートして6月に当寺は延暦寺から焼き討ちを受けた。9月には当寺は延暦寺に攻め込んだが返り討ちにあってしまい、押し返されてそのまま当寺に攻め込まれ、6月の焼き討ちで焼け残っていた建物も全て焼かれてしまった(比叡山による焼き討ちでの全焼・1回目)[2]。永保4年(1084年)4月に金堂は再建されたが[2]、これ以降も、延暦寺による当寺の焼き討ちは続発した。中世末期までに全焼7回を含む大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
当寺は平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らは深く帰依したことが知られている。これら有力者からの寄進等による荘園多数を支配下に置き、末寺も多くあり、信濃国善光寺(深田之荘)もまた末寺として記録に著れる。伽藍も金堂や別所・水観寺を中心とする中院、新羅社(新羅善神堂)や別所・常在寺を中心とする北院、三尾社(三尾神社)と、現在の長等公園一帯にあった三別所の微妙寺・尾蔵寺・近松寺を中心とする南院、さらに別院である如意寺が整備されていき、この三院五別所の体制でもって運営されていった。
中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。特に源氏は源頼義が園城寺に戦勝祈願をし、その三男の源義光が新羅善神堂の前で元服するなどし、歴代の尊崇も篤かった。
保安2年(1121年)閏5月に当寺の僧が延暦寺の修行僧を殺害したことを発端として、当寺は延暦寺に焼き討ちされるが(比叡山による焼き討ちでの全焼・2回目)[2]、長承3年(1134年)8月に金堂は再建されている[2]。保延6年(1140年)閏5月と7月に延暦寺に焼き討ちされるが(比叡山による焼き討ちでの全焼・3回目)[2]、永治2年(1142年)3月には寺門派の衆徒によって延暦寺の一角が焼かれている。久安4年(1148年)11月には当寺の金堂の上棟供養が行われている[2]。長寛元年(1163年)6月に延暦寺に焼き討ちされる(比叡山による焼き討ちでの全焼・4回目)が[2]、支援者が多くいたことからその都度復興している。治承4年(1180年)4月に源頼政が以仁王と共に平家打倒の兵を挙げた時(以仁王の挙兵)にはこれに協力し、源頼光の子孫である山本義経が挙兵(近江攻防)した際もこれに協力した。そのために同年12月、平重衡と平忠度によって焼き討ちを受けて[2]637棟の建物が炎上している。
平家を京都から追い出した源頼朝は、元暦元年(1184年)12月には当寺に近江国横山荘および若狭国玉置荘を寄進するなどして保護を加え、復興が始まった。その最中、建保2年(1214年)4月には日吉祭りでの神撰供進を発端として騒動が起こり、当寺は延暦寺に焼き討ちされて129の堂舎が焼失している(比叡山による焼き討ちでの全焼・5回目)[2]。建保3年(1215年)[2]には頼朝の意思を継いだ北条政子、源実朝は早速大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させ、翌建保4年(1216年)に再興している。しかし、当寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、鎌倉幕府より一時的に冷遇を受けた。
正嘉元年(1257年)3月27日に当寺は大乗戒壇の建立許可を求めて強訴を行っている。正元元年(1259年)9月14日には当寺の出身であり、鎌倉の鶴岡八幡宮寺別当で前執権北条時頼の護持僧を務める隆弁(後に園城寺長吏)に上洛してもらい、朝廷との大乗戒壇の建立許可の交渉を委ねている。そして、この交渉は北条時頼と幕府の後ろ盾もあって成功し、翌正元2年(1260年)1月4日、ついに当寺に大乗戒壇の建立が許された。しかしそれもつかの間、延暦寺の猛烈な抗議によって1月20日には大乗戒壇の建立許可は取り消されてしまった。
そこで、文永元年(1264年)5月に当寺は朝廷の許可を得ないまま大乗戒壇を建立しようとした。そのため延暦寺は激怒し、当寺は延暦寺に攻め込まれて焼き討ちされた(比叡山による焼き討ちでの全焼・6回目)[2]。この時に、現在「弁慶の引摺鐘」といわれている梵鐘が盗まれてしまうが[2]、幕府の命令によって文永4年(1267年)4月に戻されている。北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると冷えていた幕府との仲も戻っている。弘安8年(1285年)の時点で中院は74院、北院は124院、南院は140院にものぼる子院が存在していた。
だが、文保3年(1319年)にはまたも朝廷の許可が下りないまま大乗戒壇を建立しようとしたために、延暦寺から焼き討ちを受けている(比叡山による焼き討ちでの全焼・7回目)。そして、これ以降当寺は大乗戒壇の建立を諦めてしまった。延暦寺による当寺の焼き討ち・全焼の際、7回中6回もの元号に「保」の字が入っている。しかも当寺にとってはいずれも厄年であったという。そのため、ある老僧は「保の字のつく時三井寺焼失す」と嘆いたという。
南北朝の内乱では北朝方で源氏の足利氏を支持する。建武3年(1336年)1月には当寺の僧兵は北朝方に付き、細川定禅と共に当寺に立て籠もって南朝方の北畠顕家・結城宗広を迎え撃ったが敗北し、南朝方に味方した延暦寺に焼き討ちされて金堂が炎上している[2]。その際、僧が燃え盛る金堂から弥勒仏を救出しようとするが叶わず、せめて頭部だけでも助けようとして頭部を切り落として運んだといわれる。貞和3年(1347年)1月には足利尊氏により金堂や新羅善神堂(国宝)などが再建されている[2]。
こうして北朝を支持したことから当寺は室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために当寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだといわれている。
戦国時代に入ると、勢力を強めていく織田信長と延暦寺の対立は頂点に達し、ついに元亀2年(1571年)に当寺に本陣を置いた信長によって比叡山焼き討ちが行われた。一方、当寺は信長と良好な関係を構築し維持し続けていた。しかし、子院・光浄院の住持である暹慶(山岡景友)は、信長に敵対した将軍足利義昭に与し、元亀4年(1573年)2月に石山寺の近くにあった石山城に籠城して合戦したが、降伏している[4]。
天正10年(1582年)6月、織田信長を本能寺の変で自害に追いやった明智光秀だったが、その後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、自害した。秀吉は当寺に本陣を置くと、ここで光秀の首実検を行ったという。
この後、当寺は天下人となった豊臣秀吉とも良好な関係を築いていたが、文禄4年(1595年)11月、当寺は突如として秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられた[2]。当寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院(現・妙法院の近く。後に北白川に移転)に避難させ、僧も保護したが、ほとんどの仏像や宝物はよその寺院へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に破却、移築された。当寺の金堂は比叡山に移され、現在も延暦寺西塔釈迦堂(転法輪堂)として現存している[2]。残ったものは新羅善神堂、三尾社本殿、護法善神堂の他は上光院などいくつかの子院のみであった。
道澄は、元光浄院の住持であり秀吉の御伽衆でもある山岡景友(以前の名は暹慶)とその弟光浄院暹実らと共に復興の請願を繰り返し行った。慶長3年(1598年)になり、秀吉は自らの死の直前になって当寺の再興をようやく許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな園城寺の祟りを恐れたためともいわれている。秀吉の再興許可を受けて園城寺長吏・道澄が中心となって寺の復興事業が開始される[2]。それに伴って、照高院に避難させていた弥勒菩薩像、智証大師坐像、黄不動尊などを園城寺闕所の際にも存続が許されて残っていた上光院に移している。
伽藍の復興も進められ、寺領4,300石も安堵された。翌慶長4年(1599年)には高台院が金堂(国宝)を寄進し再建を果たした[2]。勧学院客殿(国宝)は慶長5年(1600年)に豊臣秀頼が施主となり、毛利輝元の寄進で建立され[2]、光浄院客殿(国宝)は慶長6年(1601年)に山岡景友の寄進で建立されている[2]。また、同年の3月には徳川家康によって伏見城にあった大門(旧・近江国常楽寺楼門、重要文化財)と三重塔(旧・大和国比蘇寺(現・世尊寺)三重塔、重要文化財)が寄進され、当寺に移築されている[2]。慶長7年(1602年)には毛利輝元により周防国国清寺(現・洞春寺)の一切経蔵(重要文化財)が寄進されて移築されている[2]。現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。そして慶長年間(1596年 - 1615年)末期の頃には三院で49院、五別所で25坊もの子院が並んでいた。当寺は戦国時代までに合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、うち14回は延暦寺の僧兵らによる焼き討ちであった。
寛永年間(1624年 - 1645年)には寺領4,619石が安堵されている。
貞享3年(1686年)5月に観音堂(西国三十三所第14番札所)が焼失するが、元禄2年(1689年)に再建されている[2]。また、同年頃には音曲諸芸道の氏神を祀る関蝉丸神社を傘下に入れている。
『元禄五年寺社僧坊改記』には、園城寺や各子院、末社の状況やその由来が記されているが、それによると寺内には浄土宗や一向宗の寺があることが分かる。
明治維新後、1873年(明治6年)には北院の大半となる20万平方メートルが陸軍用地として軍部に接収されてしまい歩兵第9連隊司令部(現・大津商業高校)や練兵場(現・皇子山総合運動公園)とされ、多くの子院が廃寺となって新羅善神堂と法明院を残し北院は廃絶してしまった。
こういったことから1876年(明治9年)1月には制度としてあった園城寺南・北・中院が合併して一院制とされた[2]。
1885年(明治18年)9月には日本美術の普及啓蒙に功績のあったアメリカ人アーネスト・フェノロサとウィリアム・スタージス・ビゲローが、法明院敬徳より戒を受けている[2]。
1941年(昭和16年)4月に天台宗山門派(現・天台宗)、天台宗寺門派(現・天台寺門宗)、天台宗盛門派(現・天台真盛宗)の天台三派が合同し、新たな天台宗として発足する[2]。しかし、太平洋戦争後の1946年(昭和21年)4月には分裂し、天台宗寺門派は宗教法人令により天台寺門宗として独立し、当寺はその総本山となった[2]。
参道より一段高く塀に囲まれた一郭が唐院であり、東を正面として一直線上に四脚門、灌頂堂、唐門、大師堂、長日護摩堂などが立ち並ぶ。豊臣秀吉による破却後の再興に当たり、慶長3年(1598年)と最も早く再建された。唐院という名称は、智証大師円珍が唐から帰国後の天安2年(858年)に持ち帰った経典や法具類を納めるために、清和天皇より仁寿殿を下賜され、伝法灌頂の道場としたのに由来する[30]。現在は、円珍の尊像を祀った大師堂を御廟とし、園城寺で最も神聖な浄域とされている。
園城寺には別所と呼ばれる有力な別院が5か寺存在した。
如意寺は園城寺の別院。園城寺の東側にある如意ヶ嶽(京都市左京区)周辺にあった寺院である。創建年代は不明であるが平安時代中期には存在しており、鹿ヶ谷から園城寺に通じる「如意越」を中心に大慈院などの子院が存在し、本堂や三重塔があり隆盛を誇っていた。しかし、応仁の乱に巻き込まれてしまい応仁2年(1468年)9月に焼失し[2]、後に廃絶した。江戸時代初期に霊鑑寺の宗澄尼によって麓近くに小堂が再建されたが明治時代になると再び廃絶した。如意寺本堂に祀られていた千手観音像(重要文化財)は現存している。
戦国時代には付近に中尾城や如意ヶ嶽城が築城され、如意ヶ嶽の戦いや中尾城の戦いが行われている。現在、如意ヶ嶽にある雨神社は、かつての如意寺の鎮守社であった赤龍社である。
国宝指定名称は「絹本著色不動明王像」。通称「黄不動」と呼ばれ、高野山明王院の「赤不動」、青蓮院の「青不動」と共に日本三不動の1つに数えられる、古来著名な画像である。「金色(こんじき)不動明王」とも呼ばれるこの像は、承和5年(838年)、比叡山で籠山修行中の円珍(当時25歳)の前に忽然と現れ、「自分は金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝(円珍)を守護するために現れた。」と告げたとされる。その後、この不動明王は、円珍が唐への航海の途上、海賊に襲われそうになった時に出現するなど、円珍の生涯の危機に際して現れたとされ、円珍の守護神的な性格をもっていたと思われる。
画面の大きさは178センチ×72センチ。平安時代初期、9世紀頃の制作と推定されているが、近年修復が行われ唐時代の作とする説も出ている。不動像は両眼をかっと見開き、上半身裸形、筋骨隆々とした姿に表される。背景を描かず、像は画面一杯に描かれる。像の足下には台座がなく、虚空を踏まえている。頭髪に弁髪を造らない点など、通常の不動明王像とは図像的にかなり異なるものである。
三井寺では宗祖ゆかりのこの像を厳重な秘仏としており、出版物への写真掲載を厳しく制限している。かつては伝法灌頂という密教の儀式を受けた者にのみ黄不動像の拝観が許されていたが、昭和時代以降、在家の一般信者も参加できる「結縁灌頂」という儀式が何度か実施され、その際に黄不動像拝観の機会が与えられた。20世紀後半以降、黄不動像が公開された機会は以下の通りである。
黄不動像(絹本著色不動明王像、国宝)をはじめ、三井寺の仏像には平素公開されない秘仏が多い。唐院大師堂の木造智証大師像2躯(中尊大師・御骨大師、ともに国宝)、唐院大師堂の木造黄不動立像(重要文化財)、新羅善神堂の木造新羅明神坐像(国宝)、観音堂の木造如意輪観音坐像(重要文化財)、護法善神堂の木造護法善神立像(重要文化財)などはいずれも秘仏である。これら秘仏は下記の行事等の機会に公開されたことがある。
なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明である。
智証大師関係文書典籍
(建造物)
(彫刻)
(絵画)
(工芸品)
(書跡、歴史資料)
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。
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