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京都市下京区にある仏教寺院 ウィキペディアから
西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
西本願寺 | |
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所在地 | 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60 |
位置 | 北緯34度59分31.37秒 東経135度45分5.8秒 |
山号 |
龍谷山 豅山 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
寺格 | 本山 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 |
大谷本願寺 - 元亨元年(1321年) 西本願寺 - 天正19年(1591年) |
開山 |
大谷本願寺 - 覚如(本願寺第3世) 西本願寺 - 顕如(本願寺第11世) |
中興年 | 文明3年(1471年)頃 |
中興 | 蓮如(本願寺第8世) |
正式名 | 龍谷山 本願寺 |
別称 | お西さん |
文化財 |
御影堂、阿弥陀堂、飛雲閣ほか(国宝) 経蔵、鼓楼、書院等、絹本著色聖徳太子像ほか(重要文化財) 本願寺境内(国の史跡) |
公式サイト | お西さん(西本願寺)ホームページ |
法人番号 | 1130005000477 |
文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。
2023年より銀杏と御影堂、阿弥陀堂の2つのお堂をモチーフにしたブランドロゴとともに、「人はひとり。だからこそ、ご縁を見つめたい。」をタグラインとして定めている[1]。
天正19年(1591年)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。宗祖親鸞の廟堂は、慶長8年(1603年)に東山五条坂西大谷に移り、現在「大谷本廟」となっている。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。この時、江戸幕府内では本願寺派法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺派法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった、ということになっている。しかし、教如は以前から石山合戦以来の自らの派(後の大谷派)を有しており、宗派内部はすでに完全に分裂状態にあった。
分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。
幕末の元治2年(1865年)3月、京都を守る剣客集団新選組が境内にある北集会所と太鼓楼に屯所を移し、慶応3年(1867年)6月までその本拠地とした。
現在まで境内地に大きな変化は無いが、1876年(明治9年)に興正寺が真宗興正派として独立した際に、南境内地を割譲している。
宝永8年(1711年)に南総門として作られた総門は3回に渡って移設されている。1898年(明治31年)に境内への類焼防止のために、堀川通側に池や緑地(風致園)を整備するため移設、1911年(明治44年)に池を埋立て広場として再整備するため移設、1959年(昭和34年)の堀川通拡張工事により現在地に移設している。なお、北総門は太鼓楼付近にあったが、本願寺吉崎別院に移設されている。また、新選組が屯所としていた北集会所は、1873年(明治6年)に兵庫県姫路市にある亀山本徳寺に移築され、その本堂となっている。
本願寺の北には日蓮宗大本山本圀寺の境内が隣接しており、両寺の間に道などはなかったのであるが、付近の住民の訴えにより、住民の負担で、島原から大宮通までで止まっていた花屋町通をさらに大宮通から堀川通にまで伸ばす形で新たに道路を開く工事が行われ、1882年(明治15年)に竣工した。
1971年(昭和46年)に本圀寺が山科区に移転した。その後、1986年(昭和61年)になって本願寺はその旧本圀寺境内地を取得して新たに「本願寺北境内地」とした。現在はその敷地内に聞法会館を建てるなどして、主に駐車場として使用している。本願寺の寺基自体は400年以上に渡り移転していない。
1987年(昭和62年)真宗大谷派(東本願寺)は「宗教法人 本願寺」を解散し、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されて直属の宗教施設とされ、「真宗本廟」と改称した。これ以降厳密には本願寺は下京においてはこの本願寺(西本願寺)のみだが、現在でもこの通称は用いられている。
2011年(平成23年)4月9日より翌2012年(平成24年)1月16日まで、本願寺御影堂において親鸞聖人750回大遠忌法要が修行された。
国宝。境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」あるいは「御物見」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸時代初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年(1638年)成立、延享4年(1747年)増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく、建築史からは否定的意見が多い。一方その1階平面が大書院対面所に共通するから寛永年間(1624年 - 1645年)に本願寺により建てられたのではないかとする説も唱えられたが(平井聖)、飛雲閣1階は一列型書院造の形を示し、一方対面所は3列型で先に触れたように真宗の本堂建築のスタイルを踏襲していると考えられる。こうしたことから両者が似るとするのは無理があり、さらに建築時期、建築理由など十分な説得性にも乏しく、定説とはいえない。飛雲閣を数寄屋と見た場合、元和年間(1615年 - 1624年)創建の桂離宮古書院と比べて洗練さに欠け、また明らかに古様である。さらに寛永期は元和3年(1617年)の大火災からの復興途上の経済逼迫期に当たり、このような遊興的な建物を新築したとは考えにくい。これらの点からも寛永期創建説には疑問がある。近年、付属建物である黄鶴台(重要文化財)から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見され(鶴岡典慶報告)、これが移築の時期を示すのではないかとの推測から、秀吉の京都新城、後の高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇の仙洞御所造営(寛永4年(1627年)着手)に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説も登場した[2]。
1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。本来障壁画で飾らるべき上段床の間背面の壁が大障子となっている点や上段が部屋の中心軸上になく北側に寄っている点が特異である。柱や長押は角材を使っており数寄屋の手法は見られないが、これら上段や上々段には数寄屋の趣きが濃厚である。招賢殿の背面から渡廊を介して西側に黄鶴台が建つが、これは浴室の機能を有し、創建当初から飛雲閣と一体となって庭間建築を形成していたものと考えられる。憶昔席の部分のみは建築年代が明確で、寛政7年(1795年)、茶人の藪内竹陰らによって増築されたものである。これら主室の南側には厨などが付帯する。本来こうした火気使用エリアは廊下を介して別棟とすべきだが、ここでは主屋と一体化しており、本願寺飛雲閣成立時の事情の一端がうかがえる。
2階の歌仙の間は、西側8畳の上段、東側16畳半の下段からなり、上段背面の壁には1階招賢殿と同様障壁画はなく窓が開けられている。隅には喫茶の用に供したものと推測される丸炉が切られている。下段三方の板戸の内外には御簾の下に座す三十六歌仙の像(現状は三十四歌仙)を華やかに描き、天井は金具に飾られた格天井、長押も格調高く打ちまわしており、総じて御殿風の趣きがある。2階へは八景の間横からの階段のほか厨からも上がれるようになっている。
3階は摘星楼と名付けた8畳で、長押は打たず天井も低い草庵風の意匠となっている(ただし天井は鏡天井)。奇木を床柱にした一畳の出床が設けられているがこれは後補。各階の主開口部はいずれも北に開けられており、特に1階の書院が南側に全く開口部を持たないのは書院造としては他に例がなく、また我が国の住宅建築の原則からも外れている。このことが元々南向きであったのではないかとの推測を生み、先に述べた「移築説」の根拠の一つとなっている。
なお、元禄時代(1688年 - 1704年)の状況を示すと考えられる1階平面図(本善寺所蔵)により、現況では北縁側(入り側)に設けられている腰障子はなかったと判り、当初の北からの姿は今より凹凸に富んで見えていたと考えられている。
飛雲閣は原則非公開であるが、外観のみ期日を限って特別公開される。また毎年5月21日の宗祖降誕会の際には室内に茶席(有料)が設けられる。
境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、境内は1994年(平成6年)に国の史跡に指定され、同年12月にユネスコの文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されている[注釈 1]。
建物の配置と構造は東向きを原則とする真宗建築となっている。
花屋町通を挟んで北側にある。かつて日蓮宗大本山本圀寺があった所である。1971年(昭和46年)に本圀寺が山科区に移転した後、1986年(昭和61年)に本願寺の境内となった。
建造物
美術工芸品
※ 典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
西本願寺の住職は、浄土真宗本願寺派の門主を代々務めている。2024年1月時点、第25代門主釋専如(大谷光淳)が本願寺住職である。
なお、宗教法人「本願寺」としての代表役員は本願寺執行長を充てる[13]。
代表的な別院
西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。
参詣者や観光客が多いことから、門前町が形成されている。西本願寺御用達の仏具店や和菓子店などの老舗は「開明社」という団体に組織されており、信徒として報恩講などに参加する[14]。
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