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日本の俳人 (1882 - 1940) ウィキペディアから
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)[1]、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い[1]。
山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して
自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある[2]。
なお、「山頭火」とは納音(なっちん)の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。また、「山頭」の定義には「火葬場」も含まれている[3][4]。このことから、「山頭火=火葬場の火」と解釈できるという説もある[4]。山頭火がこの意味を意識して名前を選んだ可能性について、山頭火の母親の死との関連性が指摘されている[4]。山頭火には「燃え上がる火山」という意味もある[1]。
30歳の頃には、ツルゲーネフにかなり傾倒し、山頭火のペンネームでいくつかの翻訳をこなしている。金子兜太によれば、山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父セルゲイ・ツルゲーネフに「なんとなく似ている」という。セルゲイは騎兵大佐で美男子で体格がよく、意志薄弱で好色で利に聡い上、結婚も財産目当てであった。竹治郎はセルゲイよりもお人好しではあったが、目の大きい寛容の相の人だったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。冷ややかで好色、意志薄弱という特徴はセルゲイと共通していた[5]。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。その時には既に無一文の乞食であったが、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった[6]。
そこには、旅立ちにあたり「過去一切を清算しなければならなくなってゐる」(『行乞記』昭和5年9月14日)など、流浪や句作への心情が記されている[1]。
故郷の防府市には山頭火の句碑が83あり、2017年には山頭火ふるさと館が開設された[1]。山口市では1992年に其中庵が復元されている[1]。
山頭火の生き方を彷彿とさせるような表現者を顕彰するため、春陽堂書店が2018年に創設した[23]。選考委員は山田五郎、中江有里。
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