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大乗仏教の仏典 ウィキペディアから
般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう、梵: Prajñā-pāramitā-hṛdaya、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)は 空の理法をさとることが根本思想とされる大乗仏教の教理が、短いこの一巻の中にすべて納まっているといわれてきた経である。
般若波羅蜜多心経 | |
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はんにゃはらみったしんぎょう 梵: Prajñā-pāramitā-hṛdaya | |
漢訳された経 | |
基本情報 | |
宗教 | 仏教 |
作者 | 不明 |
言語 | サンスクリット語 |
般若波羅蜜多心経 at 中国語 Wikisource |
「色は空、空は色である」との一文は有名であり、大乗仏教の根底である二諦教義が凝縮されている。空の理法とは追究すれば限りがなく、『大般若経』六百巻のような大部の経が成立したが、この短い『般若心経』一巻にすべて納まる大乗仏教の精髄を示すものとして重要視され、常に読誦されてきた[1]。
仏教の全経典の中でも最も短いもののひとつで、日本では「色即是空・空即是色」の名句で親しまれ、古くは聖武天皇の時代から現代まで、複数の宗派における 読誦経典の一つとして広く用いられている[2]。
日本で広く流布している玄奘三蔵訳の正式な経題名は『般若波羅蜜多心経』[3]であるが、一般的には『般若心経』と略称で呼ばれている。これをさらに省略して『心経』(しんぎょう)と呼ぶ場合もある。なお、漢訳の題名には「経」が付されているが、サンスクリット典籍の題名は「Prajñā(般若)-pāramitā(波羅蜜多)-hṛdaya(心)」であり、「経」に相当する「sūtra(スートラ)」の字句はない。
日本の仏教の宗派によっては、単に「般若心経」「般若波羅蜜多心経」と呼ぶのではなく、冒頭に「仏説」(仏(釈迦)の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)の接頭辞をつけて、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『摩訶般若波羅蜜多心経』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)と表記することもある。なお、現存する最古の漢訳文とされる弘福寺(長安)の『集王聖教序碑』に彫られたものにおいては、冒頭(経題部分)は『般若波羅蜜多心経』と記載されているが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『般若多心経』(はんにゃたしんぎょう)と略されている[注 1]。
現存する最古のサンスクリット本(梵本)は東京国立博物館所蔵(法隆寺献納宝物)の貝葉本(東京国立博物館によれば後グプタ時代・7~8世紀の写本[5])であり、これを法隆寺本(もしくは法隆寺貝葉心経)と称する。(右図)漢訳よりも古い時代の写本は発見されていない。オーストリアのインド学者、ゲオルク・ビューラー(1837-1898) は、「伝承では577年に没したヤシという僧侶の所持した写本で609年請来とする。またインド人の書写による6世紀初半以前のものである」と鑑定していた[6]。古いもののため損傷により判読が難しい箇所が多く、江戸時代の浄厳以来、学界でも多数の判読案が提出されている。この他、日本には東寺所蔵の澄仁本[注 2]などの複数の梵本があり、敦煌文書の中にも梵本般若心経が存在している[7]。またチベットやネパール等に伝わる写本もあるが、それらはかなり後世のものである[8]。
1992年アメリカのジャン・ナティエ(Jan Nattier、当時インディアナ大学准教授)は、玄奘訳『般若心経』の本文が鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』と逐語的に一致することなどに基づき、誰かが羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』から『般若心経』をまとめ、玄奘が「観自在」や「蘊」など特定の術語だけを修正し、それを更にサンスクリット訳したという偽経説を提起した[9]。1994年7月に福井文雅が仏教思想学会10周年記念全国大会で反論を発表した[10]。これに対し、1995年に工藤順之は、ナティエの論旨に与するものではないと断ったうえで、(福井が)一方的に荒唐無稽な妄説として無視するのは公平な態度とは思えないとして、ナティエの学説の骨子を紹介している[11]。また仏教学者でありキリスト教の牧師でもある大和昌平によって1996年に紹介されている[12]。 これに対し福井文雅[13]、原田和宗[14]らにより詳細な反論が日本語によってなされている。
ナティエ論文の日本語訳が工藤順之・吹田隆道により発表されたのは2006年になってからである[15]。
その後、石井公成はナティエ論文の影響が欧米で継続していることに対し、異なった面からの批判を日本語で発表した[16]。
2016年に最古の玄奘訳の版とされる661年に刻まれた石経が北京で発見されたという報道があった。[17]。記事によれば「玄奘は漢文の心経を翻訳したか」という世界の学術界で長年に渡り議論されてきた問題[注 3]に、新たな参考情報をもたらしたとのことである[注 4]。
一般的には、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』が現存中最古の漢訳とされていた[18]。最古の経典目録(経録)東晋の釈道安撰『綜理衆経目録』(梁の僧祐撰『出三蔵記集』にほぼ収む)には、『摩訶般若波羅蜜神咒一巻』及び『般若波羅蜜神咒一巻 異本』とあり、経としての般若心経成立以前から、呪文による儀礼が先に成立していたという説もある。これらは、後世の文献では前者は3世紀中央アジア出身の支謙、後者は鳩摩羅什の訳とされているが、『綜理衆経目録』には訳者不明(失訳)とされており、この二人に帰することは信憑性にとぼしい。前者は現存せず、後者は大蔵経収録の羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』ともされているが、鳩摩羅什の訳経開始が402年であるため、釈道安の没年385年には未訳出である。またそのテキストの主要部は宋・元・明版大蔵経の鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』のテキストと一致するが、宋版大蔵経の刊行は12世紀後半であるため、このテキストが鳩摩羅什訳であるということも疑われている[19]。
西域から645年正月に帰国した玄奘もまた『般若心経』を 終南山翠微宮で649年に翻訳したとされている[20]。 しかし古来テキストの主要部分の一部が玄奘訳『大般若波羅蜜多経』の該当部分ではなく、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)からの抽出文そのものであるため、玄奘訳『般若心経』の成立に関し様々な説が出されている[21]。 また、古くから著名な玄奘訳のテキストとされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集王聖教序碑中の『雁塔聖教序』の後に付加されているテキストである。赤木隆幸[22]は、玄奘訳『般若心経』は『集王聖教序』の石碑に付刻されたことにより、玄奘の訳出経典を象徴するものとして位置づけられた等と述べている [23]。
大蔵経のカンギュルに入っている大本のチベット訳と、敦煌文書から知られる小本のチベット訳[24][注 5]からの2種が知られている。また、カンギュル入蔵本もタントラ部と般若部のものに分かれており、伝承の過程で細部が異なる[26]。
大蔵経に入蔵したチベット語訳大本・般若心経には大きく分けて2つの系統の写本がある。西のテンパンマ(them spangs ma)系統[注 6]と東のツェルパ(tshal pa)系統[注 7]である。西の系統にはさらにシェルカルゾン(shel dkar rdzong)系[注 8]が存在している[27]。特に東のツェルパ系統はプトン・リンチェンドゥプによる改訂を経ている[27]。
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現在までに漢訳、チベット語訳、サンスクリットにおいて、大本、小本の2系統のテキストが残存している。大本は小本の前後に序と結びの部分を加筆したもの[28]ともいわれている。鳩摩羅什訳および玄奘訳は、小本である。
現在最も流布しているのは玄奘三蔵訳とされる小本系の漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。
以下は、代表的な流布テキストである。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
— 玄奘三蔵訳 注:原文テキストは”小林正盛[注 9] 編『真言宗聖典』, 森江書店, 大正15, p.114”。旧字体を新字体に改める。呪と咒の表記揺れはすべて呪に統一した。また、句読点を除去した。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄
舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得
以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経
また、玄奘訳とされるテキストには版本によって、例えば下記の箇所のように、字句の異同が十数箇所存在する。
なお、以下では教学用語に対する言及をわかりやすくするために注を加えた[30]。
一切智者に
敬礼 する
観自在菩薩は、深遠なる「智慧の完成」の修行を行じていたとき、五つの要素(五蘊)がある、と見られた。そしてそれらは本性が空であると見抜かれた。
シャーリプトラよ、この世界では、物質 とは空性 であり、空性とは物質にほかならない。物質と空性は別々のものではなく、空性は物質と別々のものではない。
物質であるもの、それは空性であり、空性であるもの、それは物質である。
感受作用(受)・概念作用(想)・意志作用(行)・認識作用(識)(=五蘊)も同様である。
この世界では、あらゆる現象は空性を特徴とするものであり、生ずることもなく、滅することもない(=不生不滅)。汚れることもなく、汚れを離れることもない。欠けることもなく満ちることもない。
シャーリプトラよ、それゆえに空性にあっては、物質はなく、感受作用、概念作用、意志作用、認識作用はない(=五蘊はない)。
眼耳鼻舌身意の六つの認識器官もなく、色声香味触法の六つの認識対象もない(=十二処はない)。
眼に映る世界はない。さらに心の認識する世界もない(=六根六境六識の十八界はない)。
知識は存在しない[注 10]、迷いや煩悩もない(=十二因縁の順観はない)。
知識が消滅することはなく[注 11]、迷いや煩悩の消滅もない(=十二因縁の逆観もない)。
苦・集・滅・道(=四聖諦)はない。
(真理を)知るということもなく、(悟りを)獲得するということもない。
それゆえ、(悟りを)獲得するということがないので、菩薩(たち)の「智慧の完成」を頼りとして、(菩薩は)心を覆うものなく(安住して)過ごしている。
心を覆うものは何もないので、恐れがない。顛倒(した見解)から離れており、(無住処)涅槃に住している。
(過去・現在・未来の)三世の全ての覚者(仏)たちは「智慧の完成」を頼りとして、無上正覚の悟りを得ている。
それゆえに知るべきである。「智慧の完成」は大いなる真言(mantro)であり、大いなる明らかな智慧の真言であり、この上ない真言であり、すべての苦しみを鎮める。
それは、並ぶもののない真言であり、誤つことなきがゆえに真実である。「智慧の完成」において、真言が誦される。
すなわち(tadyathā)、
- gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!
- (行った、行った、向こうの岸に行った[注 12]。向こうの岸に完全に至った。悟りよ、幸いあれ!)
と。
般若心経の解釈には、(1)空思想をコンパクトにまとめた正統的な般若経典とする立場と、(2)真言をその主要部分と見て、他の部分は真言を引き立てるための従属部分とする密教的解釈の二つの立場がある。
一般に般若心経も空思想を主題とする般若経典の一篇であり、その核心部は「色即是空・空即是色」等を説く散文部にあるという説が常識とされている。[注 13][注 14]
一方、真言の威力と功徳を説くことが般若心経の核心であるという主張もある。末尾の真言(マントラ)を散文部分への付記と見るのではなく、空観を説く前半部分は後半部分への伏線、前提になっていると見なすべきであるということである。[注 15][注 16][注 17]
末尾の真言(マントラ)については、その位置づけや意味について、仏教学者の渡辺照宏説、中村元説、宮坂宥洪説など、様々な解釈が示されてきたが、竹中智泰は、『般若心経』の陀羅尼に関する文献学的解釈は下記の4つにつきるのではないかと述べている[37]。
阿理生(ほとりりしょう)は、仏教混交梵語とヴェーダ語文法を混在させた独自の解釈を主張している[41][注 18]。ヴェーダ語文法とプラークリット文法を混在させて解釈するのは、両者に近縁性があることがリヒャルト・ピシェルにより指摘されているからだという[44][注 19]。
日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。
般若心経は、サブカルチャーも含めた現代文化でもモチーフとしてよく使われる。
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