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日本の宗教学者、作家、劇作家 ウィキペディアから
島田 裕巳(しまだ ひろみ、1953年[2](昭和28年)11月8日 - )は、日本の宗教学者、作家、劇作家、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。 放送教育開発センター(現メディア教育開発センター)助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任[3][4]。
東京都出身。都立西高校の同期に金田一秀穂がいた[5]。1976年(昭和51年)東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業。同大学大学院人文科学研究科修士課程修了、1984年(昭和59年)、同博士課程満期退学(宗教学専攻)[3]。宗教学者・柳川啓一の影響を強く受け[6]、とくに通過儀礼(イニシエーション)の観点での宗教現象の分析に関心をもち[3]、専門課程で宗教学を専攻することを決意する。当時の柳川ゼミでは、調査者であることを明かさずに宗教団体に参加して調査するという「もぐり込み」手法が盛んに行われており、島田は農業ユートピアの実現を目指す「山岸会」(幸福会ヤマギシ会)を研究対象に選んで参加。逆にその理想に強く感化され、一時は山岸会の一員として生きることを決意するが、そこでの暮らしに窮屈さを覚えるようになって離脱する。この体験を自分なりに考察し、一人の宗教学者になっていった[6]。
放送教育開発センター助教授、日本女子大学助教授を経て1995年(平成7年)に教授に昇任したが、同年11月に退職した。 2005年(平成17年)10月から2008年(平成20年)3月31日まで東京大学先端科学技術研究センター特任研究員(政治学・御厨貴研究室所属)。2006年(平成18年)4月より中央大学法学部兼任講師。2008年(平成20年)4月より東京大学先端科学技術センター客員研究員。2013年(平成25年)4月より東京女子大学現代教養学部人文学科非常勤講師。また約20年にわたって、生まれ順と相性についての研究をしている。作家の稲垣真美は義理の叔父[7]。
NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。2010年に発売した『葬式は、要らない』 (幻冬舎新書)はベストセラーとなった[1]。
家族が死亡した際、火葬場で火葬した遺体の遺骨をいっさい引き取らずに火葬場側に遺骨の処理を任せ、葬儀も行わず墓も作らないことを「ゼロ葬」と呼び提唱している[8][9]。
島田はオウム真理教(現アレフ、ひかりの輪)は本物の修行型宗教であると評価し[10]、地下鉄サリン事件発生後も、オウムがサリンプラントの区画を隠蔽するために設置した大仏レリーフを背景に撮った自らの写真を示して、一連のオウム真理教事件へのオウムの関与を否定する発言をマスメディアに発表し、警察の強制捜査を批判するなどして擁護した。しかしこれらの言動により、批判や中傷を受けることとなった。
1990年(平成2年)7月刊行『別冊宝島』114号に掲載された「オウム真理教はディズニーランドである」で、初めてオウム真理教について言及した。
『週刊朝日』1991年(平成3年)10月11日号に「平成の『宗論』を読む」を寄稿[11]。「オウム真理教は仏典の研究や修行に打ち込み、仏教の伝統を正しく受け継いでいる真摯な教団である。オウムは必ず、仏典に立ち返って、自分たちの教えを説いている。オウムは最初はヨーガから始まったが、その後は、仏教の本来のスタイルに近づいている。日本の仏教は世俗化しているためにオウムが特異な集団に見えるが、むしろ仏教の伝統を正しく受け継いでいる。パーリ語の仏典を訳したりして、勉強している点も、それを裏づけている」とオウム真理教を評価した。
島田は1991年(平成3年)の気象大学校の文化祭に講師として招かれた際、わざわざ麻原を呼んで対談する企画に変更し「私なりに納得できるところがあったんですね」などと発言、この対談はオウム出版発行の本に収められ、教学と布教に利用された[12] [13]。
1992年(平成4年)に教え子の家族とオウム真理教との間に起こったトラブルに遭遇。後に「オウムの犯罪行為が明らかになった今日の現状から考えれば、より積極的に対処すべきだったかもしれない」と著書[要出典]の中で述懐している。
講談社刊の著書『いま宗教に何が起こっているのか』で、「私たちは、オウム真理教の奇妙な行動にふれるたびに、その裏になにかが隠されていると考えてしまいがちだが、かれらの行動や主張はむしろ文字通りに受け取るべきではないだろうか」と擁護した[13]。
このような姿勢についてジャーナリストの江川紹子が自宅を訪ねてインタビューしたところ、第一声は「オウムに興味ないもん」であった[13]。江川紹子は「自分の発言の重みをどう考えているのか」と書いている[13]。
また、「教団とは信頼関係はないが、麻原との個人的関係はある。僕も悪い奴だとは思っていない。彼は夢想家。それにすがる人が出てきたので拡大した。(問題とされる点はあるが)麻原は関与してないと思う。彼の考えている通りに信者がやっているかというと、それは違う」と語った[13]。これに対し江川は、「問題があっても、悪いのは教祖の考えを反映できない下々の信者の責任であるというのでは、信者の発想と一緒」「宗教学者としての島田氏の致命傷」「教団の隅から隅までを把握し、自分の意思を反映させなければ気が済まない麻原教祖の性格、教団の最も重要な特徴を見誤っている」と書いている[13]。
「オウムは半分僕を利用している」と分かっていながらオウム擁護の意図については「別にそういうことはない」「彼らはそう言っている、彼らはそう考えている、と書いているだけ」と主張した[13]。江川は「これではオウムのPRに利用されるだけ」と書いている[13]。
松本サリン事件がオウム真理教による疑惑との報道が始まった1995年(平成7年)1月25日、第7サティアンを単独取材し『宝島30』1995年3月号にレポートを発表した[13] [14]。
まずオウム顧問弁護士の青山吉伸にインタビューし、その後1994年(平成6年)の悪臭騒ぎが起きた場所に近いオウム施設第7サティアン内部を「取材」し、オウムに求められるまま「『いかにも神聖な宗教施設』という印象なのである」「結局のところ、オウム真理教は、この四年間のあいだに、より宗教教団らしい集団に発展してきたことになる」「これから、オウム真理教という特殊な宗教集団は、どういった方向に進み、また社会とどのような関係を結んでいくことになるのだろうか。サリンとのかかわりよりも、重要なのはそういった点であるのかもしれない」と書いている。後の強制捜査で発覚することになるが、第7サティアンは発泡スチロール製のシヴァ神像で偽装されたサリンプラントであった[12] [13]。
これに対し江川は「私の目にも、オウムの変化は見える。ただ、それは島田氏とはまったく別の意味でだ。この団体は以前にも増して、お布施や信者集めに熱心になり、その手段もより大胆に荒っぽくなってきている。このような変化には島田はほとんど目を向けず、オウム側の説明を無批判に受け入れている」「(松本サリン事件で7名の人が亡くなりまた多くの人が後遺症で苦しんでいる)サリンの問題は、教団の行く末よりも後回しにされるような些細な問題だろうか」と批判した[13]。
特集の最後に載せた論文『毒ガスと世界最終戦争』では、オウム側の説明を無批判に受け入れ「何か具体的な証拠があるから彼らは疑われるのではなく、最初から疑惑が向けられる構造になっているのである」と書いた[13]。
第7サティアンに続き、オウムはさらに島田を利用し、地下鉄サリン事件が反オウムの者による犯行と見せかけるため、地下鉄サリン事件前日の3月19日に島田の(以前住んでいた)マンションに爆弾を仕掛け、起爆させた(島田裕巳宅爆弾事件)。
地下鉄サリン事件が発生し、強制捜査で同施設にサリン製造プラントの存在が明らかになった直後の1995年(平成7年)3月22日、東京新聞に「(第七サティアンについて)私が見た限りでは宗教施設だった。カモフラージュしていれば別だが、そんな感じではなかった」とコメントした。(中略)その閉鎖性については「麻原さんがいればオープンだが、いまの幹部では決断力が劣る」。そして「修行は外部の人には理解できない。土地トラブルなどお布施には利害が絡むので、社会とあつれきを生むのは必然的だ。しかし、教団はゆっくり発展していく」とみる。一連のサリン事件については「オウム側か、国家権力による謀略か分らないが(教団と)何らかの関係はあるようだ」。ただ、強制捜査については「法的にいろいろ問題がある。情報がないのに、怪しい事実があるというだけで捜査したのではないか」と疑問視した。
『「罪深き」私にとってのオウム』を発表。オウム真理教がなぜサリンを製造し、それを使用しなければならなかったのか、その動機についてはまだ見いだせない、としてサリン事件をオウム真理教の仕業であると決め付けてはいけないとの見解を示した。
オウム真理教の一連の事件が次々に明るみに出ると、各種のメディアから島田に対する批判や、根拠のない誹謗中傷が相次いだ。『日刊スポーツ』の一面で、島田が同教団から幹部用の教団名ホーリー・ネームを授かっている、学生をオウムの信者に勧誘したとなどと報じられ[15]、大学から休職処分を受け最終的には大学教授の辞職へと追い込まれた。島田は日刊スポーツを名誉毀損で提訴。公判の過程で、日刊スポーツの記事には裏付けが一切取られていないことが明らかとなり、新聞社側に賠償金支払いと謝罪広告の掲載が命じられ、島田の全面勝訴となった。
東京大学先端科学技術センターの御厨貴政治学研究室の特任研究員を経て、2008年(平成20年)4月より同センター客員研究員に就任。著作活動を中心に活動している。
2018年(平成30年)に出版した自著『「オウム」は再び現れる』では、オウム真理教の信者が麻原の指示を断ったり指示に疑念を抱いたりしなかった理由として「結局それを断るのが面倒だったからではないか」と分析していた。また、オウム真理教が急激に勢力を伸ばした要因として、バブル景気を味方につけ、不動産取引で資金を稼いだことを挙げた。オウム真理教在家信者死亡事件という秘密を教団が持ったことが、教団の秘密が露見しないように殺人で口封じを行うという教団の体質を作ったとも主張した。この著書によると、オウムの一般信者は出家生活において厳格な規制を受けたわけではないといい、村上春樹の著書『約束された場所で―underground 2』から引用した部分によると、ワークで失敗が起こると皆で「カルマが落ちた」と喜ぶなど、一般企業には存在する「一人ひとりの責任」の概念が皆無であったとされる。出家制度についても、ヨガサークル時代に当時の会員が麻原の家に勝手に泊まり込んでいたところから自然発生したものであるという趣旨の分析をしている。
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