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超新星 ウィキペディアから
SN 1054(1054年(おうし座)超新星、別称かに超新星)は、1054年7月4日に世界各地で広範囲に観測された超新星である。この超新星は、中国や日本、アラブにおいて、23日間にわたって日中でも見えるほどに輝いたと記録されており、また653日間にわたって夜空に見えた[2]。SN 1054の雲状の残骸は、今はかに星雲として知られ、また、1774年にメシエカタログの最初に記載されたので、M1(メシエ1)とも呼ばれている。地球からの距離は約6500光年。
中国の歴史書『宋史』(宋王朝についての正史。元代の1345年完成)には、「客星」(突然現れた明るい星)に関する以下の記述がある。
【原文】
至和元年五月己丑、出天関東南可数寸、歳余稍没。(『宋史』「天文志」)
【原文】
嘉祐元年三月辛未、司天監言:自至和元年五月、客星晨出東方、守天関、至是没。(『宋史』「仁宗本紀」)
すなわち、北宋・仁宗の治世である至和元年五月己丑(ユリウス暦1054年7月4日)、天関星(おうし座ζ星)付近に「客星」が現れ、2年近く経過した嘉祐元年三月辛未(1056年4月5日)に至って見えなくなったとある。南宋の歴史家李燾による『続資治通鑑長編』(1184年完成)の巻百七十六にも同種の記述がある。
宋代に編纂された会要『宋会要』巻五十二には以下の記述がある。
【原文】
至和元年七月二十二日、守将作監致仕楊維徳言:伏睹客星出現、其星上微有光彩、黄色。謹案《黄帝掌握占》云:客星不犯畢、明盛者、主国有大賢。乞付史館、容百官称賀。詔送史館。嘉祐元年三月、司天監言:客星没、客去之兆也。初、至和元年五月、晨出東方、守天関、昼見如太白、芒角四出、色赤白、凡見二十三日。
これによれば、至和元年五月に現れた「客星」は金星のように明るく、昼間でも23日間にわたって観測できたという。
藤原定家の日記『明月記』には、陰陽師が報告した過去の「客星」出現事例の一つとして、以下が挙げられている[4]。
午前2時頃に、觜・参の星宿(おおむね現在のオリオン座にあたる)と同じ赤経にあたる、天関星(おうし座ζ星)付近に出現したとするもので、木星のように輝いていたというものである。ただし、時期については曖昧であり、旧暦四月中旬(1054年5月20-29日)ではおうし座が太陽方向にあたって超新星が観測できないため、「五月中旬」(1054年6月19-28日)の誤りであろうと考えられる[5]。
また著者不詳の『一代要記』にも記録が残っている。
SN 1054 の超新星爆発は世界中で見えたはずであるが、上述の日本と中国の文献のほかには、これを目撃したことを伝える文献資料が長らく見つからなかった[6][7]。しかし、1934年の的場による日本の天文古記録の紹介から40年以上が経ってから、MITの天文史学者ブレッチャーらが、11世紀バグダード出身のネストリウス派キリスト教徒の医師で占星術師のイブン・ブトラーンのアラビア語の著作の中に SN 1054 の目撃記録と思しき記載があることを発見した[6][7]。
イブン・ブトラーンによると、ヒジュラ暦446年(西暦換算すると1054年4月12日~1055年4月1日)のこと、彼がフスタートからコンスタンティノープルへの旅路の途中、ちょうど土星が巨蟹宮に入っているときに、輝く星が双児宮に現れているのを目撃したという[6][8]。同年秋にコンスタンティノープルでは悲惨な疫病の流行の結果、埋葬地が足りなくなるほど病死者が出ており、イブン・ブトラーンは目撃した天文現象と疫病との間に何らかの関係があると考えた[6][8]。
ブレッチャーらは、以上の記録に書かれている時間的情報と位置的情報(かに星雲はふたご座に近い)に基づくとイブン・ブトラーンの目撃した天文現象が SN 1054 を指していると結論した[6][7]。なお、イブン・ブトラーンの著作の全体は散逸してしまい、一部が14世紀ダマスクスの医師イブン・アビー・ウサイビアの著作に引用されるかたちで残っているにすぎない[6]。1978年に論文発表されたブレッチャーらの発見は、当時、日本と中国以外の地域で観測されたことが確実視される、SN 1054 の記録ということになる[6][7]。
歴史学者の清水宏祐は、肉眼で見えた SN 1054 が、1055年のトゥグリル・ベグのバグダード入城という、東方イスラーム世界にとっては大きな社会変動に対する「不思議な前兆」として捉えられた可能性を示唆する[9]。なお、上述のイブン・ブトラーンは、自分の目撃した天文現象を、al-kawkab al-atari というアラビア語で記述している[8]。これは「気象上の星」というような意味であり、当時の知識人イブン・ブトラーンが SN 1054 を、アリストテレスの宇宙構造論上、万古不変と観念された天上界で起きた現象ではなく、流々転変する月下界で起きた現象であると考えていたことを示す[8]。
1000年頃にアメリカ・インディアン(ミンブレス族やアナサジ族)によって描かれたアリゾナの壁画に残されている星の画を、この超新星とする説もある[2]。一方で、この画は部族が用いるシンボルマークにすぎないという反対意見もある[10]。
『明月記』の記録を含む日本の「客星」記録は、アマチュア天文家である射場保昭の寄稿によって1934年『ポピュラー・アストロノミー』に掲載された[11][12][13]。当時はかに星雲の起源が研究者の関心を集めており、時機を得ていた射場の論文は欧米の天文学者に注目された[14]。1942年、ニコラス・メイオールやヤン・オールトらは、『明月記』の記録などをもととして、1054年の「客星」が超新星であり、かに星雲がその残骸であることを明らかにする論文を発表した[15][16][17]。
この天体からのX線が、アメリカ海軍調査研究所 (Naval Research Laboratory) で開発されたX線探査機を積んだエアロビー (Aerobee) 型の高高度ロケットで、1963年4月に検出された。このX線源は、おうし座X-1と名づけられた。かに星雲からX線の形で放出されるエネルギーは、可視光として放出されるエネルギーの約100倍になる。
1968年11月9日に、脈動する電波源かにパルサーが、プエルトリコにあるアレシボ天文台の300m電波望遠鏡の天文学者によってM1の中に発見された。このパルサーは、1秒間に30回転している。
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