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1030-1096, 平安時代中期~後期の公家。藤原行経の子。世尊寺流の能書家。官位は正二位・権中納言。勅撰集『後拾遺和歌集』以下に5首入集 ウィキペディアから
藤原 伊房(ふじわら の これふさ)は、平安時代中期から後期にかけての公家。世尊寺流の能書家。権大納言・藤原行成の孫で、参議・藤原行経の長男。官位は正二位・権中納言。
後朱雀朝末の長久4年(1043年)従五位下に叙爵し、後冷泉朝の寛徳2年(1045年)侍従に任ぜられる。
のち、左兵衛佐・少納言を経て、天喜4年(1056年)五位蔵人、天喜6年(1058年)右少弁次いで左少弁に任ぜられ、天皇の身近に仕える。治暦元年(1065年)権左中弁に昇格すると、治暦2年(1066年)従四位下、治暦3年(1067年)2月に従四位上、同年4月には正四位下と後冷泉朝末にかけて急速に昇進した。
後三条朝に入っても、延久元年(1069年)蔵人頭兼左中弁と要職を務め、延久4年(1072年)正四位上・参議兼右大弁に叙任されて公卿に列す。白河朝でも議政官として左右大弁を兼帯する傍ら、延久5年(1073年)従三位、承保2年(1075年)正三位、承保4年(1077年)従二位と昇進して、承暦4年(1080年)権中納言に任じられ、永保2年(1082年)には正二位に至った。
堀河朝の寛治2年(1088年)大宰権帥を兼ねて大宰府に赴任する。寛治8年(1094年)大宰権帥の職権を利用して遼と私貿易を行ったことを咎められ、従二位に降格の上、権中納言兼大宰権帥の官職を解かれた。嘉保3年(1096年)8月に正二位への復位が許されたが、病気のため9月16日に出家し同日に没した。享年67。以後、世尊寺家は四代続けて公卿に昇ることが出来ず、公家としては苦難の時代を迎えることになる。
白河天皇に仕えた賢臣として、大江匡房・藤原為房とともに「前の三房」と並び称された。
勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている[1]。なお、『後拾遺和歌集』の奏覧本の清書を依頼された際に、自分の和歌作品が1首しか入首していなかったことから、勝手に2首を書き加えたところ、発覚して書き直しを命じられるが、それに立腹して清書の役を辞したという。
『公卿補任』による。
『尊卑分脈』による。
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