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平安時代の日本で発生した政変 ウィキペディアから
長徳の変(ちょうとくのへん)とは、長徳元年(995年)4月10日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変。道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)とも。
道隆の嫡男である藤原伊周は、故太政大臣藤原為光の娘三の君に通っていた。長徳2年(996年)頃、花山法皇が三の君と同じ屋敷に住む四の君に通いだした(三の君と四の君は、かつて花山法皇が天皇在位中に寵愛した女御藤原忯子の妹にあたる)。ところが、伊周はそれを自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は長徳2年1月16日(996年2月7日)、『大鏡』によると、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた。更に『三条西家重書古文書』が引く『野略抄』(『小右記』の逸文)では、花山法皇の従者の童子二人を殺害しその首を持ち去ったと記されている。
花山法皇は、出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていた。しかしこの事件の噂が広がり[注釈 1]、これを政敵の藤原道長に利用される形となり、先ず隆家が4月に出雲権守に左遷された。伊周は勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法を密かに行ったとして、大宰権帥に左遷された。どちらも実質的な配流である。その他中関白家に連なる面々が連座して処断され、また姉弟であった一条天皇皇后定子の落飾の遠因ともなった。
翌年から数年後には許され都に戻されているが、これ以降伊周ら中関白家が道長に政治的に勝つことは無かった。
「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている。
なお、四の君はのちに花山院の死後、藤原道長の妾となり懐妊するが、出産時に死亡している。
長徳の変より150年後に発生した保元の乱を描いた『保元物語』(巻之二「忠正・家弘等誅せらるる事」)には、「死罪の復活」が論じられた際に、嵯峨天皇によって死罪が停止された後、法家が伊周の死罪を検申したにもかかわらず罪一等を減ぜられて流罪となったことで死罪は久しく絶えたと記されており、当時(平安時代末期)において平安時代を通じて長く続いた「死刑の停止」が薬子の変と長徳の変の2段階を経て確立されたと認識されていた、とする指摘もある[4]。
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