Loading AI tools
1995年に東京都で発生した同時多発テロ事件 ウィキペディアから
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年(平成7年)3月20日に日本の東京都で発生した同時多発テロ事件。警察庁による正式名称は地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件(ちかてつえきこうないどくぶつしようたすうさつじんじけん)[注 2]。日本国外では「英: Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある[2]。
地下鉄サリン事件 | |
---|---|
事件発生時の築地駅前 | |
場所 |
日本・東京都 帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)の一部路線 |
日付 | 1995年3月20日 |
標的 | 営団地下鉄(現:東京メトロ)丸ノ内線・日比谷線・千代田線の乗客および乗員・駅員など |
攻撃手段 | 地下鉄の列車にサリンを撒くことによる化学テロ・宗教テロ |
兵器 | サリン |
死亡者 | 12人 - 14人[注 1] |
負傷者 | 約6,300人[1] |
犯人 |
オウム真理教 首謀者:松本智津夫(麻原彰晃) 総括役:村井秀夫 調整役:井上嘉浩 実行犯(散布役・送迎役):林郁夫・新実智光・横山真人・外崎清隆・広瀬健一・北村浩一・豊田亨・高橋克也・林泰男・杉本繁郎 サリン製造役:遠藤誠一・土谷正実・中川智正 その他:女性信者2名 |
動機 | 教団への捜査の撹乱と首都圏の混乱 |
対処 | 首謀者らに死刑判決および執行 |
地下鉄サリン事件では、東京の帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)の営業運転中の地下鉄車両内において、宗教団体のオウム真理教の信者らにより神経ガスのサリンが散布され、乗客及び職員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。1995年当時としては、平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。
毎日新聞では、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並んで『オウム3大事件』[3] と表現されている。
1995年(平成7年)3月20日8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現東京メトロ、以下営団地下鉄)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布された。乗客や駅員ら14人[注 1]が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。
営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定通りのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置を執った。
3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫と井上嘉浩が乗客数および官公庁の通勤のピークが8時10分ごろであると考えたためである[4][5]。各実行犯は500〜600gの溶液(うちサリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車[6]。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。これらの路線の車内はラッシュ時には非常に混雑するため、危険回避のために乗客が車両間を移動することは困難であったと推測されている。
この事件は教祖の麻原彰晃が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは遠藤誠一を中心に土谷正実と中川智正の補佐によって生成したものが使われた。
事件から2日後の3月22日、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教祖の麻原が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。
リムジン謀議(後述)には、麻原・村井・遠藤・井上・青山吉伸・石川公一の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。
東京地方裁判所は、首謀者の麻原をはじめ、サリン製造に関与した3人(遠藤・土谷・中川)、散布実行犯5人のうち林郁夫を除く4人[注 3] と、送迎役5人のうち新実智光[注 4] に死刑を言い渡した一方、新実と逃走中の高橋克也を除く送迎役3人(いずれも求刑は無期懲役)と井上嘉浩[注 5](求刑:死刑)には無期懲役が言い渡された。東京高等裁判所の控訴審では、井上[注 5] にも死刑判決が言い渡された。サリン製造役3人および実行役4人、新実・井上の計9人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2011年(平成23年)に遠藤の上告が棄却されたことをもって確定した。
2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた被疑者は全員逮捕された。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑:同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。
2018年(平成30年)7月、事件に関与した死刑囚の死刑が執行された。
本事件を受けてサリン等による人身被害の防止に関する法律が制定された。
麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において、専門知識があり、また自らに対して従順な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようとさまざまな兵器を開発する中でサリンにも着目し、土谷正実、中川智正、遠藤誠一らがこれを製造するにいたった。
教団では1990年(平成2年)の衆議院選惨敗のころから、村井秀夫や遠藤誠一らが生物兵器ボツリヌス菌の培養を試みていた。1992年(平成4年)にはロシアに進出し多数の兵器を購入、翌1993年(平成5年)には多種の兵器開発を強化し、93年5月には炭疽菌培養を開始し、6月には亀戸異臭事件が起こり、7月には東京で散布していた(のちに発覚)[7]。8月にはサリンの生成の合成に成功、11月には池田大作サリン襲撃未遂事件を起こした[7]。1994年(平成6年)5月9日には滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、同年6月27日には松本サリン事件が発生し、ついに死者が発生した。同年8月には皇居周辺でのサリン散布を計画、同じころ土谷正実がVXの合成に成功してからは、教団に敵対する人物らを次々と襲撃していった。
またサリン70t製造を目指してサリンプラント計画が進行しており、1994年11月ころ、5工程からなるサリンの大量生成の方法を決め、第1工程では、溶媒としてN-ヘキサンを用い,三塩化リン、メタノールおよびNNジエチルアニリンを反応させて亜リン酸トリメチルを生成、第2工程では触媒としてヨウ素を用い、亜リン酸トリメチルからジメチルを生成し、第3工程ではジメチル及び五塩化リンからメチルホスホン酸ジクロライドを生成、第4工程ではジクロおよびフッ化ナトリウムを反応させてメチルホスホン酸ジフロライドを生成、第5工程でジクロ、ジフロおよびイソプロピルアルコールを反応させサリンを生成することとした[7]。CIA文書によれば、三塩化リンと塩素を混合するサリン生成法はロシア軍独自のものであった[8]。
1995年(平成7年)1月1日、読売新聞朝刊が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープ[9][10]。読売のスクープを受けオウム真理教はサリンを処分し第7サティアンに建設中だったサリンプラントは神殿に偽装した。しかし中川智正がサリンの中間物質メチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)を密かに保管しており(諸説あり、後述)[6]、これが地下鉄サリン事件に使用されることとなったとされる。
麻原は1995年1月17日の阪神・淡路大震災により警察の強制捜査はいったん遠のいたと考えていたが、同年2月末の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でのオウム真理教の関与が疑われ、麻原ら教団幹部は強制捜査が切迫していると危機感を抱いた[注 6]。教団内部では、1994年11月ごろから東京の現職警官信者からの情報として強制捜査の噂が流れていた[11]。警視庁公安部内のオウム信者の情報では、薬品の購入ルートが調査されていることが麻原に報告されていた[12]。
このため、麻原は3月上旬、第6サティアン1階で井上嘉浩に、村井秀夫が東急ハンズで購入した液体噴霧器「六法煙書」を用いて、遠藤誠一が研究していたボツリヌストキシンの効果実験を行うよう指示。事件5日前の3月15日に営団地下鉄霞ケ関駅に井上嘉浩、山形明、高橋克也が六法煙書を仕込んだ改造アタッシェケースを3つ放置したが、水蒸気が出るだけで失敗した[6][13][14]。ケースは警視庁・警察庁の職員たちが利用する「A2」出入口構内に置かれていた。
井上らは科学技術省の改造したアタッシェケースではどうせ失敗すると思っていたという。麻原は遠藤を叱責したが、遠藤は噴霧口のアタッシェケースのメッシュのせいであるとの自説を唱えた[14]。遠藤は裁判で毒が完成していないのにやらされたとしている[15][16]。
事件2日前の3月18日の深夜0時、都内のオウム経営飲食店で正悟師昇格祝賀会が行われる。祝賀会中に麻原は幹部に対し、「エックス・デーが来るみたいだぞ」「なあ、アパーヤージャハ(青山吉伸)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査のときと一緒だって言ったよな」と強制捜査を話題に出していた[7]。祝賀会終了後の18日未明、上九一色村に帰る麻原ら幹部(麻原、村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一)を乗せたリムジンにおいて、強制捜査への対応が協議された(リムジン謀議。車中謀議とも)[17]。
麻原は「今年の1月に関西大震災(阪神・淡路大震災)[注 7] があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな」と発言。井上がボツリヌス菌ではなくサリンならばよかったのではと回答すると、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した[6][17]。
総指揮は村井、現場指揮は井上が担当となった。村井は実行役として今度正悟師になる科学技術省所属林泰男、広瀬健一、横山真人、豊田亨を推薦し、麻原が林郁夫も加えた(ちなみに松本サリン事件では逆に林郁夫を麻原の指示で実行役から外している)。
また井上が島田裕巳宅爆弾事件、東京総本部火炎瓶事件を実行し、事件は反オウムの者によるオウム潰しの陰謀と思わせて同情を集めることも計画された[6][18]。石川公一も自分の足を狙撃して自作自演事件を起こしたらどうかと志願したが、麻原はそこまでしなくていいとして止めた[17]。
謀議内容については井上の証言に頼るものとなっているが、ほかに遠藤が「サリンつくれるか」「条件が整えば…」の発言があったことを証言している[19]。
青山「いつになったら四ツになって戦えるんでしょう」
— 1996年9月20日の井上嘉浩証言に基づく[5][20]
麻原「11月ころかな」
村井「ええ、やっぱり11月になると輪宝ができるし」
麻原「そうかもしれないな。今年の1月に関西大震災[注 7] があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな。やっぱりメッシュが悪かったのかな」
麻原「アーナンダ(井上)、何か無いのか」
井上「T(ボツリヌストキシン)ではなくて、妖術(サリン)だったらよかったんじゃないですか」
村井「地下鉄にサリンを撒けばいいんじゃないか」
麻原「それはパニックになるかもしれないな」
(サリンの揮発性について村井と麻原が会話)
麻原「アーナンダ、この方法でいけるか」
井上「尊師が言われるようにパニックになるかもしれませんが、私には判断できません。1月1日の新聞であったように、山梨県警と長野県警が動いているようですから、おそらく薬品の購入ルートはすべてばれているでしょう。ということは、こちらからサリン70トン造ろうとしていることは向こうも気づいていると思います。だから、向こうが、こちらがサリン70トン造りきったと思っているなら怖くて入って来られないでしょう。反対に、こちらがサリン70トン造りきっていないということを気づいているならば、堂々と入って来るでしょう。だとするならば、牽制の意味で硫酸か何かを撒いたらいいんじゃないでしょうか」
麻原「サリンじゃないとだめだ。アーナンダ、お前はもういい。マンジュシュリー(村井)、お前が総指揮だ」
村井「はい。今度正悟師になる4人を使いましょう」
麻原「クリシュナナンダ(林郁夫)を加えればいいんじゃないか」
麻原「(遠藤に対して)サリンはつくれるか」
遠藤「条件が整えば作れるのではないでしょうか」
麻原「新進党と創価学会がやったように見せかければいいんじゃないか。サリンを撒いたら強制捜査が来るか、来ないか、どう思うか」
石川「関係なしに来るでしょう」
井上「少しは遅れるかも知れないが、来ると決まっていれば来るでしょう」
石川「強制捜査が入ったら私が演説をしますので足などをピストルで撃ってもらって、そうすれば世間の同情を買えるのではないでしょうか」
麻原「クーチャン[注 8] にやらせられるか」
井上「可能だと思います」
麻原「(石川に対して)お前はそこまでやる必要はない」
青山「島田さんのところに爆弾を仕掛けたら、世間の同情を買えるのではないでしょうか」
井上「それだったら青山(南青山総本部)に仕掛けたらいいんじゃないでしょうか」
麻原「それだったら、島田さんのところには爆弾を仕掛け、青山には火炎瓶を投げたらいいんじゃないか」
千代田線の我孫子発代々木上原行き(列車番号A725K[注 10]、東日本旅客鉄道〈JR東日本〉常磐緩行線から直通)には、散布を林郁夫[注 3]、送迎を新実智光[注 4]が担当した。当該編成はJR東日本松戸電車区所属の203系マト67編成[注 11]であった。
マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅と北千住駅で時間を潰した後、先頭の1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分ごろ、新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。穴が開いたのは1袋のみであった[26]。列車はそのまま走行したが、二重橋前駅 - 日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのを機に次々と被害者が発生し、霞ケ関駅で通報を受けた駅員が駆けつけ、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが、さらに被害者が増えたことから次の国会議事堂前駅で運転を打ち切った(その後、回送扱いとなり、松戸電車区へ移動)。サリンが入っているとは知らずにパックを除去しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負った。
丸ノ内線の荻窪発池袋行き(列車番号B701)は散布を横山真人[注 12]、送迎を外崎清隆[注 13] が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第50編成[注 14]であった。
横山は5号車(02-550)に新宿駅(7時39分発)から乗車し、高架駅である四ツ谷駅進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。穴が開いたのは1袋のみであった[26]。列車は8時30分に終点池袋駅に到着。その際、本来ならば駅員によって車内の遺留物の確認が行われるが、この時は行われず、折り返し池袋発荻窪行き(列車番号A801)として出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップで掃除したが、運行はそのまま継続され、荻窪駅到着後に再び荻窪発池袋行き(列車番号B901)として折り返した。列車は運行を継続していたが、サリン散布から1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行を中止した。同線では約200人が重症を負ったが、この電車では唯一死者が出なかった。
丸ノ内線の池袋発荻窪行き(列車番号A777)には、散布を広瀬健一[注 15]、送迎を北村浩一[注 16] が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第16編成[注 17]であった。
広瀬は2号車(02-216)に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、茗荷谷駅もしくは後楽園駅停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、御茶ノ水駅到着時にサリンを散布した[26]。その後、中野坂上駅で降車した乗客が当該列車の運転士に「車内に急病の人がいる」と申し出た。同駅の駅員が重症者を搬出するとともにサリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続し終点荻窪駅に到着。新しい乗客を乗せてそのまま池袋方面に折り返した[注 18]ため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が増え続けることとなった。また、広瀬自身もサリンの影響を受け、林郁夫によって治療を受けた。この電車では2人が死亡し、358人が重症を負った。
日比谷線の中目黒発東武動物公園行き(列車番号B711T[注 19]、北千住駅から東武伊勢崎線(現在は「東武スカイツリーライン」の愛称で案内される)へ直通[注 20])は、散布役を豊田亨[注 21]、送迎役を高橋克也[注 22] が担当した。当該編成は東武鉄道春日部検修区所属の20000型第11編成[注 23]であった。
豊田は先頭車両(28811[注 24])に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、次の恵比寿駅進入時にサリンのパックを刺した[26](ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。六本木駅 - 神谷町駅間で異臭に気づいた乗客が窓を開けたが複数名が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者は病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出発したため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は隣の霞ケ関駅[注 25]まで走行して運行を中止した。この電車では2人が死亡し、532人が重症を負った[注 26]。なお、サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていたほか、当時共同通信社社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出した[28]。
日比谷線の北千住発中目黒行き(列車番号A720S[注 27])は、散布を林泰男[注 28]、送迎を杉本繁郎[注 29]が担当した。当該編成は営団千住検車区所属の03系第10編成[注 30])であった。
他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林泰男は3パックを携帯した。また、3パックのうち1パックの内袋が破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。林泰男は北千住7時43分発中目黒行き(当日は定刻より3分遅れで運行)の3号車(03-310)[注 31]に上野駅から乗車し、秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した[注 32]。乗客の咄嗟の行為は責められるものではないが、この行動がサリンによる被害を拡大させる一因となった。
サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したが、5分後、八丁堀駅停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(このときの救出時の光景がテレビで中継された)。列車はただちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という臆測が続いた。
小伝馬町駅ではサリンのパックがホームに蹴り出されたことで、A720Sの後続列車である八丁堀、茅場町、人形町、小伝馬町の各駅で運転を見合わせた4列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、同駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させたあとに小伝馬町駅に停車した列車の5列車も被害を受けた。小伝馬町駅には5列車が到着し、うち2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切ったため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となり、同駅では4人が死亡した。
これにより、本事件で最多となる6列車が被害を受け、8人が死亡し2,475人が重症を負った。
事件後、実行犯らは渋谷アジトでテレビを見て事件の発生を確認し、新実智光は死人が出たことを知ると大はしゃぎしたという[29]。使った傘など証拠品は多摩川で焼却した後、実行犯らは第6サティアンに帰還して麻原に報告した。麻原は「ポアは成功した。シヴァ大神、すべての真理勝者方も喜んでいる」「これはポアだからな、分かるな」と、あくまで事件はポアであったことを強調した。そして、「『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね』のマントラを1万回唱えなさい」と命じ[7][30]、おはぎとオレンジジュースを渡した[31]。
事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地・八丁堀・神谷町の各駅に消防車や警察車両など、緊急車両が多数送られた。次第に被害が拡大したため、8時35分には日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車およびホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線と丸ノ内線では不審物および刺激臭の通報のみで、さらに被害発生の確認が遅れたため、運行が継続された。
9時27分、営団地下鉄はすべての路線で全列車の運転見合わせを決定する(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった南北線も含む。副都心線は有楽町線併走区間を除いて未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。その一方で、都営地下鉄は運転を継続している。
被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。
大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになった。丸ノ内線と千代田線については、被災車両を車庫や引き込み線に引き上げたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)として運転を再開したが、自衛隊によるサリンの除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は銀座駅 - 四谷三丁目駅間、千代田線は大手町駅 - 表参道駅間を部分運休した。除染作業終了後はほぼ所定通りのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅は通過扱いとされた。
上記3路線以外は確認を終えた路線から順次運転を再開したが、全駅、全列車に警察官、警備員などが配置される異例の事態となった。
事件直後、前出の5列車以外の列車で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5列車以外での事件発生はなかった[注 33]。しかし、乗客等に付着したり、気化するなどしたサリンは、他の駅や路線にも微細に拡散していった。
当初は「地下鉄で爆発」「地下鉄車内で急病人」など誤報の通報が多くサリンの散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に入り被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が原因物質の特定にあたったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった(ただし、サリンの溶剤としてアセトニトリルが使用されていた可能性がある)。さらにこの分析結果は、化学物質が原因の災害であることを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで時間を要した。その結果、消防隊員や警察官にも多数の二次被害が発生し、消防および救急隊員など消防職員の負傷者は135名にのぼったほか、警察官にも多数の負傷者を出した。また、現場で負傷者の除染が行われなかったために、搬送先の病院でも負傷者に付着したサリンが気化し、医療関係者を襲うという二次被曝も発生した。
救急車の到着が遅れたため、一部の急病人は偶然通りかかった民間車両によって医療施設に搬送された。
警視庁には8時20分ごろ、日比谷線八丁堀駅駅員から「2名病人が出た」と110番通報があり、その後、他の駅からも「異臭がして病人が出ている」と相次いで通報が寄せられた。8時30分ごろ、築地三丁目15番1号を中心に警戒態勢、8時53分ごろには駅構内に入る場合は防毒マスク使用を義務づけられる命令を発令、8時58分ごろには東京23区内で全体G配備(全体ゲリラテロ配備)を発令した。動員数は最大限の人数を表す「甲号」とした。なお、乗客の証言等からこの時点では毒物テロのみならず、爆発物テロの可能性も含めて警戒するよう警視庁管制官から指示が下った。
また、機動隊を出動させ被害者の救助活動と警戒にあたった。このときに限りすべての急病人搬送に官民すべての車両の使用を許可した。
警察庁では9時に対策本部を設置した。警視庁でも井上幸彦警視総監を指揮官に対策本部を設置し、警視総監が事件の指揮を執った。対策本部には警視庁刑事部長、警視庁警備部長、警視庁公安部長も招集された。
救出活動と並行しつつ警視庁鑑識課が臨場し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し、現場検証を開始した。
警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官の検査によって、その毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明した。この情報は、11時から開かれた警視庁捜査第一課長による緊急記者会見などを通じて関係各所へ伝達された。
東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」との通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」との報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。
通報を受け、化学機動中隊・特別救助隊・救急隊など多数の部隊を出動させ、被害者の救助活動や救命活動を行った。東京消防庁はこの事件に対して救急特別第2、救助特別第1出場を発令、延べ340隊(約1,364人)が出動し、被害者の救助活動・救命活動を展開した。
この事件では特別区(東京23区)に配備されているすべての救急車が出動したほか、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では救急車が来ないか、来ても搬送が遅いという状況に陥った。
緊急に大量の被害者の受け入れは通常の医療施設では対応困難なものであるが、大きな被害が出た築地駅近くの聖路加国際病院は当時の日野原重明院長の方針[注 34]により、大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていた[注 35]ため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との宣言のもと、無制限の被害者の受け入れを実施して被害者治療の拠点となった[注 36]。また、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療はただちに中止となった[注 37]。虎の門病院も、数名の重症被害者を集中治療室(ICU)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った[注 38]。
有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)は主に農薬中毒の際に用いられるものであり、当時多くの病院で大量に保管する種類の薬剤ではなかった。有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には2時間で2本が標準とされることもあり、被害がサリンによるものだと判明すると同時に東京都内での在庫が使い果たされてしまった。そのような中、聖路加国際病院から「大量のPAMが必要」との連絡を受けた名古屋市東区に本社を置く薬品卸会社のスズケンは、首都圏でのPAMの在庫がほとんどなかったことから、東海道新幹線沿線の各営業所および病院・診療所にあるPAMの在庫を集め、東京に至急輸送するために、名古屋駅から社員を新幹線に乗せ、浜松・静岡・新横浜の各駅のホームで、乗ってきた社員が直接在庫のPAMを受け渡して輸送するという緊急措置を執った[36]。また、陸上自衛隊衛生補給処からもPAM2,800セットが送られた。
PAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや硫酸アトロピンを関西地区から緊急空輸し、羽田空港からは自動車でパトロールカー先導の輸送(道路交通法で、緊急車両認定を受けていない自動車でも、他の緊急車両の先導があれば緊急走行ができると定められているため)にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で「有機リン薬剤を作っている責任上、解毒剤も用意しておくのが責任」として毎年製造を続けていた。
当時、サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫がテレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファクシミリで伝えたため、適切な治療の助けとなった。
この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。
警視庁科学捜査研究所の発表により、医療機関は対NBC兵器医療を開始した。
陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウム真理教によるサリン攻撃であるとただちに判断していた。事件発生から29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)、第101化学防護隊、および陸上自衛隊化学学校から教官数人が、事件後地下鉄内に残されたサリンの除去のため専門職として部隊創設後、初めて実働派遣された。
そのうち第1師団において、12時50分、鈴木東京都知事から陸上自衛隊第1師団長の杉田明傑陸将に対し「地下鉄霞ケ関駅構内の有毒ガス除去のため自衛隊の災害派遣」を要請。これにより、第1師団司令部付隊化学防護小隊(練馬・「以下司令部付隊省略」)が73式小型トラック+1/4tトレーラー1両、除染車3型(B)1両、化学防護小隊長以下6名が第1波として出動。13時30分に霞ケ関駅に到着し、偵察(ガス検知器2型でサリンを検知)および除染作業を行った。
以下細部状況として、第1師団化学防護小隊のエキスパート隊員は、防護マスクに化学防護衣を装着。ガス検知をしたあと、霞ケ関駅構内および駅長室に対し、付着したサリンを中和させる次亜塩素酸カルシウム溶剤(さらし粉、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)類)を携帯除染器2型(噴霧器)で散布。第2波の隊員合流後、松戸電車区(現・松戸車両センター)などへも移動して夜中まで除染作業は続いた。
本事件で都知事からの要請を受けて一番早く事件現場に駆けつけたのは、練馬駐屯地に編成している第1師団の化学防護小隊(当時24名在籍、現在は第1特殊武器防護隊に改編)の生え抜き6名のスペシャリストであった。
事件現場となった霞ケ関駅の特性として、除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心[注 39] とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った[注 40][注 41]。
また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院および衛生学校から医官21名および看護官19名が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った。
聖路加病院へ駆けつけた医官は直近に化学兵器対応の講習を含む幹部研修を受けており、現場派遣時にはその講習資料を持ち出していた[注 42][37]。先述の『対化学兵器治療マニュアル』はここから提供されており、原因の断定や治療方針の早期決定に役立った[注 43]。なお当初は爆発事故として出動したため、後に日野原院長へ「毒ガス専門の医官[注 44]が来た」と報告されたこの医官が専門資料を携え最も多くの被害者が運び込まれた聖路加病院に出動したことは偶然である。後にアメリカ軍とイスラエル軍は自衛隊から事件の聴取を行い、十数人の死者で済んだのは奇跡、と評している。
なお、自衛隊では関東周辺の陸上自衛隊各部隊[注 45]に対し非常呼集対応を行ったものの、実働は本稿に記載されているように、最小限の部隊を派遣した。
在京キー局の中で、事件の速報コメントは日本テレビ『ルックルックこんにちは』の開始直後の8時30分、現場のお天気カメラ映像がもっとも早かったのが8時42分に、テレビ朝日で生放送中だった『スーパーモーニング』であった。事件が発生した日、在京キー局の地上波テレビではNHK教育以外全ての局において8時30分以降の通常番組が報道特別番組に変更された[38][39][40]。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。
新聞・テレビなどの各マスメディアは、本年1月に発生した阪神・淡路大震災を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「緊急報道スペシャル」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。新聞も一般紙はもちろんのことスポーツ紙までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどで、事件当時開幕を控えていたプロ野球関係の記事が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。
事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連のニュースはトップとして扱われた(警視庁長官狙撃事件や全日空857便ハイジャック事件、麻原の逮捕など)。ドイツでは『ナチスの毒ガス(=サリンの意)東京を襲う』と報道された。オウム真理教による一連の行動を東京支局を含めてまったく察知していなかったアメリカ合衆国のCNNでは、東京支局経由で速報を伝える段階で「アラブ系テロリストによる犯行の可能性がある」と誤って報じた[要出典]。
事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った者もおり、多くはそれによって症状を悪化させた。列車の乗客を救助したことでサリンの被害を受けた犠牲者もいる。
目撃者や被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、電車に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。被害者の8割が目に後遺症を持っているとされる[41]。そのほか、被害者は癌に罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で死亡する被害者も少なくない。また、その当時重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、いまだに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる[注 46]。
裁判では迅速化のため、負傷者は当初3,794人とされ、1997年12月には訴因変更により14人に絞っている。
作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』があるほか、自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーのさかはらあつしによる著書『サリンとおはぎ』がある。
ジャーナリストの辺見庸も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。
その他、フリーダイビング選手の岡本美鈴やカメラマンの野澤亘伸もこの事件に遭遇している。
2009年、裁判員候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。
死者 | 死亡日時/時刻 | 乗車路線・利用駅 |
---|---|---|
33歳女性 | 1995年3月20日午前 | 8時 5分頃死亡日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |
92歳男性 | 1995年3月20日午前 | 8時10分頃死亡日比谷線・中目黒発・神谷町駅 |
50歳男性 | 1995年3月20日午前 | 9時23分頃死亡千代田線・霞ケ関駅 |
29歳男性 | 1995年3月20日午前10時 | 2分頃死亡日比谷線・北千住発・築地駅 |
50歳女性 | 1995年3月20日午前10時20分頃死亡 | 日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |
42歳男性 | 1995年3月20日午前10時30分頃死亡 | 日比谷線・北千住発・八丁堀駅 |
51歳男性 | 1995年3月21日午前4時46分頃死亡 | 千代田線・霞ケ関駅 |
54歳男性 | 1995年3月21日午前6時31分頃死亡 | 丸ノ内線・池袋発・中野坂上駅 |
64歳男性 | 1995年3月22日午前7時10分頃死亡 | 日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |
53歳男性 | 1995年4月 | 1日午後10時52分頃死亡日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |
21歳女性 | 1995年4月16日午後2時16分頃死亡 | 日比谷線・北千住発・築地駅 |
52歳男性 | 1996年6月11日午前10時40分頃死亡 | 日比谷線・北千住発・築地駅 |
76歳男性 | 1995年3月21日死亡[1] | [註 1] | 日比谷線・中目黒発に乗車。事件の翌日、心筋梗塞で死亡
56歳女性 | 2020年3月10日死亡 | 丸ノ内線・池袋発・中野坂上駅[42] |
教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、警察は全国の教団施設計25か所で家宅捜索を実施した。自動小銃の部品、軍用ヘリ、サリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコールや三塩化リンなどの薬品が発見された。また、事件前の1月には上九一色村の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。サリンを撒いた実行犯も特定できず、松本智津夫ら幹部を逮捕する容疑が見つからなかった。
強制捜査後、オウム側は関与を否定するため、
といった主張を唱えた[43]。
事件から19日後の4月8日、警察は教団幹部であった林郁夫を放置自転車窃盗の容疑で逮捕した。教団に不信感をつのらせていた林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と取り調べていた警視庁警部補に対し自白。地下鉄サリン事件の役割分担などの概要を自筆でメモに記した。このメモで捜査は一気に進み、5月6日、警察は事件をオウム真理教による組織的犯行と断定し一斉逮捕にこぎつけた。このころにはすでに新宿駅青酸ガス事件、東京都庁小包爆弾事件などが相次いでいた[44]。
4月23日、村井秀夫刺殺事件が発生。これにより事件のキーパーソンである村井の持つ情報を引き出すことが不可能となった。
役割 | 氏名 (ホーリーネーム) | 当時の役職 | 担当 | 逮捕日 | 判決 |
---|---|---|---|---|---|
首謀者 | 麻原彰晃 (マハーグル・アサハラ) | (神聖法皇) | 教団代表- | 1995年 5月16日 | 死刑 (2018年7月6日執行) |
総括役 | 村井秀夫 (マンジュシュリー・ミトラ) | 科学技術省大臣 | - | 1995年 4月24日死亡 | - |
調整役 | 井上嘉浩 (アーナンダ) | 諜報省長官 | - | 1995年 5月15日 | (2018年7月6日執行) | 死刑
散布役 | サリン林郁夫 (クリシュナナンダ) | 治療省大臣 | 千代田線・我孫子発 | 1995年 4月 8日 | 無期懲役 |
横山真人 (ヴァジラ・ヴァッリィヤ) | 科学技術省次官 | 丸ノ内線・荻窪発 | 1995年 5月16日 | (2018年7月26日執行) | 死刑|
広瀬健一 (サンジャヤ) | 科学技術省次官 | 丸ノ内線・池袋発 | 1995年 5月16日 | (2018年7月26日執行) | 死刑|
豊田亨 (ヴァジラパーニ) | 科学技術省次官 | 日比谷線・中目黒発 | 1995年 5月15日 | (2018年7月26日執行) | 死刑|
林泰男 (ヴァジラチッタ・イシディンナ) | 科学技術省次官 | 日比谷線・北千住発 | 12月3日 | 1996年(2018年7月26日執行) | 死刑|
散布役の送迎 | 新実智光 (ミラレパ) | 自治省大臣 | 林郁夫の送迎役 | 1995年 4月12日 | (2018年7月6日執行) | 死刑
北村浩一 (カッサパ) | 自治省次官 | 広瀬健一の送迎役 | 11月14日 | 1996年無期懲役 | |
外崎清隆 (ローマサカンギヤ) | 自治省次官 | 横山真人の送迎役 | 1995年 5月16日 | 無期懲役 | |
高橋克也 (スマンガラ) | 諜報省 | 豊田亨の送迎役 | 6月15日 | 2012年無期懲役 | |
杉本繁郎 (ガンポパ) | 自治省次官 | 林泰男の送迎役 | 1995年 5月16日 | 無期懲役 | |
製造者 | サリン遠藤誠一 (ジーヴァカ) | 第一厚生省大臣 | 製造役の指示・製造 | 1995年 4月26日 | (2018年7月6日執行) | 死刑
土谷正実 (クシティガルバ) | 第二厚生省大臣 | 製造時の助言・製造 | 1995年 4月26日 | (2018年7月6日執行) | 死刑|
中川智正 (ヴァジラティッサ) | 法皇内庁長官 | 製造 | 1995年 5月17日 | (2018年7月6日執行) | 死刑|
田下聖児 | 厚生省 | 製造補助 | 1995年 3月31日 | 懲役7年 | |
(チャーパー) | 佐々木香世子法皇内庁 | 製造補助 | 1995年 5月17日 | 懲役1年6か月 | |
(ヴァジラ・サンガー) | 森脇佳子厚生省 | 製造補助 | 1995年 5月16日 | 懲役3年6か月 |
地下鉄サリン事件は、当時の日本国内において最大級の無差別殺人行為となったほか、1994年(平成6年)に発生した松本サリン事件に続き、一般市民に対して化学兵器が使用されたテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた[注 47]。
一連のオウム真理教事件により、オウム真理教は宗教法人の認証認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕によって脱退者が相次ぎ、本事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下に減少した。オウムは組織として大きな打撃を受け破産したが、2000年にAleph(アレフ)に改組し活動を続けている。Aleph2代目代表で現ひかりの輪代表の上祐史浩は、本事件が起きた当時、オウム真理教の事件の関与を否定し続けたスポークスマンであった。公安審査委員会は破壊活動防止法(破防法)に基づく解散措置の適用を見送ったが、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(オウム新法)が制定され、アメリカ合衆国国務省は現在もAlephをテロリストグループに指定している。
その他、地方自治体や賃貸住宅が信者の居住を拒否したり、商店主が信者への商品の販売を拒否する事例も相次いだ。また、信者への住居の賃貸、土地の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に公金を投じることとなった。
事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下など比較的軽度のものから、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在のところ被害者への公的支援はほとんど行われていない[注 48]。
本事件後、営団地下鉄の駅構内からゴミ箱が撤去された。その後1997年4月1日に復活した。この際、ごみ箱は駅員の目の届く場所に集約され、数は半減された[45]。また、営団地下鉄の全車両のドアに「駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告ステッカーを貼りつけた。その後、2004年の民営化による東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して英語版も掲出され、同時期に都営地下鉄にも拡大している。なお、同様のステッカーやアナウンスなどが他の鉄道事業者に波及するのは2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降である[要出典]。
その後2004年のマドリード列車爆破テロ事件を受けて、東急電鉄・京浜急行・京王電鉄など各事業者が外観から中身が見えるゴミ箱が設置するようになった[45]。東京メトロでも2005年4月より設置されている[46]。Webライターの石動竜仁の調査によると、地下鉄サリン事件を理由としてゴミ箱を撤去している鉄道事業者は確認できないという[45]。各鉄道事業者やはゴミ箱の撤去理由について、家庭ごみが持ち込まれること、注射針が捨てられ清掃員が危険であること、営業に支障をきたすような物品がゴミ箱に投棄されたこと、などを挙げている[47][48]。
地下鉄サリン事件被害者の会(高橋しずえ代表)は被害者の新規入会を一切認めていない。よって後遺症に苦しむ被曝被害者の現実が社会に伝わっていないという問題が発生している。[要出典]
地下鉄サリン事件ではメチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)からサリンが作られた。検察側は、サリンを作るために中川が保管していたと主張。中川は「中和できなかったためにVXと一緒に井上が持っていたものがサリンの原料になった」と主張した。この点について井上は、「VXは預かっていたが他は知らない」と証言した。
中川によると、このジフロは1995年1月5日に村井秀夫とともにクシティガルバ棟を再点検した際にVXとともに発見されたもので、中川は体調が悪く土谷正実もサリン中毒、そのうえ防護服も処分していたため中和は断念し、保存されることになったという[51]。
中川以外の裁判では検察側の主張が認められたが、中川の裁判では事実上中川の主張が認められ、ジフロが残っていた理由や誰が持っていたのかについては不明と認定された。裁判によって認定が異なり、結論が出ていない[54][55][56]。
2010年(平成22年)2月22日、共同通信は、事件当時の警察庁長官だった国松孝次が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱのインタビューに答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した[57]。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ」と報道している[57]。
これとは別に、警察が事前にサリンが撒かれることを知っていたのではないかという指摘も存在する。事件の2日後の3月22日に予定されていた教団施設への一斉捜索に備え、地下鉄サリン事件の直前の教団幹部の動きはすべて警察によって把握されていたはずだという。また、事件前日に自衛隊が朝霞駐屯地でガスマスクを着けてサリンに対応した捜索の演習を行っており、警察は地下鉄サリン事件が起こる前にオウムがサリンを持っていることを把握していたはずとも指摘されている[58]。
また、1995年1月1日のスクープを出した元読売新聞記者三沢明彦によると、捜索は4月の統一地方選の後に予定されていたという[59]。
検察側は、地下鉄サリン事件が警察による教団に対する大規模な強制捜査を攪乱する目的であったと主張した[60]。裁判所は検察側の主張通り、「間近に迫った教団に対する強制捜査もなくなるだろうと考え」た、との認定をした[61]。
しかし井上嘉浩は、麻原の動機は捜査攪乱ではなく、自分の予言の成就のためだったと主張した[62]。井上は、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う」[63]、2015年2月20日の高橋克也の公判においても「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言している[64]。なお、リムジンに同乗していた側近も含めて多くの幹部信者たちが、「サリンを撒いたところで強制捜査がなくなるわけではないし、むしろ早まる可能性があると考えていた」と証言している[54][65]。
井上は証言がよく揺れており[注 49]、この証言について、井上が平田公判で初めて証言したとの批判があるが、実際は1996年11月8日の麻原公判で証言していると本人は主張している[66]。
また別の意見として、土谷正実は麻原信仰を続けていたころ法廷で「サリンの散布で国家転覆はできない」「大量殺人が目的とすれば、私なら(サリンと比べて合成がはるかに簡単な)青酸を使う」と語った[67]。
裁判で麻原と弁護団は弟子が暴走したと主張[68]。しかし麻原の地下鉄サリン事件への関与はリムジン謀議だけに留まるものではなく、ほかにも「(遠藤誠一に対し)ジーヴァカ、サリン造れよ」「ポアされてよかったね」「(犯行を目撃されたことを気にする豊田亨に対し)大丈夫だよ。見た人はいってるよ」と地下鉄サリン事件の発生をむしろ喜んでいるような発言を行っていることが裁判で認定され[7][69]、結局弟子の暴走説は認められず麻原は本事件の首謀者とされた。
死刑確定後も森達也らによって主張されているが[70]、森は判決文を意図的に無視し、リムジン謀議以外の麻原の関与をなかったことにしていると滝本太郎らに批判されている[71]。このほか、運転手役の一人である杉本繁郎からもありえないと指摘されている[72]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.